【感想】さみしい夜にはペンを持て
また名著に出会ってしまった。そしてこれは後世に残すべきだと感じるほどの本だった。30代の私が読んでも心にくる内容であったが、内容は小学生や中学校でも読める難易度でありながら、人の心を写すそんな本。
ぼくは、ぼくのままのぼくを、好きになりたかった。
この言葉に凝縮される私たちの願いを叶える方法は「さみしい夜にペンを持つこと」
誰かに分かって欲しい、周りに認めて欲しい、自己肯定感が低い・・。現代に生きている私たちが持つ感情。そんな感情をスッキリ前向きにしてくれる内容です。
なぜnoteを書くのか
私自身たびたびであるが、こうしてnoteを書いている。本の感想を書いたり、日々感じたことを書いたり、DIYしたものの記録として書いたりもしている。色んな題材で、色んな書き方でnoteを書いている。
その前にもブログを書いてみたり、古くはOne Day Note(だったかな?)という白い手書きnoteにその日1日のことを書くみたいなことをやったりもしていた。
なぜ文章を書くのか。
特に深く考えたことは無いけど、noteを書くと落ち着いた気持ち、スッキリとした気持ちになり、より前向きに息を吸っている気分になるのは間違いない。それを欲しさ書いている訳では無いし、そもそも書くこと自体が結構めんどくさい。
ただ急に書きたくなる。日々の忙しさの間を縫って、こうしてnoteを書くのだ。
それは本に登場するやどかりのおじさんが答えを教えてくれた。
頭の中にあるモヤモヤを外に出すとスッキリする
みんなにもきっとある場面がある。なんかモヤモヤしてスッキリしないものを抱えている時、なんでもいいから話してみてと家族や恋人、友人に言われて、バーっと話してしまったことでスッキリすることが。
現実は何も変わらない。でも今の自分の気持ちを外に吐き出すことでスッキリすることがある。これをやどかりのおじさんは「頭の中の大掃除」と言う。そう、モヤモヤしたものを掃除すると私たちはとてもスッキリするのだ。
「思う」と「言う」には距離があり、その距離を縮めないと言葉にはならない。思っているままでは決してスッキリしないのだ。
ただこのスッキリは一次的なものである。話したことなんて下手したら数時間後には忘れてしまっているし、現実は変わらない。だからこそ「考える」必要がある。
頭の中で「思う」から「言う」までの距離を縮められたら、今度は「考える」までの距離を詰めるのだ。
考えているようで実は考えていない
私たちは普段一生懸命考えているようで、実はほとんど考えていないのでは無いか。そう言われると腹立つ気分にもあるけど、本当にそうなのかもしれない。
顕著なのが、会話である。普段の生活でほとんどの割合が占める会話。これはほとんど考えていない時間だ。やどかりのおじさんは言う。「おしゃべりの9割は「返事」で出来ている」と。
おじさんの言う通りである。しかも会話のやり取りは返事が貰える前提で「言葉」を発する。反応があるのが前提なのだ。これは普通の会話もチャットテキストでのやり取りも同じである。
私たちは実はほとんど考えて言葉を発してないんじゃないかと思う。家族、友達の会話も聞いているようで、ベストな返しを頭で練りながら聞く。そのラリーが上手く、または自分に有利になるようにするために反応し続けていく。ラリーは続き続けるので、深く考える時間なんてないのだ。
これは仕事も同じである。つまり普段生きていてほとんどの時間をラリーに費やしている私たちはほとんど「考えて」生きていないのだ。
考えるためには自分と「対話」する必要がある
頭の中にあるモヤモヤをスッキリさせるためには「思う」から「言う」の距離を縮め、最後は「考える」必要がある。そして「考える」ためには自分と「対話」する必要があるのだ。
対話する方法として、やどかりのおじさんは「日記」を勧めている。日記と言っても日々の起きたことを書き起こすということでは無い。
アイスを食べたのなら「アイスクリームを食べた」と書くか、せいぜい「暑かったから、ぶどう味のアイスクリームを食べた」と書くか程度で終わってしまう。でも日記に書くべきは、この時感じたことである。
暑いなと感じた瞬間、アイスクリームを食べる瞬間、食べていた時に見ていた景色、その時考えていたこと・・。
こういった場面をスローモーションで思い出し、その時の気持ちを噛み砕いて日記に書くのだとやどかりのおじさんは言っていた。
こうして出来上がった日記の中には「もうひとりの自分」が生まれ、彼/彼女と私たちは対話を繰り広げられるようになる。
書いて、忘れて、思い出して
仮に10日間日記を書き続けたとして、初日に書いたことを今あたなは思い出せるだろうか?私は難しいと思う。
そう、人間は忘れてしまうもんなのだ。ただやどかりのおじさんは忘れることは悪いことではないと言う。
前に進むために忘れる。でも忘れたくないこともある。そういったことが「日記」に残り続けたら、後で見返すことが出来る。
忘れてしまっても思い出すことは出来るのだ。
日常の中で、モヤモヤが溜まり続けてしまうだろう。それを「言う」で消化しないで、「考える」ことにより昇華させて、自分の中で自分を育み、そんなことも忘れて、前に進む。
でもその過程や当時の気持ちは必ず思い出せる。なぜならば日記があるから。それはとても強いお守りのような存在。
「誰かに背中を押して欲しい」という気持ちは他人では無く「自分」なんだと思う。
自分と対話することで生まれる世界はきっと出会ったことが無い世界だろう。そんな世界があるんだと教えてもらった本である。
だからこそ、さみしい夜にはペンを持とう。
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