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スタジオジブリ「耳をすませば」

「となりのトトロ」と「天空の城ラピュタ」は実家にビデオテープがあったから子どもの頃に何度か観ていたけれど、ジブリ作品に特別な思い入れを持ったことはなかった。だから大学でバンドサークルに入ったとき、まわりがアニメの話で盛り上がっていても全然ついていけなくて焦った。そのなかでも「耳をすませば」は特に人気があったみたいで、”舞台の聖蹟桜ヶ丘に行った”とか”台詞はぜんぶ暗唱できる”みたいなことを得意げに話している人達がいてなんだか気持ち悪かった。おそらく甘酸っぱい青春の物語で、毒にも薬にもならない作品なんだろうと思って食わず嫌いしていた。しばらくして、周囲への遅れを取り戻すために、一般教養としてジブリ作品を順番に観ることにした。初めて観た「耳をすませば」は思っていたよりもずっとおもしろかったし、あらためて観るたびに何度もおもしろかった。

なによりもまず先にあるのは、アニメそのものの素晴らしさだった。線のやわらかさだったり、季節感のある背景だったり、不確かさを持った色味だったり、視覚的な喜びを強く感じた。まったくストーリーが無かったとしても観れるような。人間の作った世界が動く、その興奮が揺るがずにあるような気がした。
もうひとつは、これはジブリ作品を時系列順に観ていったからよくわかったことなのだけど、「耳をすませば」は「平成狸合戦ぽんぽこ」の続編にあたる作品だということだった。舞台は同じニュータウン。森林を伐採し、タヌキを殺戮し、コンクリートを固めてできあがったのが聖蹟桜ヶ丘なのである。実際、「ぽんぽこ」のエンディングに映る都市の風景は「耳をすませば」のオープニングでそのまま再利用されている。「ぽんぽこ」はいくらか説教臭さが強かったけれど、「耳をすませば」はそれが主題となることを回避しながらも根底には同じ問題意識を共有しているように思う。それをふまえると「カントリーロード」の意味がよくわかる。”故郷って何かやっぱりよくわからないから正直に自分の気持ちで書いた”と月島雫は言う。自分が歴史から切り離されているという無意識の寂しさ。「耳をすませば」に奇跡があるとすれば、それは雫と聖司が出会ったことなんかではなくて、雫がこの感覚を十代のうちに表現しようと試みたことだろう。

さらにもうひとつは”自信のなさ”についてだ。とにかく雫は自信がない。だけどそれこそが幼さの本質でありリアリティだと俺は思う。多くのアニメキャラクターにリアリティを感じられないのは、ゆるぎない自信や確信を持って彼らが行動しているように見えるからである。俺の実感から言って、その行動原理は嘘なのだ。
その嘘を強く感じたのが宮崎吾朗「コクリコ坂から」で、建造物解体の反対運動に参加することもそうだし、3階の屋根から貯水槽に飛び込むこともそうだ。そんなに躊躇わずにいられるか?と俺は思う。骨折するかもしれないとか、あとで親に怒られるかもしれないとか、好きな人から嫌われるかもしれないとか、そういう雑念の可能性を感じられない。俺からすればそれは、失うもののない青年の姿ではなく、感情移入する余地のない偽物に見える。
だけど、月島雫は違った。俺そのものだった。あるときは周囲を顧みずに突っ走っておきながら、ひょっとした出来事でさっきまでとは別人のように表情が曇る。「耳をすませば」で俺が一番好きなのは、地球屋のおじいさんに自分の作品を読んでもらっているあいだ、雫がベランダで体育座りしている場面である。今すぐリアクションが欲しいという性急さや、評価されるはずがないという恐怖。それははっきりと身に覚えがあった。15歳のときだったと思う。俺が自分で作った曲をテープに録音して、友達に初めて聞かせたときのことだ。テープを渡したはいいけれどちゃんと聞いてくれるか不安で、早く感想が欲しくて、メールを待っているあいだずっと気が気じゃなかった。ボロカスに言われるかもしれないと思った。だけど友達はその日のうちにメールをくれて、”いいね”って言ってくれた。(20曲くらい入れたテープのなかに「彼女はキリシタン」という曲があって、”新しいパンクを感じたぜ”という感想をもらったのを覚えている) ちゃんと聞いてくれたことがわかって、嬉しくて、ホッとして、世界のなかに自分の居場所が見つかったような気がしたのだった。
もしかしたら雫には小説家としての才能はまだ見つからなかったのかもしれない。それは雫自身も感じていたようだった。だけどあの時点ですでに「カントリーロード」を書いているのだ。雫の書いた歌詞も、まっすぐのびる歌声もとても好きだ。

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