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創作の世界



突然だがサブカルが好きだ。


要するに「オタク」に自分は日本人のカテゴライズとして分類されるはずだ。ただ如何せん、ジャンルがごった返していてもはや闇鍋状態

サブカル以外のジャンルも加えると漫画、小説含むその他読書、アニメ、2.5次元舞台鑑賞、コスプレ(見る派)、映画、メイク、ヘアセット、ファッション(かなり偏ってる)、漢字、英国、西欧、魔女(ジャンヌダルクが好きすぎて拗らせた)、音楽(とりわけゲーム、映画のサントラ)、ゲーム(ただし死ぬほど下手)、創作料理・・・ETC(終わってない)

私のTwitterをご存じの方はフォロー数が400を超えていることにお気づきの方もいるかもしれない。(断じてフォロ「ワー」数ではない。一般人なんで。)趣味の数が多いので新設したアカウント(稼働から半年経っていない)で選りすぐりした結果が400である。何も考えてなければ1000はあっという間だろう。TLが追えなくなるのでそれをするつもりはないが。

細かく話し出すとメイクについては映画や舞台のメイクが好きで蜷川実花的な赤い口紅バリバリの派手メイクや色とりどりのメイクがするのも見るのも好き。そこに付随してのコスプレ鑑賞好きである。自分でやらないんですかと言われたら己の顔面偏差値の低さを滔々と語りだすので注意(誰も言わない)。

アニメからゲームに繋がったりゲームからアニメに繋がったりそこからサントラ、主題歌に繋がったりするもんだからこの辺りも自動的に脳内で接続されていき一つの趣味として認識し夢中になるというより、

必ず、その時の「旬」な好きなものがあるという話。

これはでも、私に限った話ではないのではないかと感じているが如何だろうか。料理に夢中になっていたらそこから台所の掃除で如何にしぶとい汚れを落とすことが出来るかに夢中になる人もいると思う(私はちなみに片付け全般苦手だ)。読書が好きな人が自分で創作し出すのも、音読が好きになり配信し始めるのも全部、「趣味」と言っていいと思う。一つの好きから枝分かれしていくことが、落ち着きがないようで自分のことながら好きじゃなかった(金銭的にも趣味に最も負担がかかってる←)。

 ただ、その夢中になった「物事」たちに当時、出会っていなかったら今の自分はいないし、夢中だったころの情熱や感動、喜び、何より楽しみがなかったと思うとなんてつまらないんだろうかと思った。

 会社の面接などで言える趣味なんてロクにない。「読書」なんて言い方をしても定番過ぎて「どうせ読んでない」と思われて「どういうものを読むのか」さえ聞かれたことがなかった(結構悲しかった・・・)。でも面接以外の機会で聞いてくれた人がいても「書肆系」(要するに『本に関しての本』こと)と言っても「???」の反応だったので私の趣味は理解されがたいのだと自覚するようになった。(2.5次元舞台も結構まだ認知度低い…)

「創り出された世界」に関わるのが夢だったころもあった。ゲームもアニメも映画も音楽もあまりにも全部好きが詰まり過ぎていてはっきりしたビジョンが持てなかった。だけど時間は関係ないと思って、今、恐らく最も経験のある小説の創作が出来ないかと目下、健闘している。だが、私はこうやってつらつらと自分の思いを吐露することが好きなのだと最近は自覚している。「字書き」として何か為せないかと検討するもよしかもしれない。目標としてみよう。

話は戻って随分とサブカルの世界も市民権を得てきて私が中学、高校の時代から比較すると雲泥の差で理解というか認知されるようになったなと感じた。

とりわけ一般人にも伝わるようになったのが「BL」(ボーイズラブ)や「GL」(ガールズラブ)などの同性同士の恋愛を描いた漫画や小説だ。更には映画やドラマまでに広がりをみせた。これは本当にびっくりしたけれどLGBTや同性パートナーシップなどが話題になり一般的な話題になるようになった。

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以下、ボーイズラブについての(偏った)記事になっているので苦手な方は避けてください。

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(※※※※※※※※※※※※上記からの続き)

同時に、BLやGL作品を生み出す作者たちの作品の完成度の高さも相まっていると感じる。BL作品については推定20年近く読んできた人間として、紀伊カンナ宝井理人おげれつたなか鯛野ニッケ、はらだなど最近の人気作者は人情ものをドラマチックに描き、且つ容赦のない現実感を取り入れるのが非常に秀逸に感じる。

ファンタジーな世界だったものが現実に入ってきている、今のBL、GL産業はそういう世界になってきていると思う。凪良ゆうなどは最たるものかもしれない。彼女の場合はもともとが長くBL作家として小説を執筆してきていたが「神様のビオトープ」や「すみれ荘ファミリア」(こちらについては私は未読)で『小説家』としての活動も始めた。そこから本屋大賞の受賞である。(「流浪の月」)

私は彼女の作品は「美しい彼」シリーズで出会い、なんて綺麗な文体で描く作家なのだろうと感じたと同時にこんなに胸を抉るような気持になるのかと感じた。これは私が読んできた凪良作品、どの作品にも共通していることだった。萩尾望都などの時代の頃の同性愛物の『残酷さ』とは別と思われるそれは宝井理人『テンカウント』にも感じた。おげれつたなかはらだについては更にそこへ暴力性が加わる。背筋に伝わる残酷さから、胸を突くような残酷さへと変化を遂げた、私はこんな風に感じている。

なんとも言語化の難しい感情なので表現し難いが10年近く、同じ感覚を抱いている漫画家が一人だけいる。峰倉かずやだ。彼女の『WILD ADAPTER』(一応、非BL)についてが上記の感覚を与えてきた第一人者のように私の中でインプットされている。

「愛」を語ろうとしていない。「人間の感情」、その中でも喪う「恐怖」を表現しようとした結果として「愛情」に映るという愛⇔恐れという公式を作り出したのがBLの定義なのではないかと私は勝手に解釈している。

相反したものとしての感情表現を一からイラストを用いて表現する、それを更に物語にする。一冊高くても1000円などいかない単行本でこういった感覚、考えが頭をよぎらせてくれる作品を描いている漫画家たちに頭が上がらずに生きてきた。

「創り出す」人たちは本当に凄い。いつも、言語や感情表現を自分以外のものから得ることが可能なのは人間以外、今のところ困難だろう。「感情」なんて無ければいいと、体調と心を壊したときは思ったが、本やその他作品を見て、泣いたり笑ったり出来なくなるのはあまりにも淋しいので撤回しようと感じた。


結局何が言いたいかうまくまとまらずに終わり。

長くて申し訳ない。ここまで読んでいただいた猛者がいたら深謝。

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