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ハードボイルド映画戦記-「BLUE GIANT」-

ワールドベースボールクラシック2023年大会。
優勝まで残りワンナウト。マウンド上には日本の星大谷潮平。
対するバッターボックスには大谷のメジャーでのチームメイトでMLB3度のMVPを誇るマイク・トラウト。
結果は大谷がトラウトから三振を奪い、日本は3大会ぷりの優勝を果たした。
日本人だったらこんなこと誰だって知ってるよな。

祝日明けの朝っぱらだったけど俺はばっちり午前在宅でこの瞬間を目に焼き付けた。
俺はシーズンが始まれば全試合をくまなくチェックする野球好きだが(愛するは千楽ロッテマリーンズ!)アメリカが本気じゃないと何と言おうが身体中に熱い気持ちがたぎったのは言うまでもない。野球って最高だよな。

余韻冷めやらぬ中、出勤中の車内でツイッターやニュースアブリを見ていたらこんな言葉が躍っていた。

「大谷翔平、庄倒的主人公感!!」

主人公感⋯

なんとなく最近この言葉を見る機会が増えてきている気がする。
流行り言葉に対して理由もなくついつい不満を言いたくなるのって老害の始まりかな?
それでもなんとなくこの言葉に達和感を覚える。
もやもやする気持ちの中、俺はある映画に出会った。
「BLUE GIANT」という映画だ。

「BLUE GIANT」はビックコミックで今でも連載されている人気漫画を原作にしたアニメ映画。
主人公は⋯そう、まさに主人公は仙台の田舎でバスケ少年だった育本大(みやもとだい)。
大がジャズとサックスに出会い、熱中し、様々な人を巻き込んで「世界一のジャズプレーヤーになる」という夢へ邁進していく物語だ。
俺はこの大にこそ「主人公感」を感じたんだ。
いや、もっと言えばこの映画全体に「主人公感」、あるいは「主人公とは何か」を感じたと言っても良いかもしれない。

大はまさしく少年ジャンプの主人公のように(ビッグコミックはジャンプのライバル誌「サンデー」を発刊している小学館の雑誌だが⋯)くじけずにひたすら前に進んでいくメンタリティーの持ち主だ。

大の高校の同級生玉田がドラムを始めたいと言い出し、バンドメンパーのビアノエリートであるユキノリからは初心者とやるつもりはないと冷遇される。しかし大は「やりたいって気持ちが一番大事だべ」と超前向き&恥ずかしさすら感じる熱さでユキノリを黙らせる。
玉田の技術が完全に素人レベルで迎える初ライブでも「俺たちならできるべ、楽しもう」とまたも眩しすぎる程の前向きさ。
最終的に結果が散々でも「楽しかったよな、最高だったべ」。と最高の汗と笑顔の爆弾をぶん投げる。大はそんな男だ。
戦火の中砲弾が音を立てて頬をかすめようとも、大木を根っこからぶっこ抜く大砲玉が飛んでこようともただひたすらに前に進む。
しかも笑いながら、一歩一歩強く踏みしめ、「俺には当たらないべ」と根拠なき自信を信じぬく真っすぐさ。それが大の最大の武器だ。
「世界一のジャズプレーヤーになる」と覚悟が決まりきってしまったその姿は危なっかしいながらも輝いて、ひとを惹きつける何かがある。
主人公ってこんなやつの事なんじゃないかって俺は思うんだ。
揺るぎないものがあって、一心不乱でひたすら突き進んで止まらない、覚悟を決め込んじまってるやつ。
それこそが俺が思う主人公感だ。

でもあまりにも熱く燃える巨星は周囲を灰にしちまう事もある。
大の真っすぐさや自分を信じ切れる強さは結局のところ才能だ。自分が何者でもないと分かってしまった瞬間、才人は悪魔にも見えるだろ?
時に大はこの映画で超越しすぎるが故に悪魔に見える瞬間すらあるんだ。

それでもこの映画の良いところは大以外のキャラクターの描き込みだ。
1人上げるとしたら玉田だろう。
玉田は大の高校の同級生で、ひょんな事からドラムを始めることになる。
バンドを組むのは技術は粗削りだが人の心を震わせる何か(主人公ってのは結局これを持ってるからずるいよな⋯)を持つ大と、幼い頃からビアノに触れジャズで飯を食っていくと決め切っているユキノリ(ここにも確固たるものを決めきっているやつがいる…)。
もちろん玉田は自分のふがいなさに押しつぶされそうになる。ユキノリの容赦ない罵倒と、それとは真逆の大の優しさ、そして何より自分には無い二人の才能というものが玉田を追い詰める。それはプレッシャーとは違う、選ばれなかった者感じる生物的な劣等感みたいなものでもあるだろう。
今では夢にまで見た気ままなキャンパスライフを送る玉田だが高校時代にサッカーに打ち込んでいた。夢中になれる何かがあった。
でも、真剣な部活が遊びのサークルに変わった事で、玉田は知らず知らずのうちに夢中を失っていた。
夢中になれるものが何もないって辛いよな。だから人は流行りに流され、その辛さから逃れるんじゃないかなって俺は思う。

玉田は大とユキノリというへの劣等感に押しつぶされながらもひたすらドラムを叩き続けていた。
そこまでしてもドラムをやる意味は何なのだろう。エリートにバカにされても、親友に気を遣われても、なんで玉田はドラムを続けられるのだろう。
それは玉田が本気でドラムが好きになったからだ。
玉田の心でくすぶっていた何かに真っ赤な炎が灯る。

「やらされてんじゃねぇ、俺がやんだよ!!」

「BLUE CIANT」の主人公は大だけど、俺は玉田にこそ自分を投影して観れたし、多くの人がそうなんじゃないかな。
玉田もまた、この映画の主人公なんだ。
涙と共に牛丼を食べたことがなければ、人生の本当の味ってのは分からないもんだろ?

そういう意味では大は「主人公」として据えられているだけの触媒でしかなくて、大が周囲をどうやって変えていくか、周囲が大から何を感じるか、という角度でこの映画を見るのも一つの見方じゃないかなと思うよ。

人間誰だって皆自分の物語の主人公なわけだし、主人公だって物語を形作るビースの一つでしかないんだ。脇役やライバルがいないと良いバズルは完成しない。

まぁでも、未だに「主人公感」という言葉に対するもやもやは今も消えない。
この言楽というより使う側に対してなのかもしれない。この言葉を使っただけで「良い事言ってやった感」というのがなんだか透けて見えてくる。もちろんそんな気持ちじゃないのかもしれないし、使いやすくて分かりやすくて一般化してきてる言葉でもあると思う。
でもやっぱりインスタントな言集で満足に浸るのはなんだかちゃちな気がするんだ。
もっとハードに自分だけの言楽を紡いで、自分の言葉をスピットしたって良いじゃないのかな。
玉田が自分の手で夢中になれるものを見つけたように、皆だって自分の言葉がきっと見つかると思う。
いつまでも主人公にならないでいるなんてもったいないだろ?

映画自体は大がなぜそこまでジャズに魅せられたかをあまり描いていないからノれないって人もいるかと思うが、この映画のジャズプレイシーンは圧巻だ。
タイトルの「BLUE GIANT」は

「あまりにも高温で、赤色ではなく青色で燃える巨星」

を意味する。炎は熟くなりすぎると青く燃えるんだ。
プレイシーンはこのイカしたタイトルをそのまま映像化したような熱いものに仕上がっている。
音と映像がスクリーンから飛び出して、観る人の心に着火BOMB!!
火傷に注意してくれ。
プレイシーンはこの映画の白眉なのでこれは本当に映画館で味わってほしい。
特にサックスから「あれ」が出るシーンは鳥肌モノだ。
たまにプレステ2みたいな動きになるとこはご愛嬌だよな。

ちょっと前にデイミアン・チャゼルの「バビロン」という映画を見た。
疾走する音楽と共にハリウッド初期の狂乱を描き、全編ハイテンションで突っ走るエネルギッシュな映画だった。
きっとチャゼルは映像・音・ドラマ、それらが絡み合う事で生まれる「総合芸術としての映画の力」を体験させたかったんだと思う。あるいはその力で観客を圧倒させたかったのかもしれない。

「BLUE GIANT」はアニメーション映画ながら音楽(ジャズ)を中心に据え、奇しくもチャゼルのチャレンジと同じ事をやった映画にも見える。
すなわち映像と音楽とドラマの真の融合。それに生まれるエクスタシーにもトリップにも似た何かを生み出す事…だ。
驚くべきことに個人的にはチャゼルの「バビロン」より「BLUE GIANT」の方がその「何か」を生み出しているように感じた。
あくまで個人的に、だけどね。
(今作の立川監督の前作は劇場版「名探偵コナン」。日本映画おそるべし…)

音楽を使ったアニメはディズニーの十八番だけど、音楽とアニメの掛け合いの可能性に関して、この映画はまた新しい地平を作ったようにも見える。
「音楽」そのものを表現するのにアニメがこんなに適しているなんて…と舌を巻かぎるを得ない。

とにかくこれぞまさに主人公感!まさに音楽映画!
それもとびっきりアッツアツの一級品だ。
ガールズもボーイズもレディースもジェントメンもばあさんもじいさんも皆、この熱い映画を観てほしい。

きっと心が青色に燃えるはずだ。

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