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原理は覇権を行使する

2019年9月26日文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を交付しないと発表した。https://www.huffingtonpost.jp/entry/aichi-triennale_jp_5d8c4af3e4b0019647a2fb1c

今もSNS、マスコミを問わず議論が盛んに行われているが、国が公費を使い文化事業を経営する際、必ず論じられるのは以下の三点である。

①憲法二一条に則り表現の自由を守り、検閲してはならないという国家原理
②公金の支出は大多数の民意に沿ったものであるべきという民主主義の要請
③パトロンは雇われた者に対し成果物の内容を指示することが当然という資本主義の常識

この三つの「正論」はお互いに相反する側面をもつので、必然的に分断が生まれる。どの勢力に組みするか、それは既存体制内のポジショントークである。

※そもそも、憲法で芸術は規定できず、民意と多数決では作品の質的評価はできず、カネは芸術を無化する。この枠組みでポジショントークをやって意味のある結論が得られるわけがない。

憲法は公共性が最大限になるよう配慮されているが、改憲が可能であるゆえに、同じく建前の一種としてみなされるべきだろう。その意味においては三つの視点は等価である。

建前とは努力目標とルールのことを意味し、守った方が全体的な利益になるという事実に支えられている。よって個別の利益追求者がその建前を守らないのも必然である。

文化事業の経営において、そのポジショントークを選択・実行することができるのは、権力を持った政府だけである。ゆえに、国家原理たる憲法を常に選択するべし、というのが(従来堅持されるべき)建前であった。しかし今回は国家原理が原理でなく、選択肢のひとつとなってしまった。それは国家というフィクションの否定、自殺に等しい。憲法が現政府の恣意より低次元なものであるということになるからだ。

今回の一件は、政府が国家原理ではなく、「資本主義の常識」を恣意的に選択し、以降、他のケースでは「表現の自由」、「民意の要請」を使い分けて運営を操作しようとする例となって顕在化した。しかし、それはいつでも行われていたことである。政府はヘゲモニーを有しているからだ。

表現の自由は国民の不断の努力によって守らなければならず、
民意は政治と市民活動と宣伝でゆり動かされ、
経済・雇用関係の優位はカネの支払いと売り上げの問題であるがゆえに、
この三つの視点に共通しているのは、ヘゲモニー間の相克だけだ。

三つの視点を超克する原理によって闘争しヘゲモニーを奪取する。
この論点を持っていなければ、全て既存体制内のポジショントークで終わってしまうだろう。

既存の恣意が受容できないなら、別の原理を掲げた恣意で塗りつぶすしかない。
それはいわば、原理のポジショントークである。
すべての原理をつらぬいた正義を達成する方法などありはしない。
現状維持か、全否定だ。
ヘゲモニー奪取の闘争は、原理と原理の闘争である。

既存勢力が行う恣意のポジショントークとどう違うか?
まず原理は先にあげた三つとは違い、使い分けができない。
憲法・民意・経済の損得は相克していると同時に依存関係にある。
だからこそ建前を選ぶことができる。

しかし重要な違いはこの一点だ。
「既存の原理を乗り越えた、乗り越えうるという原理だけが、選ばれるべき正統性を持つ」

原理は他の原理と競合し、排他的に影響している。
全否定も既存の原理に規定される側面を持つ。
既存の原理は否定されることで、超克した原理に正統性を受けつぐ。

だから闘争は我々=原理が存在する限り終わらない。
まだ受け取っていないものがある。それを全否定の原理が明示するからだ

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