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CDで音楽を聴いて思うこと。

新しいステレオを組んだ。
パワーアンプとCDプレイヤーとレコードプレイヤーをそれぞれで繋げて、ケーブルをスピーカーに繋いだ。
母方の祖父から、色々家のものを処分していきたいのだが捨てるには勿体無いものだから音楽が好きな君に、と電話を貰ったので、部屋に置き場などないのに、欲しい、と返事をしたのだった。
僕が元々音楽を好きになった中学生ぐらいの時に中学生にしては立派なステレオを父親が買ってくれた。それでたくさんの音楽を聴いてきた気がする。
それは愛着もあって処分しなかったので僕の部屋にはステレオが二組あることになった。
祖父のやつは古いのでBluetooth接続ができないので、おそらくは、スマホのプレイリストで聴きたい時は前の、CDやレコードをアルバム単位で聴きたい時は祖父のを、と使うことになるだろう。

僕はiPod世代でレンタルCDを落とし込んで聴いてきて、すぐにサブスクの時代になったから、CDの類は持っていないので、中学生の時にそうしていたように、父親のコレクションを漁った。
引っ越した時に大分処分したのだろう、昔の記憶にあったものがなかったりする。
それでも名盤は捨てていないから、ボブディランやらビートルズやらストーンズやらは揃っている。ここら辺はただ流しているだけでも満足できるから良い。
母親の趣味のも何枚かある。小沢健二、フリッパーズギター、ジャネット。
サブスクにないから僕の中で知っているけど普段は思い出さない音楽もある。特に山下達郎などあそこらへんの音楽が何枚かあって嬉しい。確か、ブルーハーツもサブスクに無かったような気がする。中学生以来あまり聴かなくなってしまった。父親がいまだに車で清志郎を聴いていることが僕にとってはよく分からない。

しかし父親はレコードは全部実家に置いてきて処分されているし(父親は出来ればレコードで聴く人間だった)働き始めた三十年前ぐらいからの音楽はパッタリ無くなっている。
そして二十年前ぐらいから子供の僕や姉が聴くような音楽が何枚か買ってある。あぁ、宇多田ヒカルの「ぼくはくま」は子供の頃本当に好きだったな、と懐かしむ。

僕は物欲はないけれど収集癖は少しある方で、子供の頃は毎月一冊買って漫画を全巻揃えることが趣味だった。平成のジャンプ漫画は長期連載のものが多かったからよく集めたと思う。当時は僕の生活にネットなんてものはなかったし、周りの読むようなワンピースやナルトならまだしも、昔の漫画は誰にもネタバレされずに毎月何度も一冊を読み返して次を楽しみに読めたことはとても貴重な体験だったような気がする。

CDやレコードもこれからちょくちょく買うことになるだろう。置き場所がないんだけど。置き場所がなくて金もないから本もあまり買わなくなって図書館ばかり使っている。本棚は頭の中と大体一緒だから、やはり揃えていきたいのだけれど。しかし最近本は高すぎる。純文学が読まれなくなっているから最早五大文芸誌も僕の好きな文庫も慈善事業みたいに感じることもある。街の本屋に行くと、自分の思う小説と本屋の売りたい小説の解離にビックリする。


CDでビートルズを年代順に粗方聴いてみたけれど、こういう聴き方は久しぶりにした気がする。
曲ごとに聴けないという制限がコンセプトアルバムだったり全体としての作品を作っている。
レコードはないからまだ聴けていないけれど、A面とB面をひっくり返すからヒアカムズザサンがある、というのを今一度確認する。


音楽は聴く媒体の変化によってアートフォームとしてドンドン変わっている。これって少し面白くて、他のジャンルにも言えることがある。
映画はずっとスクリーンで観るものだったのが、VHSや DVDの台頭によって、家のテレビで見れるものになったし、個人が所有することもできるようになった。そのレベルだと、やはりスクリーンじゃないと分からない陰影とかもあるから、皆んなはスクリーンで体験したい、と思っていたんだろうけど、配信サービスの出現でもっと変わってしまった。
個人の所有の時代も終わって、見放題のものになり、より情報の側面が強くなった。パソコンは画質も上がっている。僕は映画を専門にしているからパソコンの画面よりはスクリーンで見た方がいいだろう、と思うけれど、人々はそうは思わないだろう。名作もソフトだったら高いものが見放題だし、名画座に行く習慣がない人もいるだろう。

その媒体の変化で映画も変化している。ハリウッド映画は最近大長編が多いのだけれど、それはシナリオで何個かセクションを作って、家でパソコンで見る時に区切れるようにするためらしい。また大予算の映画ほど思うのだけれど、多分スクリーンとパソコンの画面で色彩に変化を感じられるような絵作りはしていない。これはちょっと凄いことだな、と思う。ファスト映画とか上映中にスマホを見たくなる話とかもあったけれど、映画は最早そういう存在になっているんだ、と素直に驚いた。

映画の体験は、アニメ映画を特典付きで何回もリピートするものになっていたり(これは君の名は以降に流行した見方だ)劇場の音響で観るドルビーアトモスだったり、大画面のIMAXだったり、アトラクションのような4DXだったりする。
先に挙げた山下達郎やブルーハーツのように、配信されていない映画も、映画史からは、少なくとも映画好きではない殆どの人々の記憶からは、抜けていくだろう。今の中高生から見れば、山下達郎は炎上しやすい爺さんだし、ブルーハーツの青春は時代遅れだろう。

もちろん映画人としての僕はそれは避け難いけれど悲しい現実だと思う。特に僕に青春をくれたスピルバーグやスコセッシはそれにNOと強く言っている。多くの映画祭の中心の人々もそうだっただろう。アカデミー賞でさえ配信作品が作品賞を取るのに随分と時間がかかった。

しかし、僕はもう映画はそれを受け止めて作っていくしか、映画が生き残る術はないだろうと思う。
その変化は緩やかに確実に今までの映画のあり方を殺すことになるだろう。僕の好きな映画の多くは家で観てられないけれど劇場だったら観れるみたいなものも多い。
こんな中で僕の尊敬する作家たちは劇場に耐える作品を作っているし、僕もそうありたいけれど、映画界自体はそうはいかなくなっているし、これを前向きにしていかないと、どんどん村社会になってしまうような気がする。
大学で教師が言っていたんだけれど、昔は映画を沢山観ていることは言論に参加する第一条件だったそうで、これって少し面白い。
映画の良いところは馬鹿でも見れることで、前提知識もいらないのに、観た後随分と何かを得たような気分になれるところだ。
音楽をアルバム単位で聴く人が随分と減ったように、映画館に足繁く通う人も随分と減ったのだろう、そういう楽しみ方もまた、もはや最近の僕のように、夏の外着に浴衣を着て楽しむようなノスタルジーを含むのかもしれないけれど、それこそがカルチャーの大事なところではあった。
しかし今もこれからもそうはならないだろうし、作り手としてはそれを引き受けていかなくてはならないだろう。
そればかり重視するのは、もはや教養主義みたいになりかねないし、マチズモとも繋がりかねない。
そんなことをなんとなく思った。

まだ大学の近くのレコードショップにナンバーガールのファーストがあれば、それをコレクションの第一号にしようと思う。
ブルーハーツのラブレターという曲に、新しいステレオを注文したよ 僕の家に遊びにおいで という歌詞があった。
少し前にネットミームで、男が誘い文句に、うちでネットフリックス見ない? というものがあったけれど、もう皆んな何かしら入ってる時代になった。
僕は現在を変える力がないから基本的には現在を受け止めていくつもりだけれど、やはりそれだけでは辛いから、ノスタルジーを含めて、誰かを家に誘って、CDでも聴きたいな、出来れば相手の好きなものを、と思う。

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