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幸福の記憶

2021年12月27日(月) 晴れ
白々しくて、空々しくて、よそよそしくて、気に食わない場所だ。もう二度と来なくてもいいと思っていたが、母親と会うついでにお墓参りをすることにした。姉の遺灰は確かに埋葬されているが、姉の魂は、俺が信じる姉のイメージはここにはない。きっとここにはいないだろう。そう思いながら花を供えて手を合わせた。形だけ。何のゆかりもない土地に、配偶者の家族が用意しただけの土地に、その家族が飼っていた犬と同じお墓に、その家族の誰よりも早く埋葬された。配偶者は再婚しないのだろうか。ここに削られた姉の名前はずっと変わらずにあり続けるのだろうか。たった数年の結婚生活。それが、この土地に俺たちをつなぎとめる根拠になるのだろうか。

「骨壺に入れたまま埋めてくれるのかと思ったら違ったんだよね。あれもショックだった」と母親が言った。樹木葬と呼ばれるその一角は、一見するとただの花壇だ。墓石も無い花壇の根元にいくつかの筒が埋まっている。そのひとつに姉の遺灰が流し込まれた。まるでそれがただの砂で、ちりとりからゴミ箱に捨てるかのように。俺もその光景をはっきりと覚えている。けれど、それまでの葬儀ですっかり疲れ果てていたから、いまさらその作業に対して怒りを感じることもなかった。この土地の作法ではそうだろう。この家族の作法ではそうなるだろう。
キリスト教で、よくわからない宗派で、日当たりの悪い教会で、お遊戯会みたいな葬儀で、下手くそな讃美歌で、胡散臭い神父の説教で、胡散臭い義母の涙で。俺はもううんざりしていた。悲しむべき最期の時間を、よくわからない他人の信仰に奪われた。たった数年の結婚生活で、それまでの慣れ親しんだ手続きをなにもかも奪っていいのだろうか。それは姉の信仰じゃなかった。姉の配偶者の信仰というわけでもなかった。姉の配偶者の母親の信仰だった。他人。真っ赤な他人が出しゃばって、何もかも奪っていった。
白々しい土地、空々しい土地、よそよそしい土地。ふざけんなよ。俺はここに来るたびに、悔しくて涙が止まらなかった。なんで俺は、なんで姉は、こんなところにいなきゃいけないのか。なんで悲しむよりまえに、悔しさに取り憑かれなければいけないのか。ここに眠っている他の人間も、墓地を手入れする労働者も、送迎バスの運転手も、どいつもこいつも気に食わなかった。

あの日から2年と5ヶ月ほど経って、今日は涙も出なかった。来るまえからわかっていて、それ以上でもそれ以下でもない。ほら。やっぱり。やっぱりね。ここには何もない。思い出もなければ、姉のイメージもない。俺はここに用がない。もうここに来なくてもいい。もうここで泣かなくてもいい。それを確かめるためのお墓参りだった。
それでも俺は少しずつクリアになっている。悲しみが悲しみのまま、俺のなかに留まることを受け止められるようになっている。それにはひとつのきっかけがあった。川上未映子の小説「夏物語」を読んだことだ。それはある女性の物語で、ある姉妹の物語だった。

「なあ夏子」巻子は言った。「わたしはあんたのお姉ちゃんやで」
わたしは黙ったまま、瞬きをした。
「いつでも、姉ちゃんやで。だいじょうぶ。みんなでがんばろう。夏子が決めたことやったら、なんでも、ぜったいだいじょうぶやで」

俺はその言葉を、姉から言われたように感じた。いや、言われたのだ。姉ならそう言うだろう。そして、きっとそうなのだ。これまでもこれからも、近くても遠くても、生きていても死んでいても、姉が姉であることには変わりない。たかが物語に、そんな力があるなんて思っていなかった。気休めだろうと思う。でも俺にとっては確かなことだった。あの日から俺は、少しだけ楽になったのだ。

「俊貴。わたしはあんたのお姉ちゃんだよ。いつでも、お姉ちゃんだよ。だいじょうぶ。みんなでがんばろう。俊貴が決めたことだったら、なんでも、ぜったいだいじょうぶだよ」

今から10年くらいまえ。俺はまだ定職につかないで、自転車でアルバイトに通っていた。家に帰ると姉と母が二人だけ、すでに夕食も風呂も済ませてリビングでくつろいでいる。ちょうど「SMAP×SMAP」が始まる時間だ。俺は缶チューハイを飲んで、遅めの夕飯を食べている。母と姉と三人。草彅くんがどうしたとか、どうでもいい会話をしながら。この番組が終ればそれぞれの部屋に戻って眠るだけ。それまでのたった1時間。あの瞬間が、二度と戻らない幸福の記憶になるとは思っていなかった。
帰りの電車で思い出して、少しだけ泣いた。

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