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ハードボイルド映画戦記 -「怪物」

「怪物」って聞いて、あんたはどんな姿を思い浮かべる?

俺の世代で「怪物」と言えば「平成の怪物」こと松坂大輔だ。
甲子園では17回を投げたり決勝戦でノーヒットノーランをやってのけたり、とにかく規格外のルーキーだった。
高卒で西武に入ってからも新人から三年連続の最多勝投手となり、その後は海を渡りメジャーでも大活躍と平成の怪物は躍動を続けた。

まぁ松坂の怪物っぷりは置いておくとして、俺は先日「怪物」って映画を観た。
映画をあんまり観ないあんただって「万引き家族」って映画のタイトルくらいは知ってるよな。
「怪物」は「万引き家族」の監督、是枝裕和の最新作だ。しかも脚本には「東京ラブストーリー」で華々しくデビューを飾り、今も日本の連ドラを引っ張っているトップランナー坂元裕二。
おまけにプロデューサーに「君の名は」の川村元気、音楽に先日惜しまれつつも亡くなった世界的音楽家坂本龍一も名を連ねる。
「令和の怪物」佐々木朗希もぶっ飛ぶ程の豪華メンツ。まさしく「怪物」級映画だ。

あんたは是枝監督の映画って観たことあるかな?
さっきも挙げた「万引き家族」はカンヌでグランプリを獲ったし、他にも「誰も知らない」「そして父になる」「海町diary」…。まぁ挙げればキリが無いってほどの傑作をたくさん作ってる。
是枝作品は常に日常の細やかな描写や弱者への視点に立つ事で観る物に問いや新しい気づきを与える。
反面派手さが無いから、もしかすると是枝監督の映画って静的で、人間の感情の機微を繊細に捉えてて、かなり能動的に感じ取らないと鑑賞が難しいって思われてるかもしれない。
俺の是枝監督のパブリックイメージってこんな感じなんだけど、あんたはどうかな?

でもさ、俺からすれば是枝監督は実はサスペンスがめちゃくちゃ上手い監督だって思うんだよな。
例えば「万引き家族」なんかは万引きという犯罪を犯して暮らす(擬似)家族なのに、実は虐待された子供を育てるような良い面もある。そんな相反性を持つ人々が最後にはどうなるんだろう?っていう「気になる」気持ちが最後まで観客を飽きずに釘付けにするわけだ。

「誰も知らない」だって、親に見捨てられた子供たちだけで一体どうやって生きていくんだろう?という一種の「謎」や様々な「?(クエスチョン)」が物語の大きな推進力になってる。

「サスペンス」の語源は「suspensus」=「吊るす」って意味だ。
ズボンを肩から吊るすサスペンダーと同じ。つまり観客の気持ちを吊るして不安感や気がかりを作り、宙ぶらりんにすることで最後まで飽きずに観させ続けるんだよな。
要はどうしても気になって最後まで観ちゃうって事。
是枝作品はこの話作りがとにかく上手いし、演出も相まってとにかく最後まで目が離せなくなっちまう。
もしあんたが是枝作品を難しいとか、静かで退屈そう、なんて思ってたらそれは大間違い。
実はこれ以上ないほどエンターテインメント思考で、全く飽きずに見れる。
静かな世界観の中に実は激動的な感情や話の推進力がある。
脳ある鷹は爪を見せないってわけだ。

もちろん感情の機微や、新しい視点を教えてくれるのは言うまでもないけど、俺としては実は観やすさとか話の面白さが是枝作品を語る上で一番重要なポイントだと思ってる。
あえて雑に言うと「実はすげーシンプルでおもしれー」ってこと。
ドンパチものやギャング映画が好きな俺が、実は是枝作品が大好きだってのも理にかなってるよな。

是枝監督は長編デビュー作の「幻の光」を除いて全て脚本も手掛けている。
しかし今回は自身がずっと憧れの眼差しで見ていた坂元裕二を脚本に迎えた。(正確には坂本脚本の企画を是枝監督にオファーした)
サスペンス的作品が上手い是枝と連ドラの名手坂元裕二のコラボレーション。
坂元裕二脚本のドラマはそこまで多く観たわけではないけど、記憶に新しい「大豆田十和子と三人の元夫」は日常ほのぼのモノに見せかけ常に物語の先にベールがかけらた展開。「カルテット」なんかは分かりやすく主要人物それぞれに影が感じられる展開だった。
要は坂元裕二もサスペンスの名手ってわけ。
そして是枝監督と同じく坂本の描く物語やキャラクターも常に日常の細かな部分に寄り添い、弱者へのまなざしが観る物に新しい感情を与える。
この二人がタッグを組んで、しかもタイトルが「怪物」だ。
もう鑑賞前から俺は吊るされっぱなし。

映画が始まってももちろん俺は吊るされっぱなしだった。
予告編でもお馴染み「かいぶつだーれだ?」よろしく、俺はまんまと怪物探しを始めてしまう。
物語は大きな湖(諏訪湖)のある町の大火事から始まり、そこに住む小学5年生の湊(みなと)の不可解な行動や、片足の無くなる靴、泥の入った水筒、など多くの謎が散りばめられる。
「いじめ」という嫌な予感が否応なく横たわり、母の早織は学校に申し立てに行くが、これまた学校も謎多き非協力的な対応。
ちなみにここまででは本当にフラストレーションが溜まる。
中でも田中裕子演じる校長と永山瑛太演じる担任の保利へのフラストレーションは一級品。
まず作り話であんなに人をイライラさせる事はできないよな。
坂元裕二に座布団を10枚。

加えて映画全体に漂う不穏な雰囲気が嫌らしい。気づけばどこかで鳴っている不協和音、中でも校内に鳴り響く「あの音」から感じる不快さは忘れられない。
そしてゆれるカメラワークや早織が駐車する際のガタつき、映画全体のどこかに「怪物」が眠っているように感じさせる演出は白眉だ。
是枝監督にも座布団を10枚。

程なくしてぶちぎれる早織を見て、俺は「子供のためを思っているのに早織が怪物に見えてしまう話なのかな」と思った。
しかし物語は早織の視点から一転し、いじめの原因とされていた湊の担任教師保利(ほり)へと移る。
ここから真相が少しずつ見え隠れする。でももちろん、くっきりとは見えない。
俺はもう怪物探しにやっきになった。
みし観てたらあんたにだって、俺の気持ちが分かるだろ?

この映画は三章の構成で描かれる。1章目は早織の視点、2章目は保利視点、そして3章目は湊の視点だ。黒澤明の「羅生門」のようなスタイル。
俺は湊の第3章を観るまで、さっき言ったように怪物探しに夢中になっていた。そしてこの物語の真相がどんなものなのかを知りたかった。
しかし3章で俺は思いもよらぬところへ連れてかれた。
言ってみればそこは希望と残酷さが入り乱れた世界。それは早織や保利だから感じる残酷さと、湊と湊の友達の依里(より)だからこそ感じられる希望。
どんな世界かって?
もちろんそれはネタバレにもなるからディテールは置いておくよ。

第3章に入って、俺の怪物探しは終わった。
それは誰が怪物か、が分かったからではない。
この作品はきっと「怪物は誰か?」ではなく「人はなぜ誰かを怪物かと思うか?」という事を描いている作品だって感じたからだと思う。
そもそも「怪物」とは不思議な言葉だ。名詞でありながら固有の具象性を感じさせない。
「怪物」と聞いて思い浮かべるのは、ある人はゴジラかもしれないし、殺人鬼のような人物かもしれないし、まぁもしかしたら松坂かもしれない。
でもきっとそこには確実に「怖さ」「不気味さ」があるんじゃないかって俺は思うんだ。
そしてそいれは「分からない」「理解できない」からなんじゃないかとも思う。
「得体が知れないから怖い、分からないから恐い。
この作品でも序盤は保利が怪物に見える。確かに何を考えてるのか分からない男だ。
加えて序盤の湊も怪物に見える。急に風呂場で髪を切ったり、車から飛び降りたりする。何を考えてるのか分からないから、子供なんだけど、やっぱり恐い。

でも二章目になると保利がどんな人物か分かり、怪物ではないと思える。反対に早織は所謂モンスターペアレントに見えてくるし、湊に関しては更に怪物感が高まる。
そして第三章の湊視点に立てば言わずもがなだ。
つまり観る視点によって、人の印象はガラリと変わる。
まぁ当たり前のことなんだけど、この映画はそれを感覚的に、深く、観る者に感じさせる強度がある。

坂元裕二はインタビューで、この作品のタイトルが初期は「怪物」ではなく「なぜ」だったと明かしている。
確かにこの映画は「なぜ」だらけだ。特に湊とその友達の依里(より)の子供二人には「なぜ」を多く感じる。
そこには俺は行動と衝動の違いがあるように感じている。

最初は怪物に見える二人の大人、早織と保利は理由があるから行動している。
早織は子供が心配だから学校に申し立てに行き、保利は学校へ異議があって申し立てに協力をしない。
もう一人の重要人物である校長はある意味で理由の塊とも言えるかもしれないよな。
だから、二章の終わりに早織と保利は怪物じゃないと感じられる。

逆に湊、そして依里は衝動で動く。
子供はいつだって無軌道で、理由なく衝動に突き動かされて動く。
でも子供自身もその衝動がなぜ、そしてどこからくるか分からない。
その衝動が周囲が抱く衝動と違ったら戸惑うだろう。
「自分は周りと違って、変なんじゃないか?」そう思うはずだ。
どこかで周囲と違うことはいけない事なのかもと思いながら、それでも動き出してしまう。
衝動ってそういうものだけど、その結果自分の事を子供は恐いと思うかもしれない。
自分を「怪物」だと思うかもしれない。

でも、それでも、したい。動きたい。触りたい。思ったことを言いたい。伝えたい。
我慢なんて、大人にならないとできない。そうだろ?
湊と依里の抑えきれない衝動が、映画の後半で悲しくも美しく描かれる。

二人だけの秘密基地で怪物ゲーム(インディアンポーカーのようなゲーム)をするシーンがある。
動物や物の絵が描かれたカードを自分の額に当てて、相手に質問をしてその正体を自分で当てるゲーム。
湊と依里は自分が何者なのか、少しづつ意識し始めている。小学五年生にしてはずいぶん早いよな。
そんな二人が、二人だけの空間で、二人で対話をして自分の正体を少しづつ紐解いていく。
親ですら触れられないような幼い二人の優しさとやわらかさと親密さが、不思議で暖かい温度を感じさせる名場面だ。
二人が抱いた衝動は恐怖から希望に変わっていく。

でも、大人は子供の衝動を恐れる。それはやっぱり、理由がなく無軌道だからだろう。
でも子供は自らの衝動に希望を見出す。最初は恐れながらも、衝動のまま突き進んだ先に光があると信じる。
確かに俺もそうだったかもしれない。あんたはどうだい?
しかし人生は厳しく残酷だ。衝動のまま突っ走った先に何があるかは誰にも分からない。
この映画ではエンディングでその分からなさを、ある景色で表現されている。
希望を感じるけど甘々すぎないってところが是枝・坂本らしいところだ。二人に座布団を100枚。
他人事だからかもしれないけど、俺はそのまま突き進んでくれって思っちまったよな。

クライマックスの嵐も子供と大人で捉え方が違うのも面白い。
湊と依里は嵐の夜に忽然と姿を消してしまう。
大人の視点から見れば
嵐の日に姿を消してしまう子供たち、であり
子供の視点から見れば
嵐の日に旅立つ子供たち、でもある。
災害としての嵐が、どこか祝祭的な舞台装置にも見えてくる。

このような描かれる状況と掻き立てられる感情の不一致は他の是枝作品でも随所に見られる。
とんでもなく汚い風呂場にも関わらず。そこで戯れ合う血のつながっていない親子に、親子以上の繋がりを感じさせる「万引き家族」の風呂場シーン。
煌びやかな街の明かりが逆に別れの悲しさを強調する前作の「ベイビーブローカー」の観覧車のシーン。
是枝監督のクライマックスの手法はいつも二つの異なる感情が同時に掻き立てられる。座布団が足らなくなるよな。

なんだか長くなっちまったけど、「怪物」の話はここまで。

そういえば「平成の怪物」松坂大輔はガンガン三振に斬って取ったと思ったら急にコントロールが定まらなくなって満塁のピンチを作ったりしてたよな。
それでもまた立ち直ってあっさり三振で仕留めちまう。そういう訳分かんなさってのは確かに怪物だった。
でも、そんな松坂大輔も2021年に引退しちまった。
甲子園優勝、ノーヒットノーラン、MAX155キロの剛腕、そんな鳴り物入りでプロ野球界に乗り込んだ怪物も、現役最期は怪我でボロボロだった。
引退試合はMAX115キロ。フォアボールで野球人生にピリオドを打った。
「平成の怪物」松坂大輔が大した事ないなんて言いたい訳じゃないけど、今や解説席でにっこりはにかんでいる普通のおじさんだ。見方や見立て、時間の経過で人はどんな風にも見える。

自分を怪物かも知れないと思ってしまう幼いあの二人の衝動の先にはどんな風景が広がってると思う?
その風景は、俺やあんたの生きる世界と地続きで繋がってるはずだ。
もちろんそこを明るくするのも俺やあんた達だ。
ハードだと思うけど、一緒に頑張ろうな。


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