見出し画像

第百一話 化粧じるコウガイビル

もうひと月近くになる。
「今年の梅雨は長引きそうだなぁ」
ついこの前の抜けるような五月晴れ、あの眩く輝いた蒼空が恋しい。
グズグズ、ビシャビシャの梅雨が明ければすぐに夏だ。
「また今年も庭の雑草に悩まされそうだな」
様子を確かめておこうと梅雨の合間に庭に出た。芽生え始めた庭草や忌々しい雑草の新芽が、たっぷり水を含んで黒くなった土の上で顔を覗かせている。
古くなった、もう使われなくなって久しい犬小屋のトタンの屋根に奇妙なものが動いていた。頭部が左右に扁平に広がったナメクジのようなヒルのようなヌメヌメ、グニャグニャしたものがゆっくりと動いている。
「ひょっとしてこれはコウガイビルか」
コウガイビルと云うからには柘植などで作られた昔ながらの女物の簪(カンザシ)のような頭の形をしているわけだ。
「それにしても妙な形をしているな」
以前、図鑑で見て知ってはいたものの本物を見るのは初めてだ。
まじまじと観ると本当に変な奴だ。そしてシュモクザメを想い出した。シュモクザメも頭部が左右に伸びて撞木(シュモク)のような奇妙な形をしている。コウガイビルはシュモクザメのヒル版と云っても差し支えないだろう。
「だとすると、コウガイビルは何故シュモクビルと名付けなかったのだろう。もしくはなぜシュモクザメはコウガイザメと名付けなかったのだろう」
天邪鬼な私の頭にふと疑問が湧いた。
コウガイビルはヒルと名前が付いているもののヒルではない。だから血を吸われる心配はない。勿論吸血鬼の親戚でもない。別の種類の生物なのだ。
変形動物門ウズムシ目コウガイビル亜目コウガイビル科コウガイビル属と云うウズムシの仲間なのだ。ミミズやナメクジ、カタツムリなどを餌にしているらしい。
ウズムシ(渦虫)を英語で言うとプラナリアになる。
「何のことはない、プラナリアの一種だ」
コウガイビルはナメクジやヒルに比べると結構長い。結構どころか相当長い。長すぎるくらいだ。優に三十センチは超えている。
当然歩くのは、と云うか移動するのはとてもゆっくりだ。捕まえようと思えば簡単に捕まえられる。が、さすがに手で捕まえるのはちょっと気後れがする。
「どうしたものか」
そこで娘の割れたプラスチックの下敷きをゴミ箱から拾ってきて、コウガイビルの頭のほうから掬い上げてみた。うまくいかない。途中で切れてしまう。
「意外に弱い奴だな」
切れてもすぐに再生するらしい。
「なかなかしぶとい奴だ」
何せプラナリアだ。
以来、コウガイビルは我が家の庭に棲み付いた、らしい。
と云うのもその後すぐに、私が酔って転んだ拍子に右足のくるぶしを骨折してしまったのだ。それで三か月ほど家に籠らざるを得なくなった。その間、犬の散歩は娘が庭に放してお茶を濁すことになった。私は外どころか庭にすら出る機会が無くなってしまった。ときどき窓越しに庭を眺めてみるのだが、コウガイビルらしきものは何処にも見当たらない。
そろそろ秋の気配がする。私同様、寒さと乾燥にはめっきり弱いらしい。犬が散歩の折に、たまたま地面を這っているコウガイビルを踏んづけてしまったのか。ときどき窓越しに庭を眺めてみるのだが、コウガイビルらしきものは何処にも見当たらない。
「まさか犬が食べてはしまわないだろう」
ちょっと心配になった。
そのうち足の傷が癒えて年が明け、また梅雨の季節がやってきた。庭を散策してみるのだが、相変わらずコウガイビルは姿を見せない。
「どうしたのだろう」
ちょっと寂しい気がする。あんな、グロテスクな姿形のコウガイビルだが、居なくなると一抹の寂しさを感じる。それにああ見えてもそれなりに愛嬌のある奴だった。心の底で「コウちゃん」と呼んでみる。
「コウちゃん、もう来ないのかな」
諦めかけた矢先、突然、コウガイビルが我が家にやってきた。それも鬼面人を驚かす風体をして。
扁平な頭に角隠しをしていた。白無垢の立派な花嫁衣裳だった。
「お嫁にいくのでもう会えません」
恥ずかしそうに言う。
急な話に私は狼狽えた。もう会えないと云うことは、これが今生の別れか。
「万感、胸に迫りくるものがあった」
俯いて頻りに畳に「の」の字を書いている。なかなか顔が上げられないらしい。楚々とした身のこなしや裾捌きがどこか古風な育ちを偲ばせる。
馬子にも衣裳と云うが、やはり白無垢に角隠しはホッとする。
結婚式は仏前だったのだろう、気のせいか抹香臭い。
それにしても化粧が濃い。
「老婆心ながら、少し化粧が濃過ぎはしまいか」と訊ねた。
「これからお嫁にいくのですもの、化粧を濃くしないと正体がバレてしまいますわ。バレたら離縁されて、私は路頭に迷ってしまいますもの。子どもでもいたら、それこそやってゆかれません。親子心中しなくてはならないとも限りません。そうなったらどうしましょう。今の裡に用心に用心を重ね、多少化粧が濃くっても、脛に傷があっても、腹が黒くても、コウガイビルだと判らないようにしなくては。そうそう、祝宴の席でもけしてミミズなどを食べないように注意しましょう」
そこで目が覚めた。
「お嫁にいってしまえば会えなくなるのもしょうがないな。それにしてもあの化粧はどうにかならないものか」
私は覚めてからも暫くその事ばかり気になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?