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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅲ 3月12日 放射能漏れ⁈逃げる⁈

Ⅲ 3月12日

1.放射能漏れ?!

 朝5時半に目が覚めたとき、携帯で千葉の母の家に電話をかけてみました。奇跡的につながりました。余計な心配をさせたくないと思い、「こちらはみんな無事で、大した被害もないよ。」と言っておきました。
 ラジオをつけると、ちょうど、長野県で震度6弱の地震というニュースが。東北の地震とは関係ないという報道でしたが、全国各地で地震が起きるのか、これから日本に何かおそろしいことが起きるのではないかと、すごく不安になりました。
 となりの浪江町で、津波で何百人の人が行方不明とのこと。仙台市若林区でも多数の遺体というニュース。停電でラジオしか聞けないので、未確認でよく分からない情報ばかり何度も聞かされました。
 地震の翌日の12日は、もともと、月一回の、子供ともと旦の面会日でした。朝8時前に、もと旦が来てくれました。
 いつもの面会日には、子供たちはおもちゃ屋さんやゲームセンター、リサイクルショップなどに連れて行ってもらうのですが、今日は非常時ということで、家に居てくれることになりました。
 まず、もと旦は、給水のことや避難場所などを確かめておいた方がいいと言うので、とりあえず、近くの川俣南小学校の方に歩いていくことになりました。
 外はすごくいい天気でした。3月の日差しが明るくて、暖かくて、親子5人で歩いていたら、「まるで仲の良い家族みたいだなぁ(笑)。」なんて思いながらのんびり歩いていました。

 小学校の隣の社会福祉協議会の前で、役場関係者らしき人たちがあわただしそうにいるので、給水のことを聞いてみると、福祉センターで給水を受けられることがわかりました。
 また、川俣町内の小学校は、隣の浪江町や南相馬町、双葉町の避難所になったらしく、大きな案内の紙を持った人が車を誘導していました。ラジオでちらっと聞いたところによると、双葉町は役場機能も川俣町の小学校に移転するということでした。私は、地震の被害の大きさを感じながらも、「わー、大変やな。」と、他人事のように感じていたのでした。
 このとき、唯一の情報源のラジオによると、「東京電力福島第一原子力発電所で非常用炉心冷却装置による注水が不能な状態が続いていますが、放射性物質の放出はありません。ただ、一号機の原子炉格納容器の圧力が高まっている恐れがあることから、11日21時23分に3キロ圏外に避難指示、12日午前5時44分に10キロ圏に避難指示を拡大しました。」ということでした。これは、放射性物質が漏れたからではなく、あくまでも万一の場合に備えて、という報道でした。
 でも本当は、この時点でとっくにメルトダウンが起きており、となりの浪江町ではすでに放射能が検出されていたのです。だから、双葉町の役場機能の移転も原発事故のせいですし、約40キロメートル離れた川俣町でも避難を開始した方がよかったのです。そんなことは何にも知らずに、そして、私は安心して子供たちと外を歩いていました。
 この時にもと旦は、「日本は地震国なんだから、原発は作るべきではないと言われているよな。」「川俣町は原発から離れているから大丈夫だと思うけど、万一のために、何㎞か、一応調べておいた方がいい。」ということを言っていました。もともとすごく保守的な人で、お上の言うことはその通りというタイプの人なので、「珍しいことをいうなー。」と思いながらも、内心言うとおりだなと同調していました。
 本当は、原発のニュースを聞いた時、嫌な気持ちがしたのです。胸がざわざわとしたのですが、福島第一原発までは川俣町から車で1時間半以上かかるので「遠い」という意識があったこと、まさか自分の身に深刻な事態がふりかかることはないだろうという(誰にでもある)根拠のない自信から、その時は深く考えることを避けていました。


 川俣南小学校の近くにえびすやというスーパーがあります。昨日、コンビニやほかのスーパーが停電や商品の散乱で大変そうだったので、「こっちはどうかな?」と思ったら、えびすやの前の駐車場には車が止まり、人が出入りしていたので、「開いてる!」と思って、行ってみました。
 駐車場で、学童クラブのM先生に出会いました。「学童も大丈夫よ。」とのことで、通常通りの学童保育をするらしいことが分かりました。
 お店の中は停電で暗かったですが、多くの人が買いにきていました。
 私は、キュウリ、トマトなど火を通さなくてもすぐ食べられる野菜や、カップめん、お米、わかめスープ、缶詰など、2つの買物かごが一杯になる位買い込みました。
 店内で会った子どもの友達のお母さんが、「今朝、ガソリンが飯野町の中の方のスタンドで買えたよ。」という情報を教えてくれました。でも私は、もうとっくに売り切れているだろう、と最初からあきらめてしまい、詳しい場所などは聞きませんでした。それに、彼女の梁川の実家が地震で土台から崩れてしまって家が半倒壊し、大変になっているということで、心ここにあらずという感じだったので突っ込んで聞ける雰囲気でもなかったのです。
 このお店でも、店員さんが計算機で計算するため、2列の長い行列が出来ていましたが、皆静かに行儀よく並んでいました。外国人が日本人の忍耐強さ、礼儀正しさを称賛するのはこういうところにあるのでしょうね。

【3月12日朝には放射能が来ていた?】

 3月12日の朝9時頃にはすでに、川俣町となりの浪江町の酒井地区で毎時15マイクロシーベルト、高瀬地区では毎時14マイクロシーベルトという異常な高い放射線量が計測されています(経産省のホームページ、朝日新聞2011年10月記事『プロテメウスの罠』)。しかも、この時、核燃料が1000度にまで過熱しないと出ないとされる放射性テルルも検出されていたそうです(2011年6月4日付日経新聞)。この地区は私の住んでいた所からたった15kmですから、午前中には川俣町にも放射能は届いていたでしょう。そんなことも知らずに子どもたちとのどかにマスクもなしで外を歩いていたなんて、今思うと本当にぞっとします。
この計測は福島県が行ったもので、早くも地震当日の3月11日に県が国からSPEEDI(スピーディー・緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータを受け取って計測したものです。5月になり、3月13日に福島県が文科省からSPEEDIのデータを受け取ったが各市町村に通知しなかったということが報道されましたが(福島民報2011年5月7日)、実はさらにその前の、地震当日から福島県はSPEEDIの情報を受け取っていたのです。2011年4月21日東日本大震災を考える勉強会において、原子力安全技術センターの「福島県庁、防災センターの両方に3月11日からSPEEDI情報を配信していました。当初はSPEEDIシステムの中継器が地震で壊れていたため、メールとFAXで県庁に送っていました。」と言う証言があります。
原子力安全・保安院は6月になってようやくこれらの放射性物質の計測データを公表しました。東電は3月12日午前10時17分に、1号機の格納容器の圧力を下げ水素爆発を防ぐために排気用の弁の開放(ベント)を始めましたが、この公表データは、それ以前に炉心の激しい損傷が原因とみられる放射性物質が建屋の外に出ていたことを示しています。
SPEEDIのデータも放射能の観測データも隠ぺいされてしまい、住民の命を守るためには全く活かされなかったことに怒りを禁じえません。人の命はかくも軽かったのでしょうか。

2.ガソリンゲット!

ガソリンスタンド津波写真

 帰宅後、もと旦に友達から聞いた情報を言うと、今からでもスタンドを探してガソリンを入れに行くべきだと強く言われました。友達に場所を聞いていなかったし、飯野町のどこにガソリンスタンドがあるかも知らない、ともと旦に言うと渋い顔をされたのですが、「とにかく地図を見て、ガソリンスタンドのマークを探してかたっぱしから行け。それと地元の人に聞いてみろ。」と言われました。
 もう午前11時半になっていたので無理かなと半分あきらめつつ、地図を見て当たりをつけてから出発しました。次男が「僕も行く!」と一緒についてきました。
飯野町に入ってすぐセブンイレブンがあり、駐車場に停めて誰かに聞こうと思いました。ちょうど地元のおじさんらしき人がお店から出てきたので聞いてみたら、親切に教えてくれました。まだ間に合うかもと思い、あせる気持ちがでてきました。
ドキドキしながら、めったに通ったことのない飯野町の旧市街を走りました。スタンドを探しながらゆっくり車を走らせていると、車が何台か並んでいるスタンドが見えました。
 「あそこだ!」
 おじさんが教えてくれたのとは逆の反対車線でしたし、スタンドの名前も違いましたが、車が並んでいるのだからきっとあそこだと思い、急いでUターンできるところを探しました。飯野町の旧市街は道が狭く小さなお店が並んでいるので、方向転換できる場所はなかなか見つかりませんでしたが、わずかなすき間を探してUターンしました。
 車の列の最後尾に並び、「どうか私の番までガソリンがなくなりませんように。」と祈りながら待っていました。車は10台くらい並んでいたと思います。
 NHKラジオをずっとつけて聞いていました。待っているとき、午後12時の時報がなりました。第一原発からの放射能漏れのニュースは深刻さを増しているように思いました。もと旦が「万一のとき」と言っていたその万一のときが近づいているような気がしました。ラジオで聴いていることが現実のことなのか信じられず悪夢のようでした。
 私の番が近づいてきました。早く入りたいのに、シルバーマークの軽トラックが斜めにさえぎるように停めて、おじいさんが灯油を買っていたので、なかなかガソリンの列に入れず苛々しました。
 やっと入れました。給油は3000円までと言われましたが、それで充分と思い、ありがたく入れてもらいました。満タンにはなりませんでしたか、8割位までガソリンが入りました。
 災害の時はとにかく食糧、水、燃料の確保が何より大事だと今回の災害で学びました。

3.避難する?どうする?!!

防災グッズ写真

 給油を無事済ませ 家に帰ると、今度は、車で携帯電話の充電ができる車載充電アダプターが前から使えなくなっていたので、もと旦が解体して調べてくれました。電気の線の付け根が切れていました。家でハンダ付けの真似事をするというので、金属の棒(ドライバーだったか千枚通しだったか忘れました)をライターで熱して、線と線とを溶かしてつなげることを試みました。
 「線と線とを持っていてよ。手が熱くなって耐え切れなくなったらすぐ離していいから。」と頼まれ、線をほぐしたものをもってじっとしていました。ライターで真っ赤になるまで鉄の棒を熱し、線にあてると、先の方が溶けてきましたが、線と線とがくっつくまでには至りませんでした。
 ないだろうなと思いつつ、コンビニに車載充電アダプターを探しに行きましたが、やはりもう売り切れてありませんでした。でも、いつも行っているお店だったので、アルバイトしているバレーのコーチのYちゃんが、「アイス持って行っていいよ。停電で溶けかけてるけど。」と言ってくれ、アイスを3つもらって帰りました。溶けかけのアイスは子どもたちが喜んで食べました。
 家でずっとラジオをつけて聞いていましたが、原発の事故の報道がずっと流れていて、いやが応にも緊張してきました。その当時は必死に聞いていたのですが、今となっては記憶が定かではないので、調べたことをもとに書きます。
 3月12日14時21分の速報では、福島第一原発の1号機の周辺でウラン燃料が核分裂して発生する「セシウム」という放射性物質が検出されたことから、1号機で炉心にある核燃料の一部が溶け出たとみていると発表されました。そして、14時41分には、午前11時20分時点で燃料棒が水面から最大90センチ程度露出しているという表示が出ていて、仮に表示どおりの状態が続くと、燃料の一部が溶け始める恐れがあるため、消防車で2万1000リットルの水を原子炉に注入し、炉心の温度を下げる作業を続けているというニュースが流れました。
 また、炉心の温度が2200度から2700度以上に達していると報道されました。
 後からこのニュースを振り返ってみると、非常に危険な状態だということが分かります。もし今の私が時間をさかのぼれたなら、地震発生直後に海外に避難したでしょう。しかし、その時は原発についての基本的な知識すらなく、巨大地震に遭ったこと自体に動揺していたし、「心配ない」という政府の発表が繰り返し報道されていて、すぐに逃げなくてはいけない、とはなかなか思えませんでした。もちろん政府の発表が信用できると思っていたわけではないのですが、逆に、避難しなければいけない基準も自分の中になかったのです。
 もと旦が、地図に物差しを当てて第一原発からの距離を測ってくれ、「大体40キロくらいだから大丈夫やとは思うけど、風向きによっては放射能が来るかもしれへんで。」と言いました。
 もと旦は、「自分には家庭が二つあるから、どちらも守るということはできひん。せやからそっちだけでも、万一のときは千葉のお義母さんのところに逃げてくれたら、こっちも安心や。」と言いました。
 ただ、「今すぐに逃げた方がいい。」とは言わず、それは私が判断して、逃げなきゃいけない状況になったときに逃げてほしい、と言われました。彼もまさか、今、避難しなくてはいけない事態になっているとは思わなかったのです。「万一のときには」というフレーズを何回も言い、「でも、いつでも逃げられるように準備だけはしておいた方がいい。」と言ってくれました。
 異常事態が起きているとき、人間の頭は働かなくなり、できるだけ現状維持したがるものです。私も、思考停止状態でした。心の奥底では、警報がなっているのに、すぐに避難した方がいいか、まったく判断がつきませんでした。
 午後3時半ころだったと思います。友人のAさんの家に、無事の確認と同時に、原発事故についての意見を聞きたくて行きました。ちょうど、子ども劇場の友人のIさんも来ていて、無事ということが分かりました。子ども劇場の川俣・飯野ブロックの仲間のみんなや、みんなの実家も無事ということが分かり、ほっとしました。友人の浪江町にある実家も無事だということでした。
 Iさんの住んでいる地区ではもう停電が回復したそうで、お風呂に入れるということでした。これから実家に行って、そのことを伝えに行く、と忙しそうに帰っていきました。私は原発事故の話をしたかったのですが、相談できずに残念でした。後日Iさんは、「後で何回もあの日のことを思い出していたんだけど、あの時のIkuちゃんの様子、なんかいつもと違うなと思ったんだ。あの時Ikuちゃんはもう避難することを考えていたの?」と聞きました。私の態度から迷いを感じとってくれていたのです。さすが友達だなあと思いました。
 私は、「原発事故、避難しなきゃいけなくなるかな?」と、Aさんやご主人のMさんに聞いてみました。
 「んー、大丈夫でしょう。」というのがMさんの答え。
「だから、できるだけ外に出ないようにしているの。」とAさんが言います。
私は、心の奥底では避難しなきゃいけないように感じていたのですが、それをはっきりと言葉に出すほど確信がもてず、結局、「もしかしたら千葉の母の家に避難するかも。」という一言を言えずに帰りました。
午後から、次男の友達のJ君と弟が家に遊びに来てくれていました。大人は大人で精神的に手一杯だったので子供同士で遊んでくれているのは助かりましたが、さすがに4時近くなってくると、この非常事態にずっとよそのうちに居てJ君の親は心配しないかしら、と思い、J君の家に行きました。地震のこと、原発のことを話したいというのもありました。
J君のママがなかなか出てこないと思ったら、寝ていたのでした。起こしてしまったことを申し訳なく思いつつ子供たちのことを聞くと、別に遊んでいてかまわないよ、とのこと。でも、私も、避難しようかどうしようか、気もそぞろだったので、いつまでもうちで預かるのも困るなあと思い、4時半には家に帰ってもらうようにすることにしました。
話を聞くと、J君ママが寝ていたのは、昨晩、まったく眠れなかったからなのでした。彼女の実家が須賀川市にあり、実家の近くの藤沼湖という大きなため池(灌漑用ダム)が地震で決壊し、多数の死傷者が出ていて彼女の親戚や知人も連絡が取れないことから、昨晩は不安で仕方なく、しかも余震も何回もあったので、眠れなかったらしいのです。
 彼女に「原発事故で私たちも避難しなきゃいけなくなるかなあ?」と聞いてみたのですが、「大丈夫でしょ。だいぶ離れてるし。」と、安全を微塵も疑わない様子だったので、ここでもやはり、「避難するかも」という言葉は出せませんでした。川俣町の人たちの気持ちは皆似たようなものだったと思います。直線距離では40キロちょっとですが、車で行くと60キロ以上の道のり、約1時間半かかる距離なので「遠いから大丈夫。」という感覚しかなかったのです。
 4時頃から、とりあえず避難の準備をしようと思い、家じゅうのいろんな物を出しはじめました。まずは子供の着替えと寝袋、キャンプ用の食器など。防災リュックの中に、さらにいろんな日用雑貨を詰め込み始めました。
用意しながらも、心の奥底の警報に頭がついていかず、早く避難を決めてしまってテキパキと準備すべきなのに、頭が真っ白になって、どうでもいいもの(例えば割り箸やフォーク、ビニール袋など)を大量に詰めてしまったり、たびたび手が止まってしまったりしました。どういう状況で避難生活を送るか見当もつかず、避難所に行くかもしれないし、野宿するかもしれないと思い、キャンプ用コンロや食糧も用意しました。今から考えるともっと荷物は減らせたのかもしれませんが、もし、第一原発がチェルノブイリのように大爆発していたら、何日もかけての逃避行になっていたのですから、あれで良かったのかもしれません。
 うちの小綱木地区はまだ停電から回復しておらず、昨日の経験から、5時半をすぎると暗くなって作業ができなくなることが分かっていたので、急がなきゃと思いつつも、頭が真っ白でたびたび手が止まり、暗くなり始め物が見えにくくなる5時45分頃まで準備していました。
準備している最中に、ラジオで「福島第一原発1号機で午後3時半ごろ、ドンという爆発音がした。10分後には煙が確認された。これによって社員が数人負傷した。」というニュースが流れました。でも、それを聞いたときは非常に危険だとは思ったのですが、まだ、今すぐ逃げることに確信は持てませんでした。
 17時46分、「福島第一原発の山側にある正門付近で午後3時29分に1015マイクロシーベルトを1時間に観測。この値は、一般の公衆が普通に暮らして1年間に浴びる放射線の限度量を僅か1時間で受ける量に当たり、また国が法律に基づいて電力会社に緊急事態の通報を義務づけている基準の2倍ほどの放射線の強さ。」というニュースが流れました。
 いよいよ逃げた方がいいと心の底辺では感じつつ、まだ、逃げる決意ができない馬鹿な私でした。車が迫ってくるのを立ち止まってじっと見つめ、車に引かれてしまう猫のように固まってしまっていました。それでも、友人や地元の人達が逃げることを微塵も考えていない時期に避難の準備を続けていたのは、「何かあってからでは遅い。たとえ後で考えすぎだったと笑われても、今逃げた方がきっと後悔しない。」という思いからでした。とは言え、避難すべきかすべきでないか、思いはぐるぐる頭の中を回り、焦りだけが募りました。
 もと旦は、「何かあったらいつでも電話をくれ。」と言いつつ、4時半頃に帰りました。
 私ともと旦は、震災の4年前に離婚しました。結婚して8年、良いときは今回のときのように本当に良い旦那なのですが、毎日コロッと態度が変わり、不機嫌で人を支配する、いわゆるモラハラ夫だったので、心底嫌気がさして離婚しました。でも、自分の夫としては嫌だけど、人間として存在を許せないというほど憎んだわけではありませんし、子供たちはお父さんが大好きなので、月に一度は子供たちと会わせていました。
 今までも、台風などの災害時には俄然張り切って、出先からも「大丈夫か?雨戸を閉めろ。外には出るな。」と電話をかけてくる人だったので、今回も、家族を守ろうという使命感に燃えたのでしょう。
 だからまた惚れ直す、ということは決してありませんでしたが、今回は本当に助かりました。彼が、「自分にはもう守るべき家族がいるから、お前たちを守ることはできない。だから実家に避難してくれた方が自分も助かるし安心だ。」と言ってくれたおかげで、避難しようかという気になったのです。あの言葉がなかったら、心の警告音が鳴っていても、実際、行動できなかったでしょう。本当に感謝しています。

4.逃げよう!

Honda Mobilioと家族

いよいよ暗くなってきて何もできなくなってきたので、晩御飯を食べることにしました。ランタンにできる懐中電灯を食卓におき、もと旦が買ってきてくれたパンや、コンビニで買ったおにぎりの晩御飯を食べました。
 晩御飯を食べている最中にも私は緊張しながらラジオのニュースを子供たちと一緒に聞いていました。私は子どもたちに「もしかして避難しなきゃいけないかも。」と言いました。
 長男はすぐに意味を理解できたのですが、次男と一番下の娘は「放射能」と言ってもピンと来ず、説明に苦労しました。私の幼稚園の時からの愛読書である広島の原爆体験漫画、『はだしのゲン』を3人ともよく読んでいたので、放射能のことは知っていると思っていたのに、理解はしていませんでした。子どもたちに、今、福島の原子力発電所から事故で放射能が出ていて、それを浴びると癌になって死ぬかもしれないということから説明をしたのですが、下の二人は突然この家を離れるという話が出たことに、「えー、嫌だなあ。」と抵抗がある様子でした。
 ご飯を食べ終わると、18時半でした。ニュースでは、原発の爆発事故と放射線量の上昇を繰り返し伝えていました。
 私は、まだこの期に及んでも、「避難するよ!」と子ども達には言えませんでした。下の二人の子が避難に乗り気ではなかったせいもあります。心のなかの9割は避難した方がいいと思いつつも、決断を下せずにいました。国や東電の発表は、絶対に本当のことを言ってはいないと思っていましたが、それでも、人生で初めて直面する事態に固まっていました。
 長男に、「避難しようか、どうしようか?」と聞いてみました。「お母さん、避難しようよ。」という答えが返ってきました。
 長男の声に背中を押され、ようやく、「じゃあ、避難しよう!」と決意することができました。子供の成長に嬉しくもあり、自分の優柔不断に情けなくもあり。避難できたことでよく人から「行動力がある」と言われるのですが、そんなことはありません。今回、避難できたのは、もと旦と長男のおかげです。また残らなきゃいけない家族の事情や家のローンもないのはラッキーでした。背中を押してくれた家族には感謝に堪えません。
 避難することを決めてから、デザートのシュークリームをいつ食べるか議論になり、車の中で食べることにしました(この期に及んでも食い意地が張っている私たちって!笑)。
 夕方から町の広報車が廻り、原発事故についてなにか言っていたのですが、不明瞭で聞き取れなかったこと、聞き取れる範囲では川俣町では大丈夫、と言っていたことから、放射能がもしかして川俣にまで流れてきているから気をつけなきゃとは思いつつ、厳格な予防はできませんでした。夕方からは子供たちを外に出さないようにし、避難を決めた夜7時すぎに子供たちを車に乗せるときにはマスクをさせたのですが、自分が車に荷物を運ぶ時にはマスクをつけると眼鏡がくもるのでつけたり外したりしていました。
 たくさんの荷物を積み込みましたが、食糧や水はどれ位持っていくか悩み、お湯が必要でかさばるカップめん、つぶれやすい生野菜、重い水などは載せられませんでした。私の車はホンダのモビリオで7人乗りのミニバンだったのですが(上の写真はモビリオを購入した時の記念写真)、4人とあらゆる生活必需品を載せたらパンパンになってしまいました。せっかく買い込んだ食糧ですが、置いていくものが多かったです。
 また、避難するときには火災防止などのためにブレーカーを落としてから逃げて、とラジオで伝えられていたので、ブレーカーを落とし、冷蔵庫の電源も切りました。冷蔵庫、冷凍庫に満杯にあった食料も、腐ってしまうかも、と思いましたが、またすぐに戻ってこられるような気がしていて(この期に及んでもまだ現状維持の心理が働いてるのですね)、3月の福島はまだ寒いから、2,3日なら腐らないだろうと希望的観測を抱いていました。
 子どもたちのランドセルや学用品などは、持っていく気はまったくありませんでした。長くても1週間くらいで帰ってくるような気がしていたし、まさか新学期を別の土地で迎えるなんて、全然考えもしなかったからです。
 電話が通じないので、誰にも避難することを伝えられず行かなくてはいけなかったのですが、隣家の長男の同級生Kくんのママには家を空けることを伝えておかなくちゃ、と思いました。Kくんママも夜勤明けで寝ていたらしく、起こして申し訳なかったのですが、とりあえず「今から千葉の母の家に避難しに行きます。」とだけ伝え、理由や詳しいことは何も言わずに立ち去りました。
 外でうろうろする時間が長かったので、子供たちが「お母さん、早く早く!」「放射能、大丈夫?」とずいぶん心配してくれました。

【第一原発、ベントしたのになぜ爆発?】

3月12日午前0時49分には一号機の格納容器の圧力が異常に上昇し、2時45分には9.3気圧と通常値の9倍もあり、設計限界値をなんと2倍近くも超える値でした。一方、圧力容器の圧力は通常値の10分の1まで下がっていました。つまり、圧力容器の一部が壊れ、圧力容器内のガスが格納容器へ漏れ出たことを意味します。
そこで、政府と東電の間で、格納容器が壊れてしまう事態を防ぐため、バルブを開けて格納容器の内部からガスを抜く「圧力降下措置」(ベント)が検討されました。放射性物質を外に出してしまう究極の選択でした。
電源が喪失しているため、東電は12日午前9時15分ごろから手動で排気用の弁を開け始めましたが、付近の放射線量が高いため作業を中止し、10時17分に中央制御室から機械操作で弁開放を試みましたが格納容器の圧力は下がらず、ベントの効果を確認できませんでした。このため午後2時ごろ、大弁に空気を送ることで弁を開放する作業に切り替えました。
 その後、午後2時30分頃に格納容器の圧力は下がり、午後3時ごろに東電は「午後2時半にベント成功と判断」と発表しました。しかし、東電関係者は圧縮機による作業では空気の圧力不足で大弁が全開に至らなかったと証言していますし、格納容器の圧力も午後3時ごろには下げ止まり、同3時36分の水素爆発まで上昇に転じていました。
 しかも、建屋につながる非常用ガス処理系の配管がベント用の配管と一部を共有し、その弁が開くなどしていたため、ベントの際、水素が配管を逆流して建屋に入り込みました。
その結果、3月12日午後3時36分頃、福島第一原子力発電所1号機で原子炉建屋が骨組みを残して吹き飛びました。水素爆発でした。
結局、電源喪失と高すぎる線量のためベントが遅れたこと、ベントも不十分で、しかも水素が逆流する仕組みになっているという構造上の欠陥があったことから、ベントしたにもかかわらず爆発してしまったのです。

5.出発だ!

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  午後7時45分ころ、停電で周りが真っ暗な中、いよいよ車を発進させました。人生で一番緊張した出発でした。極度の緊張と、「本当に避難するんだ。」という高ぶった気持ちと、「これからどうしよう。」という不安がいっぱいで、震えがきました。
 今まで自分で運転して千葉に行ったことがなかったので、どのルートを通ったらいいのか、全国地図も手元になく分かりませんでした。ただ、関東に行くには国道4号線と国道6号線の二つのルートがあるという大まかなことだけは知っていました。国道6号線の方は母の家がある千葉県柏市を通っているので直接行けることは分かっていたのですが、海沿いにあるため津波の被害が大きいだろうと思い、国道4号線のルートをとろうと決めました。
 国道4号線に出るために、近道の国道349号線を通って二本松から出たかったのですが、狭い上にあまり慣れていない道で、しかも停電で真っ暗だったので不安になり、国道114号線から飯野町に入り、福島市松川町から4号線に入るルートをとることにしました。
 出発すると、どこの信号機も消えていて怖いなと思いましたが、交通量が多くなく、交差点に進入する車はどの車も徐行、一時停止をしていたので、大丈夫でした。交通整理の警察官がいたわけでもないのに、本当に東北人はマナーがいいと思いました。普段の夜でも、他の車がなくてもほとんどの車は黄色の点滅信号では徐行、赤の点滅信号では一時停止を守っていたので、こういう非常時でもマナーを守るのは東北人の素晴らしいところだなと思いつつ、車を走らせると、車の行列が見えてきました。
 川俣町の誉田の大きなガソリンスタンドに向かって、片側2車線の左側に、トラックや乗用車が二百メートル以上、並んで停まっていました。反対車線であるこっち側にも車の行列がありました。ガソリンスタンドは真っ暗でしたし、周りの人に聞いたところでは地震以来開いていなかったはずなのですが、それでも開く時を待って多くの車が並んでいたのでしょう。友人ともと旦のおかげでガソリンを入れられたことに感謝しつつ、横を通り過ぎました。
 飯野町も停電で暗かったのですが無事に通過し、いよいよ4号線に入りました。最初は渋滞もなく、スムーズに走ることができました。

6.トイレがない!

簡易トイレ

  緊張しているので、出がけにトイレを済ませてきたにも関わらず、すぐにトイレに行きたくなりました。4号線沿いはコンビニが少ないので、目をこらしながら進むと、本宮のアサヒビールの工場の手前にあるコンビニの電気がついているのが見えました。
しかし、行ってみると「営業していません」との貼り紙がしてあり、がっかりしました。
コンビニの前にあった公衆電話でもと旦に電話をかけようと思い、財布を探しましたが見つかりません。青くなりました。今更戻れないと思いました。
そういえば、避難するといろんな場所でいろんな人に接するだろうから盗まれてはいけないと思い、いつもと違う場所に財布を隠したことを思い出しました。ところが、ついさっきのことのはずなのに、もう、どこに隠したか全く思い出せません。頭が固まってしまっていました。お金やキャッシュカードがなければどうにもなりません。
あせっていろんな所を探しました。子どもたちはとても不安そうに、「お財布ないの?どうするの?家に戻るの?」と心配していました。
やっと出てきました。やはり、いつもと違うことをするとダメですね。
もと旦に電話すると、「もう出発したのか?」と少し驚かれましたが、「その方が安心や。気を付けて行きや。今はどこの公衆電話でもタダでかけられるんや。だから時々電話してくれたらいい。」と言われました。
トイレに行けず、よっぽど暗がりで用を足そうかと思ったほどですが、駐車場に車が何台も停まり、人が乗っていたのであきらめて出発しました。
停電で街はどこも真っ暗でした。ガソリンスタンドには長蛇の列が出来ていました。
所々明かりがついているのはコンビニでした。店の商品は、乾電池や車載充電器が売り切れ、その他の物も品薄でした。しかし、外の公衆電話に並ぶ人、友人同士で情報交換しあう人など若者を中心に、どのコンビニも大勢の人が集まっていました。まさに町のセーフティ・ステーションという感じでした。
ただ、どこも、「停電のためトイレは使えません」という貼り紙があり、あせりました。あるコンビニでは親切にも、「~m先の○○店もトイレは使えませんが、~m先の△△店さんでは使えます。」と書いてあり、それを頼りに行きましたが、△△店でも残念ながら使えませんでした。
尿意は限界に達しつつありました。明かりのついている小さな酒屋さんを見つけて飛び込みました。親切そうなおじさんが、「悪いけどここにはトイレがないんです。」と気の毒そうに告げ、どうしようと思いました。
店の裏手にまわると、停電で真っ暗な住宅街でした。もう夜10時前で誰も出歩かないだろうし、もう限界だったので、壁に隠れて草むらで用を足しました。本当にホッとしました。
災害時のトイレは、特に女性は一番困るものだと痛感しました。非常用の携帯トイレ(尿を固まらせるもの)も持っていたのですが、大の大人が、いくら家族の前でも、車の中で下半身を出して用を足すのは抵抗がありすぎて、使えないものだと思いました。
かといって、水分を控えると、長時間の車の運転でエコノミークラス症候群になりかねないし、緊張でのどがカラカラになるので水分を取らざるを得ず、緊張のせいでトイレにますます行きたくなるので、本当にトイレには困りました。



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