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「ウーマン・トーキング 私たちの選択」が観客に突きつけている「選択」とは

 自身が過去に性的暴行を受けた経験がある女優サラ・ポーリーが、脚本・監督を務めた「ウーマン・トーキング 私たちの選択」は、鑑賞者の心中にざわめきを生じさせる問題作だが、その明示する問題点とは、レイプや性自認差別、そしてその前提となる男女差別といった、これまでの映画でも散々描かれてきたものだけではなく、実のところ「作品を免罪符のように消化することで何もしない、実際には無関心な大衆」というものに対する、当事者たちからの悲痛な叫びも含まれていると思う。

 カナダ人の女性作家ミリアム・トゥーズが2018年に発表した原作小説は、南米ボリビアの人里離れたメノナイトの集落で2005年から2009年の間に実際に起きた事件を題材としたものだ。
 メノナイトはキリスト教の超保守的宗派のひとつで、「刑事ジョン・ブック 目撃者」で扱われた「アーミッシュ」はかつてメノナイトから分裂した一派だ。その集落は極めて前時代的な質素さが保たれているんだけど、それは人々の価値観も同様だ。メノナイトの女性たちは男性と同等の権利を与えられることはなく、彼女らは文字すらも読めない。だから映画の冒頭では「何もしない」「残って男たちと戦う」「立ち去る」という3つの選択肢も絵で示され、女性らはそこにX印を付けて投票としている。

 こうした描写から観客は自然とこの物語が「少なくとも20世紀以前の社会が舞台となっている」とつい「錯覚してしまう」のだが、近隣社会から隔絶されているとはいえ、実際には今世紀に起きた事件であることを、観客は映画の中盤、モンキーズの「デイドリーム」をスピーカーから大音量で流しながらやってくる国勢調査の車によって知ることになる。この効果は非常に劇的で興味深い演出だと思うし、実際、多くの観客がこの場面で一定のショックを受けているのだが、それでも大抵の場合で「淡々と進行する物語の中での大きな刺激」といった程度の認識でしかない。しかし、この演出にはもっと大きな意味が込められているのではないだろうか。それは「思い込みによって物語を消化するのではなく、映画の登場人物たちのように、もっといろいろと考えてほしい」というメッセージなのではないか。

 「長年に渡って行われてきた集団レイプ」という行為は特殊な出来事なのか。「メノナイトという特殊な価値観で構築された集落」での議論は前時代的で古臭い議論なのか。原作小説も映画も、なぜ実際の事件そのものではなく、そこから発想された架空の場所での議論というフォーマットを選んだのか。

 この映画で扱われたような事件は、それこそ20世紀以前には日常的に起きていた出来事だ。例えば教会では修道女たちが神父たちにレイプされることがよくあったそうだが、神父たちはそれを隠ぺいするために「神父の姿を借りて夜中に修道女たちを犯す悪霊」として「夢魔」という概念まで作り出してごまかしたりしてきた。現代の人からすればバカバカしいレベルの話だが、こうした強引な「言い訳」は、様々な形で姿を変えて加害者たちによって隠ぺいの手段とされてきた。
 自分の日常生活をとりまく現在のスタンダードな状況を基準とした場合、多くの人にとって、これは「ちゃんとした法の裁きが受けられる事案だ」と直感的に思える出来事だと言えるのだが、「直感的」に思ってしまうがゆえに、やっぱりそこには誤った認識がある。
 レイプ事件は現代でも日常的に起きているし、数は減ったかもしれないが、集団レイプだっていまだにある。そしていつの時代でもそれを告発して事件化することには当事者にしかわからない、想像を絶するエネルギーが必要となる。

 こうした出来事は身近に体験する必要のないものだから、そのことに関して「よく知らない」ということは幸せなことなんだと思う。だが同じ時代に生きる人々の中に、こうした不幸に陥ってしまう人が一定するいる事実には、もっと心を砕いて考える必要があるはずだ。

 本作が「実際の出来事に材をとったフィクション」であることは、それによって「より多くの人に考える機会やきっかけを与えることができる」という効果がある。実際の事件の詳細を追うことよりも、その出来事において我々が大きな関心を寄せなければならないことにフォーカスすることができるからだ。そして本作の場合、それは「話し合い」となる。特にタイトルになっているように「女性たちによる対話」が何を意味するのかを考えるべきなんだと思う。

 集落を代表する3つの家族による議論の場は、当然ながら我々が生きる社会の縮図であり、そこで交わされる感情のぶつかり合いや様々な観点からの意見は、結局のところ、議会や裁判所などで議論されている内容と大差ないものではある。それでも「話し合い」をすることで人は他者に対する理解を深めることができるし、その理解によって人は「優しくなれる」のだ。

 本作には性自認に悩むキャラクターが登場する。彼は子供たち以外とは口をきかないのだが、映画の最後、議論を終えた老婆の一人から初めて「彼が自分で選んだ名前」で呼びかけられる。この老婆に代表されるように、集落の大人たちは彼が「彼女」だった時代を知っており、彼もまたレイプの被害に遭っていることを知っていた。しかしそれは「彼を理解していた」ということにはならない。それは単に「彼と彼の決断」に対して単に「傍観していただけ」にすぎないのだ。
 集落とそこに生きる女たちの未来を決める議論を経て、彼女らは多くのことを「理解」するようになった。だからこそ以前は「ネティ」という名前だった隣人が「メルヴィン」と名を改め、男として生きることにしたことについても、ついに「理解」し、そして「認め受け入れた」のである。老婆による「メルヴィン」という呼びかけは、集落の女性たちが「話し合いを経て新しい次元の生き方」を獲得したことを表しているのである。

 本作を観て「終始会話ばかりで退屈だ」「つまらない」「感情移入ができない」と不満を漏らす観客が論外なのは言うまでもないだろう。彼らはあらゆる映画に対して「娯楽性」を求め、「退屈しのぎ」としての物語的刺激を欲しているからだ。この映画はそういった類の作品ではないことはポスターやあらすじ、予告編などを見れば一目瞭然なのだが、それすらも理解できないということは、彼らが「何も考えていないから」としか思えない。

 本作が観客に求めているものは、「話し合う」ことによって「考える」ということだ。映画を見て否定的であれ、肯定的であれ、その印象に対して「感じたこと」だけを発信し続ける観客が主流となってしまっている現代においては、この「ウーマン・トーキング 私たちの選択」という作品は我々に対しても「考える」という「選択」を迫っているのである。それを見過ごしてはならないと思う。

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