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ちいさな世界の中に、宇宙ほどに大きい何かが潜んでいる:「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んで


友人と待ち合わせをしているとき、ふと入った本屋で、

“人生を変えた一冊が、続いてゆく生活を支えてくれる。”

と書かれた装丁をみつけた。
それがこの本だった。

この本の主人公、リトル・アリョーヒンは
魔法が使える少年となり、世界を飛び回るわけでもなければ、
大恋愛に打ちひしがれ、激動の人生を歩むわけでもない。
ただひっそりと、チェスを指し、
その八✕八のチェス盤の中に、とてつもなく広い世界を観る。

自ら望んだわけではなく、気づいたらそうなっていた世界を受け止め、不平は言わず、与えられたことを受け入れる。
そこに大きな感情のゆらぎがあるわけでもない。

この本の中ではチェス盤であったが、
それは現実世界では、
私達にとってありふれた田舎町であるかもしれないし、いつもの職場かもしれないし、学校かもしれない。

つまりわたしたちが
小さいな、と感じているなにかは
とてつもない広がりを持つものであるということなんじゃないかな、と
わたしは解釈した。

さらにこの本を素晴らしいと思わせてくれたのがあとがきに書かれた
「自由だ解放だと今日世界は煽るけれど、
そんな風潮に乗ってはいけない。
本当の自由は仕方ない事情の内にあるのだから。」
という文書だった。

ここまで生きてきて、わたしは
多分人生の大枠は選べないんじゃなかろうかと思いつつある。
自分で大きく舵をきり、無理して選び取ったものは
いつかもとあるべき場所に戻される気がしてならない。
(子どもの頃与えられた環境が劣悪だったり、
大人になり流れ着いた場所が万が一芳しくないときは、無理して舵をきる必要もあるだろうけど‥。)

生まれながらにして持っているカードが人それぞれで違うように、
望んでもない状況を、望む状況に変えることは
どこかで限界が来てしまう気がする。
だからこそ、自分の与えられた場所を、じたばたせず、まず、受け入れる。
そこにどう収まるのかを考える。
いま手持ちのカードで、与えられた場所で
どの程度自由を見ることができるか。

縁がある場所で、じたばたせず流れ着いた場所で
なにをするか。

存外、難しいよなあ、
と、思う。

そういえば、金子みすゞの詩の中で
とても好きなものがあって、
(『蜂と神さま』というものなのだが)
そういえばその詩でも
小さな世界に大きな広がりをみるものだったな、と
今更のように思い出した。


わたしはわたしのチェス盤に
果たして何を感じれるだろうか。







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