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懐かしのSNS「mixi」の2008年の日記より。
長女(中学生)・次女と3女(小学生)のころの日記。

今回は、一般的に「親子とは」ということを考えるときに
私が大前提として考えていることについて、書いてみたいと思います。


親子というものは、親子の数だけ、違う形、違う学びがある

私は、その親子によって、それぞれに与えられた課題が
まったく違うと思っています。

実は、私は、小さいころから、
母のことを「神様」とは思ったことはありませんでした。

むしろ、母のことを、
「なぜ、完璧であろうと必死になるんだろう」
と悩んでいました。

「人間って、もっといびつで不自然なもの」
「人間って、完璧じゃなくていいもの」
「みんな違うけど、みんないいはずなんだよ」
・・・金子みすゞさんと同じ意見でもありました。
こんな風に、考えていたのです。

だから、私は母にずっと伝えたいと思っていたのは、

「完璧じゃなくても、私はお母さんのこと好きだよ」
「そんなに必死でがんばんなくても、もう充分、尊敬してるよ」
「だから、私のことも、今のこの等身大のサイズのままで認めて」

ということでした。


 人間って、もっと楽しい生き物。
 人間って、もっとそれぞれに価値のある生き物。
 それぞれが、役割があって生まれてくるもの。

それを、私はずっと、母に知ってもらいたかった。
自分自身がまだ幼くて、経験も足りないから根拠もなくて、
今よりも、ずっとぐらぐらしてはいましたが、
私の信念でした。

そして、自分のことも、他人のことも、許せたら
きっと母も少し楽になれるんじゃないかと。

そして何よりも、それぞれの価値を認められるようになって
私自身を肯定して欲しかったんだと思います。
それが、私の、子どもとしての、母への役割でもあるのかもしれません。

今は、むしろ、そういう母の元に生まれてきて、
母の人生の味方になって、安心して腹を割って話せる相手になれたこと、
母にできることで、私をたくさん支えてきてくれたこと、
両方感謝しています。


どんな親であっても、子どもは不満があって当たり前

どんな“立派”な親だろうと、
きっと子どもにとっては、不満があるものだとも思っています。

私の両親も、世間一般的に、よく「理想的な親」だと
担任の教諭や、友人たちに言われました。
ま、転職してトラブルに見舞われ墜落しちゃいましたが、
父が、大手製薬会社にて、薬剤師として順風満帆だったころ、
バレエ、ピアノ、テニス、フィギュアスケートと、
何やらいろいろ習わせてもらいましたし、行儀も厳しく躾けられました。
でも、完璧であろうとすることそのものが、私には嫌な面でした。

でもでも、です。
親との違いを発見し、それを乗り越えて
自分を認めるのが、人間の心の成長なんじゃないかと、
何となく感じていました。

短大の保育科でやはり同じ説を学び、すごく納得しました。
児童心理学の授業だったかな。

同性の親を、まず否定し、自分との違いを見つけます。
そして、それを乗り越えて、自分を認められるようになってこそ、
自我の確立が可能である。

私も基本的に、そう考えています。


親と子は、無いものを補い合うもの

親子って、お互いに持っていない何かを補うために、
生まれてくるっていうのも感じます。
助けるためだったり、教えてあげるためだったり、
互いの思想を認め合うことによって、
一回り大きく成長できるのだと思います。

決して、親→子という一方通行での学びではなくて、
子→親という学びもたくさんあります。
私自身、3人からたくさんのことを学んでいます。
子どもから学ぶという姿勢を忘れると、
親は成長できません。
私は、三面鏡を回りに立てられて、逃げ場なしです。(笑)
これでもかーと、見せられて、嫌な面を認めざるを得ません。


人間って、1人1人が、完璧である必要はなくて、
お互いに、凸凹の部分を尊重し合って、認めて支え合えたら
一番、心が平穏になると思います。
親子だけではなく、
夫婦でも、友達でも、共通していると思いますが。

「課題」が各自それぞれに違いますから、
誰が上とか、誰が下とかじゃないんですよね。
あるものと、ないものとで、補い合えばいいんだと思います。


愛情が伝わるには、タイムラグがある

大人になって、家から出たとき。
そして、自分が親になったとき。
さらに、その子どもが成長して、反抗期になったとき。

いろいろな節々で、少しずつ形を変えて伝わっていくのが
「愛情」だと思います。
今、めぇこのような中学生に、
リアルタイムに、「すべて」をわかって欲しいと
思っているわけではありません。

「伝わる」ことには、すべてタイムラグが存在することと
キャッチする側が、グロープを持っているかどうかで
まったく違ってくるというのが、私の大前提です。

でも、せめて「こんなに好きなのに~」ってことだけは、
もう少し、伝わって欲しいと感じるのが
今、現在、がんばっているつもりの私自身の願望です。

ま、「じいちゃんのでこ眼鏡」と同じで、
なかなか気づかないものなんでしょうねぇ。
片親な分だけ、私への執着もすごいので・・・。


愛の形そのものが、きっとみんな違う

たぶん、十人十色の人間の価値観の分だけ、
「愛」の形もきっと違うんだろうなぁとも、思っています。

例えば、めぇこが欲しい愛の形と、私が伝えたい愛の形、
母が与えたがっていた愛と、私が欲しかった愛が違うのかも。
そして、自分が欲しかった愛を子どもに与えようとして、
ずれていくっていうことも、あるような気がしています。

でも、そこでもしも、うまくいかないとして
最終的に、乗り越えるかどうかは自分次第だと思うのです。

というようなことが、私の「親子」を考えるときの大前提です。

いろいろな考え方があると思いますので
これが正しいと言うつもりはありません。

私は、生きていくうえで、
たまたま、小さいころから持っていた思想や、
成長するにつれて得てきた思想が、こんな感じだったというだけです。

小学生時代から、
「目に見えるものの裏には、理由がある」
「みんな違うけど、みんなそれぞれに良さがある」
と、思って生きてきました。

10歳ぐらいから、「生きることの意味」を考え始め
20歳のころに、人の心の成長とは「螺旋」であると感じました。
そういうこと考えるのが、きっと好きなだけだと思います。

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