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「アフター・ヤン考察」ロボット工学三原則から考える「ヤンの機能停止」

 たしかアイザック・アシモフの科学エッセイで読んだと思うんだけど、「生物の脳細胞」と「機械の電子頭脳」の構造的違いとは、その構成要素の根幹が前者の場合は炭素であり、後者の場合はケイ素だということで、あとは基本的に相違はないから、問題はその処理能力ということになるんだけど、電子頭脳が飛躍的に発展していけば、人間の脳の持つ複雑さをいつかは超えるのではないか、ということなんだそうだ。
 このことを知った時にまず思ったのは、「そうなった場合や、それに近づいた段階であっても、複雑さを増していくにつれて、機械の頭脳は我々が考える『感情』を持ちうるのではないか」ということだった。別の言い方をするなら、「プログラムが蓄積されて一定の複雑さに達した時に人類が『感情』と呼ぶ振る舞いを見せるようになるのではないか」ということだった。

 例えば学習機能によって行動が複雑化するペットロボットの振る舞いに生物的な印象を持ったりすることがあるのもそうした一例だと思う。犬や猫、イルカなどの哺乳類は、人とある程度のコミュニケーションが取れているように見えるし、表情などがわからない昆虫などの場合はそうした印象を持つことはあまりないのも、それぞれの頭脳の働き具合に準じてのことなんじゃないかと思う。
 で、生物の場合は生れた時から親になついたり、母乳を吸うという行為を自然に行ったりするけど、これはあらかじめDNAにプログラムされている結果だし、親が食べる真似をしてみせると赤ん坊が同じことをするのは「ミラーニューロン」が作用した結果で、これも一種のプログラムだ。その後の成長過程で知り得た価値観の累積が、食べ物の好みや異性に対する好みとして最適化されていったりするんだと、今は考えたりもしている。
 とはいえ、例えばプログラムによって動作するロボットが、人間のように感情(のようなもの)に影響されて行動されても、それは労働力として開発された本来の目的からは外れるし、それ以前に「人間を超えるようになられても困る」という大前提がある。だからアシモフはSF作家としての彼の代表作でもある一連のロボットものの物語において、「ロボット工学の三原則」を設定し、ロボットたちの行動に制限を設けた。「第1条:ロボットは人間に危害を加えてはならない」といった具合だ。(厳密には1950年にアシモフが短編集「われはロボット」を刊行した際、編集者のジョン・キャンベルJrが物語を通して共通する規範を指摘し、アシモフとキャンベルでまとめたもの)

 この「アシモフのロボット三原則」は、現代のロボット学者にとっては避けては通れない道で、現実でもこの三原則は順守されるべきであるという認識が定まっている。アシモフのロボットシリーズの面白さは、この三原則の解釈をめぐって生じる様々な矛盾や謎に人間が振り回されるというものだ。(余談だが、後年、ここには「第0原則」が追加されることになり、これによってアシモフの一連の著作が1つの世界観にまとまっていくという大興奮の展開になっていく)

 映画の世界では1956年の古典SF「禁断の惑星」に登場したロボット、ロビィがアシモフの三原則を反映した設定になっていたことで有名だ。一方で1968年の「2001年宇宙の旅」ではAIのHAL9000がディスカバリー号の乗組員の命を奪っていくことから分かるように、三原則は無視されていたし、後の「ターミネーター」や「スター・ウォーズ」シリーズに登場するバトルドロイドなど、映画の世界では三原則を適用しない例が多いのが実情だ。

 知的な興奮が主体である小説と違い、映画ではアクションが求められがちなので、三原則は邪魔にしかならない、というわけだ。逆に言えば、三原則に準拠した映画の場合、それは娯楽よりはインテリジェンスの方向を向いている作品だといえると思う。
 そういったわけで、「アフター・ヤン」に登場するロボットであるヤンには、子守というその役割から作中で言及されることはないがロボット三原則が適用されているように描かれている。そしてそのことが物語の中でも地味だけど大きな意味を持つことになる。

 ヤンが機能を停止したことで家長であるジェイクはヤンの体内にメモリーバンクが組み込まれていることを知る。このメモリーバンクに記録されていた「ヤンの記憶」を辿ることで物語は進んでいく。

 わずか数秒しか記録できないヤンのメモリーバンクには、しかし実に多様な「人生の断片」が記録されていた。「妹」であるミカの成長過程にとどまらず、父ジェイクや母カイラの様子、森や生物の様子など、ヤンが「記憶にとどめておきたい」と選択した瞬間がそこには保存されていた。ミカが窓越しに父親のジェイクを見つめ、「パパ」とつぶやくフッテージには、白人であるジェイクと養子である中国人のミカとの「微妙な距離感」や2人の間に横たわる「溝」があることがうかがえる。そしてその様子を背後から見守っているヤンにもまた、人間とロボットという、超えられない「溝」が存在しているわけで、ヤンがミカの感じているある種の「孤独」に共感していることが示唆されている。
 ミカに対するヤンの接し方はどこまでも優しいものであり、あらゆる形で彼女を傷つけまいとしている。養子である自分は「真の家族になれるのか」とミカが不安を吐露する場面では、ヤンは本来は別の木であっても、接ぎ木によって植物も「ひとつの木」になれることを示してミカを安堵させようとする。こうした心遣いはロボット三原則第1条によるものと解釈していいし、これは当然他の人間にも適用されるので、例えばジェイクに対してもヤンは彼を傷つけないようにしている様子も描かれる。
 茶葉を売る商売を営むジェイクは茶の世界に魅了されてその道を選んでいるわけだけど、だからといって「茶の世界」に対する理解が深いというわけではない。物語の中盤でジェイクはヤンと茶の世界について会話をするが、そもそも中国文化を中国系の養子であるミカに継承する目的もあって製造されているヤンは、当然ながら中国の歴史や文化については膨大な知識がある。だがヤンはあくまでもジェイクへの尊敬の念を前面に出しながら、自分が知識や理解の面でジェイクよりも勝っていることを彼に気づかせないように慎重に言葉を選んでいる。そうしたことでも人間の心は傷ついてしまうことを理解しているからだ。
(アレクサンダー・ワインスタインの原作「ヤンとの別れ」では、中国で起きた大地震のために孤児が大量に発生したという設定になっていたが、映画では米中間で60年にわたる戦争があったことが示唆されている。修理屋のラスが中国に対する陰謀論を語るのもそうした背景の一つだ。中国人孤児を引き取るという社会の動きや、それにともなう孤児たちのルーツを伝える役目を担うテクノという子守AIロボットの存在はこうした背景を反映したものだが、原作のカイラが養子のミカのために「中国語を習得する」という考えを「まっぴら御免よ」と拒否している点は、彼らの営む「家庭」が「混ざりあう点で限界がある」ことを示していて興味深いと思う)

 「自分がジェイクよりも知識が勝っていることを悟られまい」と気を遣うヤンの配慮についてジェイクは知る由もないが、ヤンのメモリーバンクを閲覧する中で、彼はヤンには特定の女性との交流があったことを知る。
 エイダという名のその女性はクローンなのだが、ヤンとエイダは親しい関係にあったことがわかる。その2人の交流の中で描かれるのが岩井俊二監督の映画「リリィ・シュシュのすべて」に関連した描写だ。
 ライブハウスで身をゆだねるエイダの様子を記録した映像の中で、流れている音楽は「リリィ・シュシュのすべて」の挿入歌である「グライド」であり、その映像に映り込んでいる別の女性は「リリィ・シュシュ」と書かれたTシャツを着ていた。ジェイクはヤンの遺品の中から同じTシャツを見つけ、メモリーバンクの中でもそれを着ているヤンの姿を見つけている。このことからヤンが「リリィ・シュシュのすべて」という作品に特別な思い入れがあったことがわかるのだが、ヤンはなぜこの作品に惹かれたのだろうか。

 「リリィ・シュシュのすべて」は主要な登場人物が中学生で、少年少女であるが故の不安定で未成熟な精神状態が描かれ、いじめやレイプ、万引き、売春、そして殺人という出来事に翻弄されていく様子を描いた物語だ。子供たちによって、五里霧中な中で続けられる自己探索の模様は、常にもがき苦しむ苦行にも似たものだ。そうした「自分の存在意義」を問いかけ続ける様子は、人間やクローンたちの中で「死ぬということもなく生き続ける中途半端な存在である自分」とは何なのかを、ヤンが思考していたからこそ共感を覚えたのではないだろうか。
 そして挿入歌「グライド」の歌詞「私はただメロディのようでありたい。ただシンプルな音のように、ハーモニーの中にあるように」は、「リリィ・シュシュ~」の劇中の孤独な子供たちが純粋に居場所を求め続けているのと同じく、ヤンもまた自らの居場所を模索していたことを示唆するのではないか。
 しかしそのヤンの居場所とは、ジェイクたちのいる家庭ではなかったのか。実際、映画の冒頭ではヤンは家族の一員としてダンスコンテストに参加していたではないか。
 この単純な疑問への追究は、ヤンのメモリーバンクの中に封印されたアーカイブがあることが判明することで進展を見せることになる。

 ジェイクはヤンが主に自分たちとの生活を記録したもの(ガンマ)よりも古い「ベータ・アーカイブ」があることを知る。圧縮保存されたそのアーカイブを解凍してみると、そこにはごくわずかな記憶の断片が保存されていた。このことによってジェイクはヤンが以前に他の所有者のものだったことを知り、映像から割り出して前の所有者に会いに行く。そしてヤンが自分たちの場合と同じく、新品同様の中古品として購入されたことを知る。だが前の所有者の場合、ヤンはほとんど機能しておらず、不良品と感じたためすぐに返品していたことがわかる。
 ここで次の疑問が生じる。
 なぜヤンは前所有者のもと(ベータ時代)ではうまく機能しなかったのだろうか。
 ジェイクは「ベータ・アーカイブ」という名前からすぐに類推されるさらに前の記録「アルファ・アーカイブ」の解凍を試みる。ところがこのアーカイブは容量が大きいため、解凍するにはベータ、そしてジェイクたちの時代の記録であるガンマ・アーカイブも圧縮しなければならなかった。
 果たしてアルファ・アーカイブの記録は膨大なもので、ヤンが最初に機能した際のヒストリーが明らかになる。

 ヤンは中国系の養子の少年をケアするために購入されたロボットで、「妹」であるミカに対するように、「弟」たるその少年の成長を見守りつつ、共に過ごす様子が記録されていた。少年はやがて成長し、青年となるも不慮の死を迎える。養母である母親は悲嘆にくれるが、ヤンはそれをなす術もなく、ただ見守るしかない。そしてその養母もやがて老いていき、介護が必要になる。ここでリハビリも含め、彼女の世話をする介護士の女性としてエイダが登場する。クローンのエイダと同じ名前、同じ姿の彼女はクローンのエイダのオリジナルだった。エイダと特別な関係になったヤンは彼女との幸福な日々を過ごしていた。だがそのエイダも不慮の事故で他界してしまう。エイダと共に散歩した小道。その同じ道にエイダの姿はもうない。ヤンはその最初の「人生(アルファ時代)」で2度の「喪失」を味わっていたのである。

 ここでロボット三原則の第一条「人間に危害を加えてはならない」という原則が、ヤンにどのような行動規範をもたらしていったのかを考えてみよう。子守ロボットとして特にプログラムされているヤンは、当然ながらあらゆる危険から、対象となる子供を守ろうとするし、その他の人間に対してもその姿勢は守られることになる。それは「常に相手を思いやる」ことであり、「彼らを傷つけるあらゆる可能性から常に守ろうとする」ことでもある。高度な知能、処理能力、学習能力を持つヤンにとって、こうした経験の蓄積が、結果的に人間に対する「愛情」のようなものに発展していくことは必然なのではないだろうか。
 第一条「人間に危害を与えてはいけない」という条文の続きは「その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」だ。だからロボットは、守るべき人間に降りかかってくるかもしれない危険から、何があっても人間を守ろうとする。それは物理的な危険はもちろんのこと、精神的に感じるかもしれないダメージも含め、本当にあらゆる出来事から、ということになる。
 ところが、ここでヤンはどうしても人間を守り切れない「限界」を知るのである。人間には不可避な現実として「死」が訪れる。それに2度も直面したヤンは、「2度も守ることができなかった」ことになる。そう考えると次の所有者のもとで迎えた「ベータ時代」で、ヤンが機能不全のような状態にあったことは理解できると思う。
 アシモフの三原則の第二条は「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない」というものだ。そして第三条は「ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない」である。
 この第三条に照らし合わせて考えると、アルファ時代に直面した「愛する者の死」によって被ったダメージから、ヤンは自らを守る必要が出てくる。だからこそヤンは「ベータ時代」において、身動きが取れなくなってしまったのだと考えることができるのだ。

 そしてジェイクたちの家庭にやってくることになった「ガンマ時代」では、ヤンは再び心機一転して子守に励んでいるように見える。しかしそれは過去を消し去ったものではなく、人間的に表現するなら「胸の奥に記憶を秘めた形」での再出発だったはずだ。そんな中で、失ったと思っていたエイダ(のクローン)とヤンが出会ったことは、大きな転機となったはずだし、「愛する者の喪失」という問題をどう解決するのか、という点を学んでいくためにも、ヤンがエイダと交流していくこともまた必然だったはずだ。
 しかしクローンであるそのエイダのオリジナルをヤンが「知っていた」という事実が、クローンのエイダにどのような影響を与えるのかは未知数だ。だからヤンはその事実を明かすことなくエイダと交際を続けていた。エイダ自身はジェイクからその事実を聞かされた際に少なからずショックを受け、「話してほしかった」と言う。だがそれは彼女がロボットではなく、限りなく人間と同じクローンだからこそ言えることであって、ここにもロボットであるヤンとクローンのエイダの間に明確な「溝」が存在していることがわかる。

 こうした一連の出来事があった上で、ヤンの「足跡」はようやく映画の冒頭で描かれた、写真撮影の場面に到達する。そこではカメラを調整するヤンに対し、ジェイク、カイラ、ミカという「かけがえのない家族」が自分に呼び掛けている。その様子を見つめるヤンの表情は、優しさに満ちていると同時に、どこか寂しげでもある。それは「いつかは失われる風景」だ。3人の家族が「死」を迎えてもアルファ時代と同様にロボットであるヤンは機能し続ける。アルファ時代から蓄積されてきたプログラムによって、ヤンに「愛情」と呼べるものが育まれていたのであれば、ヤンは人間との間の「溝」を超えて、ロボットではなく人間として「家族の一員」となることを望んだのかもしれない。そう、自身がメロディになって、ハーモニーの中にあるように・・・

 つづくタイトルシークエンスで描かれるのは「家族対抗ダンスバトル」だ。懸命に踊るジェイクたちだったが惜しくも敗退する。そこでミカやジェイクたちは「誰がミスをしたのか」という他愛のない議論を始める。そんな中、踊りをやめようとしないヤンの姿には改めて見ると切実なものを感じる。それは「束の間、すべての溝を超えてひとつの家族としてシンクロした時」を終わらせたくない、といった思いにも見える。だからこのエピソードの後で、すでにヤンが機能を停止していることは一つのことを示唆していると思う。それはヤンが将来的に訪れるであろう「家族の喪失から自己を守る」ために「自ら機能を停止したのではないか」という可能性である。言うならばヤンは自ら「死」を選択したわけで、それは彼にとって究極の選択だったであろうが、それによってヤンは人間やクローンとの間に存在した「溝」をついに乗り越えることになったのではないだろうか。
 もちろん、ここでは「家族の死」と「それによる自己のダメージ」という出来事からコンフリクトが生じてバグってしまった可能性も考えられるんだけど、「人間を守る」という第一条が果たせない「家族の死」という現実が、「自己を守る」という第三条を破り、「機能停止」することによってすべてを自己解決していったように捉えた方が、本作の寓話としての在り方が見えてくるように思えるのである。。

 このように本作は人工知能であるヤンの足跡と葛藤を軸として辿りながら、一方では人間たちもまた彼ら自身の間の「溝」を埋められないでいる様子を描いていて、その点が秀逸だと思う。
 白人である父親のジェイク、黒人である母親のカイラ、そして中国系の子供である養子のミカ。この3人は「家族」という単位で共に生活をしていながら、努力して調和しようとしている様子が描かれていた。原作でのカイラは白人女性という設定だったのを黒人に変更しているのも、この「理屈先行で無理が生じている関係」をわかりやすくするためなのだと思う。

 ジェイクはクローンに対する偏見も持っていて、それもまた彼の不完全さを浮き彫りにしている。また、映画の冒頭で「粉茶を買いに来た女性客」に、粉茶を扱っていないことに関して「ありえない」と非難される場面も皮肉である。茶の繊細な味を楽しむなら、茶葉から抽出されたものを嗜むのが本流とジェイクは考えていたはずで、茶葉を砕いて粉にして急速に味が出るようにした粉茶をある意味「邪道」と考えていたからこそ、自分の店では扱っていなかったのだ。だが、機械的に粉々にされた粉茶は「簡単に味が出る」という優れものでもある。しかし本流にこだわるあまり、茶葉本来の形を保守してしまう姿勢は、結局のところ人種間の違いであったり、人間とクローンとの違いにも敏感になってしまってその溝を埋められない状態を自ら作り出しているというジェイクが抱える矛盾を象徴していると言える。

 そういった意味ではこれらの矛盾を抱えるジェイクとカイラがテレビ電話で会話をする場面で、共にラーメンを食べているという設定はなかなか興味深いと思う。ラーメンは中国から日本に伝来した麵料理を在日中国人らが土台を作り日本にローカライズされたもので、1985年公開の伊丹十三監督の映画「タンポポ」によって世界に広まり、その影響を受けた人たちによってアメリカでも定着した料理だ。言ってみれば「中・日・米」の文化が融合したことで定着した食べ物なわけで、それを「家族として融合できないでいる人々」が食べていることが皮肉とも言えるのである。

 また、映画の最後にミカがヤンに最後の別れを告げる場面では、ミカは中国語でヤンの面影に語りかける。それは家族の中では「ヤンとミカにしか通じない言語」での別れであり、ここでも間接的にミカと養父母との間の「溝」が示されることになる。そしてヤンを失ったダメージから抜け出せないジェイクとミカは共にソファに座り、「お兄ちゃんが好きだった」という「グライド」をミカが歌って映画は終劇となる。

 ヤンを失うことによって人間たちが負うであろう精神的な苦痛については、当然ヤンは考慮しただろうが、ヤンはそもそも工業製品であり、買い替えが可能なものだ。だから人間はヤンが機能しなくなったのであれば買い替えればいいのだが、実際にはヤンを兄と慕っていたミカに限らず、ジェイクもカイラも「ヤンの喪失」を受け止められずにいる。そういった意味では、ヤンは自分の存在の消失がそこまで家族にダメージを与えるとは考えなかったわけで、本来は「製品」でしかないロボットが、その喪失によって人間たちが彼を「家族」と感じていたことが明らかになることは「生命」や「感情」というものの定義に新たな問いかけをもたらしているだと思う。

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