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【短編】第16話 生きがいのない女、死にがいのない男(前編)

 警告音とともに駅の自動改札口の扉が閉まった。俺は一瞬ヒヤリとしたが、そんなはずはないとその扉を「すり抜け」た。後ろを振り返ると、首をかしげながらICカードを改札機に当て直している中年の男の姿があった。
 そう、そんなはずはない。俺は自嘲するように苦笑を浮かべ、再び前を向いて、ホームに向かう「女」の背中を追った。

 高円寺駅を降りて、乾物屋のあった商店街を通り抜け、歩くこと十分。女の一人暮らしには決して安全とは言えない木造アパートの二階部分の一番奥に女の部屋はあった。既に秋の空は暗く、風は冷たくなってきている、はずだ。
 女に続き、俺は部屋の中へ入った。殺風景な八畳一間。家具と言えばベッドと、小さなテーブルと、テレビ、タンスくらいしかない。女の性格なのか、部屋は綺麗に片付いていて、それがいっそう部屋を物寂しくしている。
 女はベッドに腰掛け、先ほど郵便受けから取り出した郵便物を振り分けた。殆どはゴミ箱へ向かったが、振込用紙の入った封筒は、タンスの上段の引き出しに仕舞われた。
 俺はそのタンスの横、ちょうどベッドの足下にあたる「定位置」に立って、女を見つめていた。
 女はスーパーで買った総菜を温め、自分で野菜炒めを作ってから、テレビの前で黙々と食べた。食事は美味しいのか不味いのか、テレビは面白いのかつまらないのか、女の表情からは分からない。いつもそうだ。その退屈な食事風景を、おそらく俺も同じような表情をしながら、定位置で眺めていた。女は食器を洗い、片付けると、シャツとスカート、ストッキングを脱ぎ、下着姿で浴室へ向かった。俺もその後を追う。
 女がシャワーを浴びている間、俺は空っぽのバスタブの中に立って、女を眺めていた。軀の線は細く、胸や尻も薄い。およそ母性を感じられない。右の足首と左の鎖骨に、古い大きな傷跡がある。その女の軀を俺は決していやらしい気持ちで眺めている訳ではない。長時間の間、目を背けることはできない。そういう、ルールなのだ。
 髪を乾かし終わり、顔に安物の化粧水を塗ると、これ以上自分の顔を直視したくない、とでも言うように乱暴に鏡の蓋を閉じて、再び女はテレビの前に座った。VODのモキュメンタリー番組を、能面のような顔で眺める女を、俺はタンスの横に立って眺める。一時間ほどして、女はベッドに潜り込むと、少しの間スマートフォンをいじって、照明を消し、眠りについた。
 俺は女の寝姿を足下からずっと見ていた。
 夜が明けるまで。

 八年前の今頃、俺は空から落ちてきたこの女に直撃し、首の骨を折り、頭の中が出血し、死んだ。八階建てのオフィスビルから身を投げた女は、不幸にも俺のせいで死ねなかった。一瞬の出来事で、何が起こったのか俺には全く把握できていなかったが、奥深い感覚では、今ここにある深い悲しみと喪失を理解していた。
地に伏せ、消えゆく意識の中、俺の目の前には同じように地面でぐったりとしている女の顔があった。女と目が合った。女は泣いている。俺は血の溢れる目でその女を睨み付け、女を恨み続けることを誓った。

 気がつくと、俺は現場である八階建てのオフィスビルの前に立っていた。人々が俺の前を往来し、俺にぶつかることなく「すり抜け」ていった。俺は地縛霊のようなものになったことを悟った。血の海だった現場は何事もなかったかのように綺麗になっていて、一時期置かれていた花やペットボトルも、二年もすればなくなっていた。
 俺は往来する人々をぼんやりと眺めていた。オフィス街のため、毎日ほとんど同じ時間に、同じ人々が歩いている。俺はそんな人たちの、服とか、髪型とか、その日の細やかな表情の移ろいとか、そういったものを眺め、立っていた。唯一、心の動く時間だったのは、婚約者だった真奈を見かけるときだった。真奈とは同じ会社で働いていたので、朝と夜、ここを通るのだ。俺が死んでからまもなく、真奈は明らかに憔悴した顔でこの通りを歩いていた。彼女の姿を見るのが少しだけうれしく、そしてとても辛かった。一年ほど経つと、彼女の姿を見かけなくなった。俺は彼女の未来に思いを馳せながら、流れない涙を流した。

 五年が経った。
 俺は時代遅れの服を着たまま、五つ歳をとった人々の姿を眺め続けていた。感情は薄くなり、思考する時間も少なくなっていた。存在したまま消えていく感覚、しかし決してゼロにはなれない確信の狭間にいた。
 ある日、俺の前にひとりの女が現れた。長い髪は水分を失い、同じように皮膚も乾いていた。春の陽気に全く似合わない女だった。その女が、俺のことが見えるはずないのに、俺の前に、いや、正確には、あの現場の前に立っていた。
 女は深く頭を垂れて、俺の見る前で細い手を合わせた。どれくらいそうしていたか分からないが、女が顔を上げた。一重の薄い目、薄い唇、色素の薄い皮膚。五年の歳月が流れていたが、俺は決してその目を忘れたことはなかった。あの日、空から落ちてきた女の目だった。
 女はもういちど深く頭を下げると、その場を離れた。その女を目で追った瞬間、俺の体の重力がふっと抜けるのを感じた。体を動かす。歩ける。しかし、何かおかしい。決して自由に自分の体を動かせている訳ではない。何だか、強い風が自分の背後から吹いていて、その風は、女の背中へ向かっている。歩けば、俺は女のもとへと近づいていく。俺はしばらくの間、そうやって女の背後を歩いた。当然だが、女は俺に気付かない。女がバス停の前で止まり、バスを待つ。俺も歩みを止めた。
 そのとき、背後から吹いていた風がやんだ。辺りが急に暗くなり、それなのに、空だけがひときわ明るく輝いた。俺は空を見上げた。眩しい。
 バスがやってきた。女がそれに乗り込もうと列に並んでいる。俺はその女の横顔を見た。虚ろに投げ出された瞳。俺はその瞳を見ながら、思い出していた。あの時の、恨みを。一瞬にして全てを奪い去られた、悲しみと怒りを。俺はもういちど輝く天を仰いだ。
 俺は深い息をひとつ吐き、女と同じバスに乗り込んだ。

 女の背後を追いかけるようになって数ヶ月。俺はこの女がなぜオフィスビルから身を投げ、そしてその後の五年間なにをしていたか、断片的に知ることができた。
 当時、女は二五歳で、俺のオフィスの近くのイベント会社で働いていたこと。
 上司の男といわゆる不倫の関係となり、体と金を貢いだこと。
 その金のために、会社の金に手をつけたこと。その額が、もはや後戻りできないものになっていたこと。
 上司の男から突然見切りをつけられたこと。
 偽りの愛を失い、横領がいつ明るみにでるか分からない状況に絶望したこと。
 実家の母に遺書を送り、身を投げたこと。
 奇跡的に一命をとりとめたが、「事故」と「殺人」をコールする世論の的となったこと。
 責任に耐えかねた女の父が自殺したこと。
 「重過失致死」という罪状をうけ、五年間の服役生活を送っていたこと(そのうちの一年間は傷のリハビリ生活に費やされたこと)。
 横領先の会社は、彼女に同情し、少しずつ金を返すことで罪には問わないとしたこと。
 刑務所を出て、大阪から東京へやってきたこと。
 東京の介護施設で事務の仕事に就いたこと。
 履歴書の空白の五年間は結婚して家庭に入り、その後、離婚したと説明したこと。

 阿佐ヶ谷駅の北口を少し歩いたところに、女の新しい職場はあった。タイムカードを入れ、フロアの職員と無機質な挨拶を交わし、女はデスクに座り、書類を作り、施設内の備品を補充し、デスクに戻ると、持参の弁当を食べた。俺の職場での「定位置」は、女のデスクの左隣にあるコーヒーメーカーの側だ。
 女のランチタイムを眺める俺を「すり抜け」て、同僚の野原が女に近づいてきた。
「小牧さん、食事中にごめんね」
野原は女より三つ年上の女性だ。女が返事代わりに顔を上げる。
「来週の金曜日、介護部の人たちと阿佐ヶ谷のコトノハに行こうと思ってるんだけど、ほら、たまに雑誌にも載る中華料理屋さん。よかったら小牧さんも行かない?」
「ああ、コトノハ、有名ですよね。けど、私は、遠慮しておきます」
抑揚の薄い声で女は答えた。俺は女が誰かと食事をするのを見たことがない。
「やっぱり。そう言うと思ったけど、今日はここであきらめるわけにはいかないんだよね」
 野原が顔を近づけてくると、女は少しだけ怪訝な顔をした。
「介護部の本山君が、いちど小牧さんとご飯食べたいって。本山君、知ってるでしょ?」
女はうなずいた。本山君は俺も知っている。介護部にいる、去年入職したばかりの二〇代の青年だ。そして、俺に次いでこの女の姿を探し回っていることを、知っている。
「本山君、わりと人当たりいいし、ちょっと髪薄いけど・・・、あ、ごめん。気が進まなかったら、席遠ざけるようにするから、まずは様子見って感じで、どう?」
「すみません、私は・・・」
拒否の無言を貫き、女は目を伏せた。野原は肩をすくめると、
「だよねえ、小牧さんは難攻不落だって、本山君には言ってるんだけどね」
野原が去ると、女は安堵の表情を浮かべて、再び弁当を口に運び始めた。そんな女を眺めながら、俺はこの女のどこに魅力があるのかを考えていた。色や幸の欠片もないこの女は、本山君の介護の心を沸き立たせるのだろうか、などと考えていた。

 高円寺駅のスーパーで食材を買い、月に一度、それなりの金額を銀行で振り込み、家に帰って些末な食事をし、シャワーを浴び、テレビかスマートフォンを見て、寝る。暗闇の中で、死人のように寝相のよい女の寝息を聞きながら、俺はずっと立っている。

(後編へ続く)

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