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松田文登・松田崇弥「異彩を、放て。『ヘラルボニー』が福祉×アートで世界を変える」

この言葉が誰かを傷つけることになるのかもしれませんが、正直に言います。ダウン症の長男が生まれたとき、すこしだけ、ダウン症じゃなくて、違う障害だったらよかったのに、と思ってしまいました。私は手話を習っていたから、ろう者だったら平気だったかもしれないのに、と考えました。ろう者の集まりに参加して、手話をうまく話せない私のことをろう者のみんなが助けてくれた経験もあった。聴覚障害は、医学的には障がいかもしれないけれど、手話さえあれば、問題なく意思疎通できます。

それからしばらくして、ダイアログ・イン・ザ・ダークに参加しました。

ダイアログ・イン・ザ・ダークは、視覚障害者の案内により、完全に光を遮断した”純度100%の暗闇”の中で、視覚以外の様々な感覚やコミュニケーションを楽しむソーシャル・エンターテイメントです。(ウェブサイトより)

真っ暗な中で、案内してくれる人の声や、部屋の温度、風、触れたものなどを感じながら、不思議な安心感がありました。手話の世界に触れたときと同じで、音声言語や点字があるから、目の見える人とは違うやり方で、でもやっぱり普通に生活しているのだろうな、と思いました。

それからゆるスポーツの本を読みました。年齢・性別・運動神経に関わらず、誰もが楽しめる新スポーツと銘打っていて、中でも興味深かったのが、イモムシラグビー、きつめの寝袋みたいなものに入って、ラグビーをするゲームです。これ、車いすの人がすごく得意なのだそうです。家の中では車いすを使わずに、イモムシのように移動するから。

でも、長男のことを考えると、寂しくなりました。自分の子どもだから、ということもあるのかもしれませんが、なかなか気持ちの切り替えができなくて。そうです、知的障がい者について、自分より人間として劣っていると思っているのだと思います。
ただ、彼の人を頼る能力だけは優れているな、と思いました(せいぜいおんぶしかしない私には、だっこをせがまないことを早くから習得するとかそういったことも含めて)。

けれどこの本を読んで、私は間違っていたと思いました。

ヘラルボニーは知的障がい者のアート作品を用いて、ファッションや雑貨など様々な商品を販売しています。会社の中心は、双子の松田兄弟で、そのお兄さんは知的障がいを持っています。どこか福祉に関わる仕事を意識してきた経緯もありますが、でも基本、るんびにい博物館で見た、知的障がいを持つ人たちの描いた素晴らしい絵に見せられて、このプロジェクトを思いついたのです。質にもこだわり、アートをできるだけ正確に再現したものにしています。例えばネクタイもプリントではなくて、織りで表現していたり。このため、価格もお手頃ではない。もちろん品質面というだけではなく、アートの価値もできるだけ正当に評価しようとしているからです。

私は小学生の頃、わずかなお小遣いの中から、竹で作られた貯金箱を買ったことがありました。福祉施設の利用者と思われるその人が、一生懸命説明してくれたからです。でも、実はあまり欲しくなかったのに買ってしまったことをすごく後悔していました。
それから、少しでも心ひかれるものでなければ、買わないことにしよう、と心に決めました。普通に買うときよりは少し買うためのハードルは低くしているかもしれないけれど。

だから逆に、すごく安く価格設定しているのを見ると、こういうのは違うのに、と思ってしまうこともあります。よいと思ったものには、ちゃんとした対価を払いたいし、その対価に見合うものを、福祉であっても工夫してくれたらな、と思います。

なので、ヘラルボニーの商品にかけるこだわりは、すばらしいと思います。そしてそれは、たまたまその作品たちがすごかったというのではなくて、知的障がいを持っているからこその、作品という見方をしているというのです。

人が何か表現するというのは、最初、自分自身に対して表現することからはじまるんです。絵の場合であれば、自分はこういう色を見たい、形を見たい、線を見たいと思って、その自分自身の求めに対する応えとして、まず表す。「ああ、この色だ、形だ、線だ」というのを自分自身との対話として描くんです。(中略)
一般の美術家も最初の部分は同じだと思うんですが、描き始めると、この方言はみんなが気に入るだろうか、あの画商さんは評価するだろうか、私のファンの人たちはどう思うだろうか、美術史の中でどう語られるだろうか……間もなく、自分の表現をそういう文脈の中につなぐ作業が始まってしまうーーおそらく無自覚な作業として。(中略)
知的障害のある方たちはそれをしないんです。そこが大きな違いだと思っています。

確かにうちの長男も、周りの気持ちは気にするものの、色んなことをスルーして、自分がやりたいことをやろうとするところがあり、この雰囲気がアートに活かされると、強みになったりもするのかなと思いました。

ここのところずっと考えてきた「現状で想定されている福祉」の限界(財政的な面も含め)や、障がい者とそうでない人の違いのあいまいさとか、合理的配慮についてとか、そういうことが一気にブレークスルーされるんじゃないか、という期待が沸き上がってきました。
ヘラルボニーという強烈なブランドの持つ力と同じだけのものが、あらゆるところに生まれて、がらりと人々の感覚が変わる、というところはないかもしれません。でも小さくても、少しずつこういう考え方が広まって、双子の兄弟が理想と考えるような社会になっていけばいいなと思います。

※これは私のこれまで感じたことをまとめたものであり、例えばろう者と手話に関しても、実際には、耳の聴こえない人が誰でも、というわけではなく、生まれつきか、とか、どんな聾学校だったかとかで、色々と違うものだと思います。視覚障害、車イスユーザーに関しても同じくです。



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