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いのちの授業

「先生は豚を育てて、最後にはクラスのみんなで食べようと思います」
髪呂(かむろ)市立伊津野小学校6年1組では、風変わりな特別授業が行われることになった。一年間クラスで豚を飼育する。そして卒業前にその豚を食肉センターへ送り、生徒と担任で食べるという内容である。授業には食肉の生産過程への理解と生命倫理教育をうたい「いのちの授業」という名がつけられた。

新任教師の担任・新庄健一は、同じく実践主義にして教育熱心で知られる瑞樹篤子校長のバックアップのもと、この授業を成立させるべく予算をとりつけ関係各位の了承をとって計画を実現させた。地方局TV・新聞の取材とともに注目を浴びることになり話題が広まるにつれ同様の授業を開催しようと企画する学校も現れたという。

飼育開始からしばらくたち、生徒たちの強い要望で、豚に名前をつけることになった。担任の新庄と一部の生徒は、情が移りすぎることを懸念したが、結局学級会での投票によって豚にはプーちゃんという名前がつけられた。
飼育に関しては当番日でない者も集まり給餌やフンの清掃に協力するなど、みな熱心だったという。下級生から餌をあげてみたいと頼まれるなど、プーちゃんは人気であった。

卒業が迫るなか、クラスの意見はまっぷたつに割れていた。当初の予定通り食肉センターへ送り、自分たちで食べるのが責任だというものと、飼育を 下級生に引きついでほしいというものである。新庄は当初から食肉センターへ送るとしていたが、生徒たちの希望は引きつぎに傾きかけていた。

その心情の推移も含めて考えなければならないと思い、瑞樹校長を交えて 下級生クラスの担任たちに相談をすることにした。
引きついだ後に食肉センターへ送る、という事態になった場合、責任の所在がバラバラになってしまう。在校生も卒業生も不信感を抱くだろうとして、下級生クラスの担任からは引きつぎの了承が得られなかった。

何度も学級会で話し合いが行われたあと「いのちの授業」クラスが出した結論は32人一致で「下級生に引きついでほしい」であった。卒業式前日に新庄は、引きつぎができないことを説明し、苦渋の決断としてプーちゃんを食肉センターに送ると告げた。クラスで肉を食べることはさすがに取りやめられた。

この結果には保護者も含めて抗議の声があがったが、新庄の周囲からの評判は高く、瑞樹校長をともない希望する家庭への自宅訪問と説明を毎日行ったため、卒業から間もなく騒動は落ち着きはじめていた。

新学期がはじまり五月、新庄と瑞樹校長が同日に出勤しなかった。不審に
思った教員が家族に連絡をとるがそちらも心当たりがないという。すなわち行方不明ということになる。その日のうちに警察に通報され捜索が開始された。

両名の家族および職場からの聞き込みでは、どちらも周囲からの信頼が厚く教育熱心な良い人たちだったという。ただ「いのちの授業」の結末には力量不足だったことを認め、いたく反省し憔悴していた。新学期になってからも事後処理に奔走していたので疲弊しているようだった。
失踪の理由にはなりそうだが、決定的ではない。トラブルらしいトラブルは現時点でそれしか見つからない。

「元生徒のみなさんからもお話を聞かなければいけないかと思います。名簿と連絡先を教えていただけますか。」
事件の担当となった葛西刑事が臨時代表である副校長に話しかける。

「こちらの33人です。」副校長がプリントを渡す。

「33人?いのちの授業には32人参加していたと聞きましたが?」

「クラスはもともと33人です。いのちの授業に参加していたのは32人。その生徒ははじめから参加を拒否して、卒業の一ヶ月前に不登校になっていました。」

その生徒の名前は朝倉凌といった。彼が登校した最後の日には学級会があった。朝倉が飼育および関係する講義へ参加しないことについてクラスメイトからささやかな不満の表明があった。それをきっかけに、今からでも参加しようと促す声で、穏当ではあるが半ばつるし上げのような雰囲気になってしまったらしい。
新庄は参加を強制することはないと言ったが、生徒たちから相次ぐ意見表明を止めることもなかった。活発な議論こそ授業の本質であると常々公言していたからだ。

朝倉は「先生もみんなも豚といのちについて真剣に考えている、と思い込んでいる。あなたたちはいいヒトたちだ。ぼくにはそれが耐えられない。ぼくのこころも家畜にするつもりか!」と叫び教室を飛び出した。

この日以降登校しなくなった朝倉に会うため、新庄は何度も自宅訪問したようだが、チャイムを押しても反応はまるでなく、電話もつながらなかったという。卒業後に転居したということだが行方が分からない。事件に関係があるかもしれず、朝倉本人と家族には連絡がとれないため、葛西刑事は特に仲の良かったクラスメイトから話を聞くことにした。

朝倉の友人、牧優史は母親とともに小学校の来客応接室で居心地の悪そうに座っている。つい最近まで通っていた母校に、急に呼び出されたのだから不安なのだろう。

牧によれば、朝倉凌は文系教科では秀才で、感想文コンテストに入賞歴がある。他教科では平凡。妙に大人びていて、苛烈で原則にこだわり、妥協を知らない性格なのでトラブルは多かったが、いじめられた生徒を助けるなどでしかその苛烈さは発揮されないため仲の良い友人は少数いたらしい。

「正義感が強い子だったんだね。」葛西刑事がきく。

「ううん。ちょっと違う。ぼくたちはぼくたちがきめた大切にしなければならないはずの原則を守るために人を罰することすらしている。それに反していながら損得でうそを使い分けるのが許せないだけだと言っていました。」伏し目がちに牧が答える。

「原則とは校則のことかな?」

「いいえ。朝倉は校則が嫌いでした。たぶん、プライドと公平さみたいな意味だと思います。」

本の虫で、最近流行しているという進化心理学など大人でも理解が難しい分野も熱心に読んでいた。父親と二人暮らし。他に親族はいない。父は凌と似ているが、より峻厳で近寄りがたい雰囲気であった。しかし牧にはいつも紳士的に接していた。凌は父親を尊敬していたという。

ここまでの捜査で、葛西刑事は「いのちの授業」に対しほんの少しの違和感を覚えていた。今まで聞き込みをした教員、元生徒、保護者たちからは、判で押したように同じ二項対立「食肉センターか引きつぎか」という意見ばかり返ってくるからだ。朝倉からの影響か、牧には授業自体への疑問がうっすら芽生えていたという。結局は言い出せず飼育にも参加していたが、それから朝倉とは話をする機会が減っていたらしい。

卒業式に訪れなかった朝倉のことが気にかかり、牧は電話をかけた。長い発信音のあと、朝倉は電話にでた。どこか野外から話しているようで、風の音が聞こえてくる。二人は挨拶もそこそこにして「いのちの授業」の話をしはじめた。プーちゃんの処遇についてやはり投票が行われたこと、その結果が担任に覆されたことの両方で朝倉は憤慨していたらしい。

「牧も投票したのか」

「うん。俺はプーちゃんを下級生に引きついでほしかった。無責任だとも思うけど」

「問題はそこじゃない。投票で決める、ということ自体おかしいと誰も思わないことだ。意思表示の手段だとしても遅すぎる。豚を飼う前に決めておくべきことだ。そもそも授業で豚を飼うべきか、という議論はクラスで一度もしなかった」

しばらく沈黙が続いたが、朝倉は牧にぎこちないが温かい言葉をかけ、
引っ越しすることを明かし、後で住所を送るといい、お互い別の中学校で頑張ろうと言って話は終わりになった。しかし、それ以降携帯はつながらず
他の手段での連絡もなかった。

捜査開始から二日目、豚小屋の近くを通りがかった教員が、小屋のドアに
封筒が差し込まれているのを発見した。中にはエンピツで書かれた作文用紙が入っている。子供の書いたような字ではあるが、内容は大人と子供が書いたようなつぎはぎの文章だった。

行方不明事件に関係しているかもしれない、という連絡を受け、駆けつけた葛西刑事は作文用紙を受け取り読みはじめた。

『いのちの授業』感想文
ぼくはあの豚さんをプーちゃんと呼ぶことはできない。どう呼んでも同じ
ことですが、せめて敬意をこめて豚と呼びます。

豚を殺して食べようと下級生に引きついで教材兼ペットとして生かしておこうと同じことです。そこには命の消費があるだけで先生もみんなも決断などしてはいません。買われた豚は人間の好き嫌いでいいように消費されると
いう事実に対して、自分たちから買っておいて言葉の意味通り「とってつけた」倫理や当事者ぶった責任をかざりたて悩んでいるさまを見せつけあうのはいかなる意味でも教育的ではありません。しかし教室は、はじめから命を扱う大切な授業なのだ、という考えで埋めつくされていました。

葛西は軽い驚きとともに文章に見入った。
確かに命は大切かもしれない。が、それを自分たちから扱うと言いだして、自動的にこの授業も大切であるというのは別の話だ。違和感の正体はこれだ。誰も前提を疑わなかった。

先生は豚をどうするかについて生徒に無意味な投票をさせましたが、票の数で何が正しいのか決まるとでもいうつもりでしょうか。そのうえみんなが選んだ「下級生に引きつぐ」という結果を先生自らくつがえしているので二重に無意味です。

食肉センターに送る、下級生に引きつぐ、どちらもそれなりに事情があり「正しい」に決まっている。多数決ならどちらにせよひとりひとりの責任から逃れられる。意思を決定する能力が薄弱で権限が不在であれば自動的に多数決へ流れるという現象が再現されただけ。これのどこに決断があるのですか。

それは悩んでいるのではなく、自分たちが何をしているのか始めから終わりまでひとつも理解できていないだけです。
商品あるいは趣味として作られたどうでもいい物体が展示されればアートになってしまうのと同じく、授業としてとりあげてしまえば教育になるという典型的な勘違いです。

はじめから食肉にすることが決まっている畜産業の教育をする農業高校などとはわけが違います。ぼくはあなたたちの善意と責任感の存在は否定しません。しかし門外漢の小学校教師が結果として倫理的な選択肢を設定してしまい、意見をたたかわせて苦悩と葛藤を演出し、命の大切さと共感を示せば(いわばヒト=ホモ・サピエンスの共感ディスプレイ行動が)そのまま人間への教育になると思っているのがそもそもの間違いです。

それは自分たちの倫理観を品種改良し家畜化しているにすぎない。

一文一文が圧縮した怒りを思わせる乱れた筆跡で書かれている。常軌を逸した論理への偏執と容赦のない言葉。倫理主義を糾弾しながら、苛烈な断罪ともいえる別種の倫理観が叩きつけられている。葛西は全てのものに打ち下ろされる血まみれの鉄槌を連想した。

ぼくは狩りも畜産も食肉も大賛成ですが、このように安っぽく作為的にイノチノタイセツサを語り人間のこころを品種改良しようとする善いヒトども、善意を免罪符にしている自覚もなくウソを肥育するヒト飼い、あまねく地上すべての倫理的彘野郎は許されるべきではありません。
自分たちの身になってみるといい。
こんなエセ教師たちこそ、煮ても焼いても食えたものではない。

エンピツ書きの作文には「食えたものではない」の下に消しゴムで雑に消した跡が残っていた。元の文は「食えたものではなかった」と書かれていた。

葛西は青ざめ真相を直観で理解した。子供のような字で書かれているが、
この作文は文章と用いる語彙が大人びすぎている。

警察はすぐに重要参考人として朝倉凌と父親を捜索した。数日後、凌と父親が私有地である山中でキャンプをしているところを発見され、二人の身柄は確保された。

凌は何日も前からあらゆる食事を拒否していたらしく、衰弱していたため
緊急入院となったが、点滴によっていのちを失うことは免れた。
父親は鉄塊のような沈黙を保っている。凌とは正反対で、血色はすこぶる
良かった。

新庄教諭と瑞樹校長はまだ見つかっていない。

このひとたちは「正しさ」に喰われたのではないか。
葛西は後日そう語った。









これはフィクションであり実在の人物や団体等とは一切関係がありません。ホラー小説という形式で「フィクション無罪」を乞う欺瞞を含め文責は本稿の著者にあります。

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