まあちゃんの半生記2

わたしが2歳の時パパが突然解離性大動脈解離性大動脈瘤って病気になって一回死んだ。
一度心肺停止するくらいにはやばかった。でもなんとか蘇生して持ち堪えて、
3ヶ月後になんとか退院するまでに脅威の回復をした。

その入院している3ヶ月間、わたしと姉は韓国のママの実家に預けられた。
ほとんど記憶がないけど毎日絶望的に辛かったのだけ覚えている。
ママの実家は女系家族で姉妹が家にたくさんいた。すごくすごく愛を持って良くしてくれたけど、2歳の私は韓国語も通じず人見知りだったのでまず全てが苦痛だった。「だれもわたしに気づかないで。訳のわからない言葉で変なテンションで話しかけないで」って。2歳ながらに消えたかった。
韓国語の勢いこわすぎた。
韓国では家の中を隠れたりして誰にも気づかれたくなかった。ママはなんでいないんだろう。みんな知らない。誰にでも甘えられる子供もいるが、到底そんなことはできない。私は正反対な心を閉ざした子供だったと思う。
何週間かたったとき、初めて誰か親戚のおばさんに抱きついて寝て、ママー。。と泣いていたよって聞いた。隠キャすぎ。
お姉ちゃんはめちゃくちゃ韓国ライフをエンジョイしてた。韓国のおばあちゃんと駄菓子屋行ったりみんなとあそんだりしていて羨ましかった。でもわたしからしてみればそんなことする方がよっぽど疲れるのだ。2歳なんて日本語で思ってることを伝えるのだってむずいぞ。

退院して日本に帰ったとき、人が変わったように家にパパが居ることが増えた。
家に常にパパがいるのが最初は緊張したけど、すぐに大好きになった。

そこからの私はもう完全にパパを愛してた。パパっ子すぎてお風呂も寝るのもくっついて寝てた。
パパはわたしの内気な性格に心配して髪を金髪にしたり、「昌美、今日は学校休んでディズニーランドいこー!」って連れて行ってくれたり、訳のわからない冗談をかましてひょうきんにたくさんわたしを笑わせてくれた。

今だったらsnsに上がったもんなら、
「親はどうなっているんでしょう.信じられないわー」と叩かれるくらいは派手な見た目にしていた。

でも本当にぱぱのいいところだけをおぼえてる。ぱぱは人から愛される天才だった。愛嬌たっぷりで少し悪っぽくて、冗談も上手で人に合わせるのもうまくて、顔もカッコよかったし男にも甘え上手だった。人脈があった。まあほぼヤクザだったけど周り。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?