わかりあうということ
同じ痛みを知ることで、ようやく他人を理解できることになる。
しかし、それは他人と分かり合えることではない。
人は皆分かり合える。話せばわかる。何故そんなことが言える?分かり合えるとは、分かったつもりと紙一重だ。
平和を追い求めるとは何だろう。なぜそこまで安寧を追い求めるのか。
人間は感情で動く自己中心的な生物だ。本質は。
いついかなる時も力を貸す仲間、そんな繋がりを持つ他人は貴方にはおりますか?
友達、仲間、恋人、親類、他人、
真の結束を持ち、キズナを持つような繋がりなんて一生生きて幾つできるのだろうか。
これだけ長く生きてようやく一つのことが少しだけわかった気がします。
周囲の人は自分のことを助けたり、わかり合おうとしたり、仲良くしたり、無視したり、傷つけたり、傲慢だったり、話そうとしたり、怒ったり、
いろんなことをする。
所詮、人はたくさんの人の上に存在するにも関わらず、1人で生きている。
孤独であり、支え合いであり、、、
言葉は不思議だ。コミュニケーションは不思議だ。他人と共に在る時の感情は何だ。
出会い、言葉をぶつけ合い、コミュニケーションをする。同じ時を過ごす。近い環境で過ごす。離れ、近づき、
近くて遠い。内なるものを知るものは知る。理解する。わかりあうこともある。
この世に痛みは無数に在る。
この世に喜びや満ち足りるはたくさん在る。
無限に思考できる。可能性は無限大だ。こんな複雑な世界なのに全てのものは目の前のことに自分を殺されている。
目先のものにいつまでも囚われることは、果たして正しいのだろうか。
私はここ数年、正しいを追い求めている。
正しいは最も難しいことの一つだと思う。
正しいは果たしてなんだ。世界にいる命の数だけ、いやそれ以上にそれぞれの正しいが在る。
わからない。私の正しいは未だ見つからない。
正しいことがやりたいことに繋がるんだろうか?
生きる意味になり得るのだろうか?
感情は可能性を生む。痛みは可能性を生む。選択肢を得る。思考を与える。
これから先の選択の一助に、可能性の一助に。
多くのものを嗅ぎ、味わい、聞き、見て、感じる。
世界はこれから狭くなる。
もう少しはばたきたいと。
ひろげたい。わかりたい。
あらゆる繋がりを断ち切り、自己中にいきてやりたいとおもうが、自分は無力だ
さあどうする?
あなたは生に何を望む?
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