見出し画像

男はつらいよ

横浜駅から京急線に乗っていたはずだが、いつのまにか都営浅草線になって、終点の高砂駅に着く頃にはいつのまにか京成押上線になっていた。そのあいだに何度も川を越えた。鶴見川、多摩川、墨田川、荒川、中川。最後のひとつは聞きなれない名前だったけれど、あとになってアニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の歌を思い出してピンときた。浮かぶ夕陽をめがけて小石を蹴ったら靴まで飛んでジョギングしていた大工の頭領にガキのまんまだと笑われた、あの川だった。
高砂駅で京成金町線に乗り換えると、同じ車両に友人の新木くんが座っていた。柴又駅で待ち合わせる約束だったからそれまでは見つけても声をかけないでおこうと思っていたけれど、昨年の秋に会ったときよりも髪の色が明るくなっていたせいか目が合ってもしばらく気がつかなかった。簡単なあいさつを済ませているあいだに一駅で、目的地の柴又駅に到着した。この駅に降りるのは人生で初めてのことだったけれど、映画の中では何度も見た。駅のホームから眺めるゆるやかな線路の湾曲は2023年もまったく変わっていないように見えた。

『男はつらいよ』を初めて観たのは俺がもう30歳を過ぎた頃だったと思う。そのときの第一印象は最悪で、車寅次郎の粗暴が見るに堪えなかった。男尊女卑。家父長制。廃れてしかるべき悪習が懐かしさによってラッピングされているように感じた。暴力を許すことが家族の愛だと宣伝されているように感じた。突然現れた暴力人間を、家族だというだけで受け入れなければいけないのか。俺が言いたかったのはただひとつ、「さくら、逃げろ。この兄を捨てて幸福になれ」ということだけだった。
その後しばらくして俺は小津安二郎監督作品を好んで観るようになって、松竹映画というものに親しみを覚えたこともあって、もう一度『男はつらいよ』に挑戦してみることにした。その後の松竹がどんなものなのか確かめてみたかったし、これだけ愛されているシリーズなのだからきっと何かしらの価値があるのだろうと信じてみたかった。第1作目に関してはさほど印象が変わらなかったけれど、今度は懲りないで、シリーズすべてがひとつの作品なのだと思って順番に観ていくことにした。監督の入れ替わりがあったり、あまり出来の良いものとは思えない物語が続いても我慢した。そして10作目くらいまで観終えた頃にはなんとなく、そんなに悪いもんじゃないなと思い始めていた。

それは、「車寅次郎はどうしようもないクズ野郎だ」という前提を登場人物たちと共有するために必要な時間だったのだと思う。またかまたか、懲りないやつだ、もう二度と顔も見たくねぇ、どうせすぐまた帰って来るよ。そのあしらい方を身につけるまでに、俺にも彼らにも時間が必要だったのだ。少なくとも妹のさくらは自分の家庭を持って新しい幸福を築き上げようと努力している。兄の粗暴によってそれが破壊される心配はしなくて大丈夫だろう。第1作目では日常を破壊する悪魔のような存在感だったのが、だんだんと小市民の姿に縮こまっていくような気がした。春が来るたびにやってくるめんどくさい親戚。むきになって相手にするほどのものでもない。
おいちゃんやおばちゃんと一緒に笑い飛ばせるようになった頃には、車寅次郎が持っている魅力を確かに感じられる。それは、仕事や生活に縛られずにいつでもどこでも駆けつけられる身軽さだったり、旅先で再会することの偶然性に対する説得力だったり、音楽のように流れて止まらない話芸だったり、映画の主役としては他に類を見ないほどの不細工さであったり、弱っている女性に対して性的関係を迫らない安心感であったり。もちろん、それらの魅力でも補えないほどの下品さや欠点はあるのだが、それをどう受け止めていくかは車寅次郎の問題ではなく社会の課題である。(家族の課題ではないよ、ということを山田洋次監督には釘を刺しておくべきかもしれないが)

そして『男はつらいよ』は次第に、車寅次郎の甥っ子である満男(吉岡秀隆)が物語の中心を担っていくようになる。そこには渥美清の体調不良も理由としてあったようだ。だけど俺が思うにこの、42作目『ぼくの伯父さん』から48作目『寅次郎紅の花』こそが「寅さん」の真骨頂なのだ。それはやはり、マンネリズムの限界を見せてくれるからだと思う。寅さんシリーズを”マンネリ”と批判するのは簡単だけれど、それは時間の力を無視した見方だ。時間はマンネリを許さない。古い家屋は建て替えられ、駅のホームも整備される。役者は老いていき、ときに亡くなる。どれだけ同じものを再現しようと思っても時間がそれを許さないのだ。一方で、残された人間と人間のあいだには新しい温度が育まれる。他人が家族になってしまうほどの時間をかけて。そのあまりに残酷でかけがえのない変化を、「寅さん」シリーズは映画に記録したと思う。

俺は友人と二人で、江戸川の河川敷に座って日が暮れるまで話した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?