「健常者/障がい者」ではなく、「健常(状態)/障がい(状態)」と流動的にとらえる

たまに書いたり、発信したりするが、我が家には2人の自閉症児がいる。彼らはいわゆる障がい者であり、先天的な障がいだ。

仕事では、かつて「いわきの地域包括ケア igoku(いごく)」という高齢者福祉のプロジェクトを手掛けていた。福祉とは縁もゆかりもなかった、福祉の外側から、高齢者の皆さんが集まる集会所、医療介護の専門職の勉強会など現場へ直接足を運びながら、話を聞き、教えてもらい、感じ、考えたりしながら、Webやフリーペーパーで発信し、直接体験型のイベントなども企画してきた。

「老い」や「人生の最期」から目を背けずに、縁起でもないというタブーを乗り越えるべくプロジェクトを展開していくうちに、人は望むと望まざるとにかかわらず、生きてく中で、病気にもなり、身体的に誰かの支援が必要になったり、認知症になったりするという、ごく当たり前のことに気づいた。

早いか遅いかは別にすると、人はいつかは、誰かの支えが必要なる、誰かのお世話になるのだ。仮に誰かの支えが必要な状態を「障がい」とするなら、語弊を恐れずに言えば、人はいつかは誰しも障害者になりうるのではないだろうか。

健常者と障害者という言葉があるが、これは、私とあなたというように固定的に人を区分するものではなく、「今、健常者でいるあなた」・「去年から障害者になった私」というように、時間の流れの中で変わりうるものなのかもしれない。

人は能力や才能や努力や環境で、得意不得意やパフォーマンスの優劣があるが、それも先の話と同じように、固定的なものではなく、一種の「フロー」だと考えてみると、歴史上の偉人や、私やあなたのまわりにいるちょっとすごい人も、「すごい人」ではなく、「今、すごいパフォーマンスを発揮している状態」であるということかもしれない。

「すごい人」という人がいるわけではなく、「すごいパフォーマンスを発揮している状態」。

「いやいや、私の知ってるあの人は、ずっとすごいから、あの人はすごい人なのだ」という言い分もあるかもしれないが、それもやはり、すごい人なのではなくて、「長期間にわたって、ずっとすごいパフォーマンスを発揮/維持している状態」なのかもしれない。


固定的ではなく、流動的にとらえること。

「強いもの、賢いものが生き残るのではない。変化できるものが生き残るのだ」
「この世で変わらないのは、変わるということだけだ」

なんて言葉もあるし、なにより、固定的でなく、流動的なものだと私もあなたもみんながそう認識すれば、私もあなたもみんな生きやすくなるんじゃないかなぁと思う。

日本とインドの似て非なる言い方の一例がある。

日本では「他人に迷惑をかけてはいけない」と言う。

インドでは「人は他人に迷惑をかけずに生きていくことはできない。だから、他人には優しく、寛容であれ」と言うそうだ。

個人的にはインドの言い回しが大好きです。なにより生きやすい。そして、よりポジティブだと感じる。

「○○してはいけない」と互いに禁則で縛りあうのではなく、お互い様の精神で互いに支え合う。絶対、こっちの方がよくないですか?

そして、この日本とインドの考え/言い回しの違いの根底に、人に対する固定的/流動的な捉え方の違いがあると思う。

人はよくも悪くも変化していくもの。変化せざるをえないもの。だから、誰かを支えることもできるし、誰かに支えられる時も来る。

そんな当たり前のことに抗うかのように固定的にとらえ、さらには「他人に迷惑をかけてはいけない」と禁則でしばる。

これが、「自己責任」や「イエの中のことはイエの中で対処しろ」という重さにつながっていくんじゃないだろうか。

「○○してはいけない」は「○○でなければならない」につながっていく。

「他人に迷惑をかけてはいけない」は「障がい児は親がしっかり見なければいけない」につながる。「認知症の親は、家の中で家族がしっかり見張っておけ」につながる。

「イエの中」に閉じ込める。社会に、近所に迷惑をかけないように。でも、85歳以上の4人に一人が認知症になると言われている今、全国にいったい何軒の家が、そんな苦しい思いを抱え込まなければいけないんだろう。今は関係ないと思っても、私もあなたも、いつかは同じような状況になるかもしれないのだ。

自身が脳性麻痺の障がいを生まれながらにお持ちの熊谷晋一郎先生の「自立と依存」の話が大変興味深い。

一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。

https://www.tokyo-jinken.or.jp/site/tokyojinken/tj-56-interview.html


一見すると、「自立」と「依存」は対極にあるように思うが、熊谷先生のこの「自立とは依存先が多い状態のこと」というお話は驚きとともに、胸がスッと軽くなる感覚も持った。

「迷惑をかけてはいけない」「家族が面倒を見なくてはいけない」は、いかに真逆に逆行していることか。


健常者/障がい者という固定的な括り方ではなく、健常「状態」/障がい「状態」と流動的にとらえること。

人は誰しもいつかは、誰かに支えられ、誰かのお世話になりうること。

だから、互いに流動的にとらえ、認め、支えあうこと。

自己責任や「○○でなければならない」から解放され、開かれていくこと。

生まれながらに、自閉症「状態」にある二人の子を持つ親として、そんな社会は、私もあなたも、我が子たちもきっと暮らしやすいだろうなぁと思っています。


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