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良い文章と読まれる文章と優れた文章はちがう #エッセイ

相変わらず「ひとこと」でサマるのが苦手です。だから長々と書いてしまいます。すいません。ところで文章に良い文章はあるのでしょうか。「良い文章」と「読まれる文章」はちがうし「優れた文章」とも違うと思うので「文章を書くこと」について書き残しておきます。これはエッセイです。

池松潤(いけまつ じゅん)
恋愛小説家/ サイボウズ式第2編集部 / アウトプットLAB 情報発信学 SNSコーチング  ※登壇・イベントなどは ⇒ コチラ

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文章を書ける人は世の中でどれくらい居るでしょう。実は凄く少ないと感じています。社会人になると報告書とか企画書とか「文書」は書きますが「文章」を書く機会は減るものです。やがて手紙もEメールも書かなくなって、LINEとかSNSでしか文字を打たなくなった人は結構多いんじゃないかと思います。文章なんて書けると思っているけど書ける人は少ないのです。だから文章を書けるだけで凄いので「良い文章とは?」なんて考えずに「読みたいことを書けばいい」のだと思います。これは田中泰延さんののタイトルですが、究極のコトバです。自分が読みたいことを探してみたら何処にもなかった。だから自分で書こうと思った。誰かが書いていれば、それを読めばいいじゃないか。。「でもそんな簡単なもんじゃねぇ。。」心の声が出ましたすいません。プロ書き手の想いが伝わってくるメッセージです。その背景は深海のように深い。だから響くのかもしれません。



◆「良い文章」とは

「良い文章は読む人の数だけある」と思います。良い文章とは「書き手」と「読み手」の関係で変わるからです。一方的に「良い文章」などありません。そもそも自分が良い文章だと感じても他の人には違うわけです。もし「良い文章」を書きたいなら「美しい文章」「自分には書けない文章」を読んだ方がいいと思います。でもあなたが天才ならばそれも必要ないでしょう。文才とは再現性もなければ言語化も不可能だからです。しかし書くのがスキなのであれば、そして書き始めたばかりなら、「何に」(日記に・手紙に・noteに)書くのか?、「誰のために」書くのか?、「何のために」書くのか?を意識して書くのをお勧めします。自分が何をしたいのか?何処へ行きたいのか?分からずに彷徨い書くのは、地図がない迷子のようなものだと思うからです。

※まぁ迷子でもいいんですよ。自己内省や自己満足のために書くのもアリだし、すべては自分次第なのです。でもいつまでも悩みからは解放されないと思うのです。それさえも自分次第なのですけどね。言うのは簡単で、やるのは難しいということ。シゴトの悩みは仕事でしか解決できないように、文章の悩みは書くことでしか解決しないのです。


◆「読まれる文章」とは

「読まれる文章」とはシェアされる文章だと思います。テレビ時代の「読まれる文章」とは「売れる文章」であり、新聞やテレビ番組で「紹介される文章」でした。いまではすっかり様相が変わりましたね。しかし基本構造は変わらなくて「人にお勧めされる文章」だと思います。「読んでよかった」という評価がポイントです。沢山の人に喜んでもらえると「読まれる」量が増えるのだと思います。「読まれる」量が増えると気分がイイのは当然ですが、そもそも何のために「読まれる」のか見失ってしまうと、「読まれる」量が増えたあとに書けなくなってしまいます。手段と目的を間違えると「読まれる」ために文章を書くことになるからです。もちろん前述のようにあなたが天才ならば問題ありません。天才は期せずして「読まれる」量が増えて、自分のスキなことが世間のニーズに合致しているわけですから何も考える必要などないのです。ちなみに「読まれる文章」は、目的が無くても悪いことばかりではありません。多くの人に読まれた状態にならないと「どんな風に書けばそうなるのか」わからないからです。ヒット作も大してバズったことも無い私が何を言うか状態ですけど。すいません。でも体験を通じて言えることはあります。「失敗から学ぶことはできる」しかし「勝たないとわからない事」もまた多い。「勝たないとなぜ勝てないのかわからない」というのも真理です。だから「読まれた文章」を書いた体験は大事に違いないのです。


◆「優れた文章」とは

優れた文章とは記憶に残る文章です。そもそも文章とは、まとまった考えや想いを表現することだと思うのですが、その背景や問いかける「何か」が優れていると人に伝わります。伝わるだけでなくてカタルシス(魂の浄化)を引き起こします。だから「読み手」にとってそれは「自分の物語」に昇華するのでしょう。カタルシスが読後に生まれると何年も記憶に残る。読んだときの時代の空気や人生と混じり合うことで「読み手の物語」として記憶に残るのだと思うのです。

これは音楽で解説すると分かりやすいかもしれません。青春時代に聴いた名曲はいつまでも心に残ります。それは「歌った人の手」を離れて「聴いた人の心の中に宿る」からです。ユーミンさんがラジオ番組で言ってました、「歌った曲はすでに私の曲ではなくなっていてファンの曲になっているの」と。これはミュージシャンだけの体験ではないはずです。「小説は分かち合うもの」と語ったのは、ノーベル文学賞受賞したカズオ・イシグロさんでした。彼はNHKスペシャル・文学白熱教室で「小説を書くのは、記憶や心象風景を読者と分かち合いたいから」と語っています。書いた文章が読んだひとの記憶に残り、行動を変える。そんな文章が「優れた文章」なのだと思うのです。

そこで、山崎豊子さんの名著「運命のひと」についてお話しておきたいと思います。本著は沖縄返還時の日米密約を題材に、国家権力とジャーナリズムの戦いを描いた小説。「この作品は事実を取材し、小説的に構築したフィクションである」と冒頭に記載されていますが、主人公の「西山太吉」は毎日新聞・政治部に実在記者である西山氏のことです。1971年の沖縄返還協定で取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した西山記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件を描いています。西山事件、別名沖縄密約事件と呼ばれていますが、小説では主人公はラストに沖縄に行って想いを伝えます。しかし実在の西山氏は沖縄に行くことはありませんでした。やがて本著が世に広まり色々な経緯ののち、西山氏は最終的に沖縄に行かれたそうです。小説が実在の人物をも動かす。そんなチカラが文章にはあるのかもしれません。これには諸説あり意見は分かれると思いますが、いずれにしても文章や歌には大きなチカラがあるのだと思います。それを信じるのも「書き手」の能力かもしれません。

※こういう事を書くと「書き手」のチカラを暴力的に使ってはいけない。とか、文章で傷つけてはいけない。というハナシが出てくるのですが、そういう事が言いたいんじゃないの。文章は行間から「書き手」の人柄がにじみ出ます。すべてがにじみ出ると言ってもいいかもしれません。文章はどう使うか?スキルの問題ではなくて、想いから生まれるもので、分かち合えるものであり、読んだ人の物語になって記憶に残るものです。ただそれが良い方向に広がる時もあるでしょうし、そうでない場合もあります。10年後にその評価も変わってしまうことも想像できます。だから今の状況だけで決めないことです。そこを忘れないようにしたいと思っています。


「文章を書く」ということ

文章を書くと「内省」できるし、「読んで」もらえるし、「コメント」もらえたり、「シェア」してもらえたり、楽しいことが増えます。文章を書ける人はますます文章を書くことが上手になります。だからこそ「文章を書ける」のが当たり前ではなくて、とても凄いことだと自分をホメてあげて欲しいと思ってます。SNSレーダーチャート診断で1万本以上読んで感じることです。

『書くこと」は独りです。2人で同じ画面・紙面に同時に書くことはできません。独りだからこそ(誰かに評価してもらう前に)自分で自分の良い所を自分でホメてあげてほしいのです。変なこと言ってるヤツだと感じるかもしれませんが、自分の長所を「長所だと認識する時間」が「書き手」には大事だと思います。「書き手」の自己肯定力は「書き手」の意志で育むことが大事です。なぜならば、自立した「書き手」の文章は根が太く揺らぐことがないからです。「書き手」が揺らがなければ、「読み手」にとってその文章は読み甲斐のある文章になると思います。私もそうありたいと思っていますし、読んでよかったと思ってもらえる文書を書きたいと願っています。そして、そういう文章が書けるようになるのには終わりはないのだとも。書くことは孤独と言いますが、読み手が書き手を育てます。だから独りではないのです。だって何かを分かち合えるのですから。あなたの文章を私は読んでいます。だから大丈夫です。どんな文章でもいいじゃないですか。面白い文章も良い文章も読む人の数だけあると思ってます。誰かと比較するものじゃありません。だから明日も書きたいと思っています。

書くのは自由です。自由を味わいたいと思います。貴重な時間を割いて読んで頂きありがとうございます。ではまたnoteでお会いしましょう。


このtweetしたら書きたくなりました。ありがとう😭ありがとう😊




#読みたいことを書けばいい
#情報発信学
#エッセイ

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