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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅰ家族のプロフィール

今度の3月11日であの日から10年が経つ。2011年3月11日、東日本大震災。私と3人の子供達は福島県川俣町で震災に遭った。今、カナダであの時を振り返ると、10年が1年のようにも感じる。随分遠いところまで来たなあ。逃げ切れたのかなあ。でもカナダの永住権、その後の市民権が取れるまでまだ私達の避難生活は終わってない…

今日から少しずつ当時のことから今日に至るまで私たち家族の軌跡を振り返ってみたい。

震災当時、私は41歳、4年前に12歳年上の夫と離婚してからずっとひとり親として3人の子供を育てていました。長男は小学5年(11歳)、次男は小学4年(10歳)、長女は小学2年(8歳)でした。奈良から福島県川俣町に移り住んで6年目に入ったところでした。

なぜ奈良から福島に移住したのか、ひと言で言うと田舎暮らしがしたかったからでした。奈良でも十分田舎だと思うかもしれませんが、夫の家は奈良市の駅前にあり、デパートやマンションが立ち並び、子供たちを遊ばせる公園も近くにない田舎の小都会でした。ある日突然不動産ディベロッパーがやってきて、「マンションを建てるのでお宅の家を売ってくれませんか。もし売らないならお宅の南側境界線ギリギリに6階建てを建てますよ。」と半分脅しのようなオファーをして、いつも緑豊かなところで暮らしたいと夢見ていた私は渡りに船で夫を説得して家を売ることにしたのでした。

なぜ福島だったのか。夫は奈良生まれ奈良育ち、根っからの関西人なので関西圏が良いに決まっていました。でも私は北海道札幌生まれ、1歳から3歳まで父の仕事の関係でスイスにも住んだことがあり、小学3年で千葉県に引っ越した後も雪が恋しくて仕方なかったので、雪が降るところを探していました。ただ田舎に行くだけではなく、農業の真似事もしてみたかった。母の生家がある和歌山県紀美野町は母の強い反対であきらめ、色々リサーチして福島県川俣町にやまなみ農場という自然農自給自足学校があることを知り、1年間の研修生として飛び込みました。2006年、長男は幼稚園の年長、次男は年少、娘は3歳でした。

福島県川俣町は緑ゆたかな美しい町です。阿武隈の山々に囲まれた盆地で、飯館村と川俣町にまたがる標高918メートルの花塚山など高い山もいくつかありますが、街なかはなだらかで広々としています。
蘇我氏に暗殺された崇峻天皇の妃、小手姫が落ち延びて養蚕を伝えたという伝説があり、絹の町として有名で、真っ白な蔵がたくさんありました。空気はおいしく、山桜、紅葉や雪におおわれた山々もきれいです。人々は穏やかで優しく、小正月の「団子さし」や夏祭り・秋祭り、秋の芋煮会など地域の伝統行事がきちんと受け継がれており、よそ者の私にとっても、とても住みやすい町でした。

雑草を敵とせず自然と調和した自然農は奥深く、味噌や梅干し、干し柿、こんにゃく、干し餅などを手作りするのも楽しい経験でした。ただ、以前から感じていた夫婦の溝が深くなり、研修中に別居し、研修の終わった翌年の7月に離婚しました。


 女手1つで3人の子どもを育てるためには現金収入が必要なので、塾講師、自然食レストランの手伝い(これは現金ではなく地域通貨払い)、生協の宅配トラックドライバーを経て、川俣町山木屋地区(後に避難区域に指定)の養豚農場で働きました。腕の筋肉がポパイみたいになるハードな肉体労働で、体がいつまでもつか不安でしたが、お給料がいいので歯を喰いしばって通っていました。意地悪な先輩にいびられたり怪我が絶えなかったり肺炎で入院したり、辛いことも多かったですが、3人の子供達の命が私一人の腕にかかってるのだと思うと力が湧いてきて、「お給料をもらって体が鍛えられるなんてお得やん」とポジティブに考えていました。まあお給料が良いと言っても時給1050円とかだったんですけどね。当時の福島のパートタイムの時給は700円からで、生協のトラックドライバーは850円でした。田舎で特段のスキルもないシングルマザーだったので選択肢は少なかったのです。

 川俣では子どもたちも私も仲の良い友達がたくさんできました。子どもたちは毎日放課後にわいわいクラブという学童保育に行き、町内の小学生たちと楽しく遊びました。私は絵本の読み聞かせサークルに入って町内の幼稚園、小学校に紙芝居の読み聞かせに行ったり、子ども劇場に入って観劇やクリスマス会などの自主活動を友人たちとしたり、忙しくも充実した毎日を過ごしていました。
震災の1年前から子どもたちは3人ともスポ少のバレーボールクラブに入り、仕事が終わった後学童に迎えに行き、夕食を急いで食べさせ、練習の送迎をするという日々が始まり、週に5回、練習と試合と練習試合の送迎は目の回るほど忙しかったですが、その忙しさが楽しくもありました。
子どもの同級生のお父さんお母さんたちとも仲良くなり、街を歩くと誰かに会い、笑顔であいさつできる居心地の良い町でした。近くに親も親戚もいなかったので、子どもたちが病気になった時は保育サポーター(『こども緊急サポートネットワークふくしま・川俣支部』)の方々にとてもお世話になり、お陰で安心して仕事をすることができました。
私は、川俣を第二のふるさと思い、ここに骨を埋めるんだろうなあと思っていました。あの日までは。

まさか福島が、日本が、こんなことになろうとは。



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