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ぶらりくり -熊本編-

 天草市役所からバスに乗って2時間40分、熊本の桜町バスターミナルに到着する。
 熊本ではやはり熊本城や水前寺成趣園を見学したいし、熊本ラーメンや馬肉を味わいたい。なお、熊本の水道資源は100%天然地下水らしく、蛇口をひねると天然水が飲めるようになっているらしい。さすが火の国かつ水の国。


1日目

お昼ご飯 (1日目)

 市内に到着したら予約していたホテルが丁度バスターミナルと同じ建物内にあったのでまずは荷物を預ける。熊本での投宿先はKOKO HOTEL Premier 熊本
 丁度お昼時だったので熊本の郷土料理屋さんに入り、郷土懐石を注文した。

 前菜には茹でてぐるぐる巻きにしたネギを味噌で味わう熊本名物の「一文字ぐるぐる」など。天明二年の六代目藩主・細川重賢が財政立て直しのための即倹耐乏の生活を推奨した際に、安くておいしい酒の肴を求めて考案されたもの。

 馬刺し。熊本名物の代表。400年前に加藤清正公が海外出兵の陣中て食したのが始まりといわれている。

 辛子レンコン。肥後国熊本藩初代藩主の細川忠利は病弱であったため、増血性に優れる熊本城の外堀に非常食として栽培していた蓮根を食べていた。穴に詰まった辛子味噌の花の模様が細川家の家紋に似ている。

 地魚の煮つけ

 馬肉のすき焼き

 食後の甘味として朝鮮飴。アクセントに胡桃が入っている。

水前寺成趣園

 昼食をとった後は市電で移動し、肥後細川家の初代藩主・細川忠利から綱利の三代にかけて造営された優美な大名庭園である水前寺成趣園に向かった。
 庭園の「成趣園」は陶淵明の詩の一文「園日ニ渉以成ス趣」に由来する。

 水前寺成趣園は阿蘇の伏流水をたたえる回遊式庭園で1929年に国の名勝・史跡に指定された。熊本城東南の場所に筑前羅漢寺から熊本に来ていた住職・玄宅のために水前寺と号された寺が設けられたのが始まりらしい。
 池には白いすっぽんが2匹おり、大きい方が「スイ」、小さい方が「フク」

 北門から庭園に入ってすぐ右手に長岡護全公銅像跡があった。最後の熊本藩主・細川護久の次男であり、1904年8月に21歳で日露戦争で華族として初の戦死を遂げた人物である。銅像自体は1943年9月に金属類回収令による供出のために撤去された。

 富士築山。

 園内にある出水神社。1877年に西南の役で熊本の町が焼け野原になったために1878年に旧熊本藩士らの手によって社殿が創建された。商売繁盛、学業成就、縁結び、無病息災などの御利益があるといわれている。

 神社内にある昭和天皇お手播きの松。1931年11月の熊本大演習行幸の際に植えられた。

 夏目漱石の句碑。「しめ縄や春の水湧く水前寺」。夏目漱石は1896年から4年3か月、現在の熊本大学である第五高等学校の英語教師を務めており、当時はまだ小説家ではなく俳人であった。正岡子規の影響で句作に熱中するが、熊本滞在中に詠んだ俳句は900句あまりであり、生涯読んだ俳句の40%を占める。成趣園内にはこの句日含め3つの漱石の句碑が置かれている。この句は湧き水に感動したときの気持ちを読んだものであり、文字は正岡子規に送った漱石の直筆によるもの。

 2つ目の句碑は南部の能楽殿の近くにおかれている。「鼓うつや能楽堂の秋の水」。漱石は熊本でな謡曲を習い覚え、観能を好んでいた。

 3つ目の句碑は正門前に建っている。「湧くからに流るるからに春の水」。成趣園には阿蘇の伏流水である清水が湧き出しており、各所の陽光に輝く水の躍動感をうたっている。

 出水神社にある神水「長寿の水」。石水盤は二代目細川忠興が「袈裟」と命名し、庭に据えて毎日楽しんでいたといわれている。

 宗不旱の歌碑。「ふるさとになほ身をよする家ありて春辺を居れば鶯の鳴く」。不旱が友人の家に滞在している時にその友情に感謝して詠んだうた。

 光復の碑。1945年の戦災により焼失した社殿が1973年に復元されたことを記念して、肥後細川家十七代細川護貞によって建てられた。

 五葉の松。肥後細川家の初代熊本藩主細川忠利が育てていた盆栽の松。樹齢は400年以上。

 崇徳報恩の碑。旧藩主細川氏の恩に報いるとともに1877年の西南戦争の際に出水神社が創建された由来を記した碑。

 藤孝公三百年祭記念碑。肥後細川家初代藤孝公の没後三百年際が行われた際の記念碑。藤孝公は出家して幽斎玄旨と号した。

 ふんばり灯篭。2016年4月の熊本自身の際にこの二基の灯篭のみは揺れに耐えてしっかり耐えていたことからふんばり灯篭と呼ばれている。

 庭園の北部には初代藩主で成趣園の創設者である細川忠利と肥後細川家初代として近世細川家の基礎を築いた細川藤孝の像が建てられている。

 南東部分には肥後名花ゾーンがあり、肥後の花々が植えられている。冬だったので肥後山茶花が咲いていた。春には肥後椿、夏には肥後芍薬や肥後花菖蒲や肥後朝顔、秋には肥後菊が花を咲かせるらしい。

 最東にある流鏑馬の馬場。毎年4月22日直前の日曜日と10月18日直前の日曜日に細川家ゆかりの武田流流鏑馬が宗家師範の竹原家によって奉納される。

 南部の石庭。円錐状の形をした立砂が二つ置かれており、左側の立砂上部には三本の松葉、右側には二本の松葉が差し込まれており、奇数と偶数が合わさることで神の出現を願う意があるとされている。

 石庭には自然石と白砂で大自然を写す盆石がある。細川流盆石の流祖は利休七哲でもある肥後細川家二代細川忠興。右から戦場に赴く家臣の士気高揚を祈願する出陣の盆、無事の帰還を記念する帰陣の盆、移転や新居や国替えを祈る移徒の盆

 縁結びの木「梛」。針葉樹だが広葉樹のような葉を持つ機で、縦には簡単に避けるが横にはなかなかちぎれないため、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと、女性が葉を鏡の裏に入れる習慣があった。葉には裏も表も同様な見た目をしているため夫婦が持っていると裏表のない夫婦生活が遅れるといわれており、源頼朝と北条雅子が梛の木の下で逢瀬を重ね結ばれ、葉を一枚ずつ持ってお守りにしていたと伝えられている。更に、苦難を薙ぎ払うとかけ、様々な厄除けや商売繁盛・金運などのお守りとして大切にされており、財布にはを入れておくとお金と縁が切れないとも言われている。世界で100種類あるマキ属の中で最も美しい木とも評されている。

 南部には能楽堂が建てられている。大名家の中でも細川家は特に能楽を愛好しており、諸芸に秀でた藤孝は太古の名手であったとも言われ、代々能を好み記録や謡本も数多く伝わっている。1878年に出水神社が創建されると同時に能楽堂が建てられたが、1965年に火災で焼失。現在の能楽殿は旧八代城主松井家より1986年にこの場所に移築された。
 中には能舞台「景清」の一場面が再現されており、毎年8月の第一土曜日には薪能が開催される。

「古今伝授の間」と呼ばれる場所が喫茶スペースとして開放されている。もともとは京都に建てられた八篠宮智仁親王の学問所であり、戦国時代に細川幽斎が古今和歌集の解釈の奥義を智仁親王に伝授した建物である。古今伝授が行われた空間としては現存する日本唯一の建物であり、1964年に熊本県の重要文化財に指定された。

夜ご飯 (1日目) -熊本ラーメン-

 庭園を一通り見て回ったので夜ご飯をとることに。熊本ラーメンの店に入った。

 にんにくの効いたパンチのある豚骨ラーメンは昭和20年代に熊本市内に広まり、ご当地グルメになっている。白く濁った豚骨スープ、もっちりとした中太麺、にんにくを使用している、という特徴は共通してあるものの、店ごとのアレンジもかなり大きい。

 これは帰り道に見つけた湯婆婆が経営してそうなラーメン屋。入ってないので美味しいかどうかはわからない。

chocolate & cocktailBAR Septy glass

 腹ごなしに夜の熊本市街を散策していたら下通にチョコレートバーがあったので入ってみた。

 突き出してケーキが出てくる。

 旬の果物のカクテルとチョコレートの盛り合わせ。冬なので旬の熊本県産のデコポンを使ったカクテルを作っていただきました。

2日目

 2日目は朝から熊本城近辺を散策することにした。

 これは熊本城の側にある加藤清正像。

桜の馬場 城彩苑

 熊本城の城下町のような雰囲気の中で土産物屋や博物館など様々な施設が集結している。

 今から500ほど前は熊本は「隈本」と呼ばれており、国主菊池一族の出田秀信が支配していた。秀信は1467年に現在の熊本城のある茶臼山の麓に千葉城を築き、1485年の矢部の馬門原の戦いにおいて秀信が破れ、鹿子木親員がかわって隈本に入り、1496年に茶臼山の西南部に新たに隈本城を構築した。その後、1550年に大友二階崩れの変により、城親冬が城主となり、1578年の耳川の戦いにおいて島津氏が大友氏に勝利し、九州各地の豪族が力を持つ時代となっていった。その後に豊臣秀吉による九州平定により肥後は治められ、1587年に佐々成政が領主となり、さらに1588年に田畑の見地を発端に隈部親永ら各地の豪族による刻衆一揆が起こり肥後は混乱に陥るが、再び秀吉により豪族の争いは沈められた。ここで秀吉は新たな領主として加藤清正を任命。清正は1607年に茶臼山に新たに城を築き、地名を隈本から熊本に変更していくことになる。

 現在の熊本城は市の中心部に位置し、熊野平野の北側から突き出た京町台地の先端に位置する丘陵・茶臼山に築かれている。茶臼山は東の坪井川と西の井芹川にはさまれており、南部には湿地帯が広がっていたと言われ、更にその南に二つの川が合流する白川が流れているという立地になる。清正は茶臼山の東を流れる坪井川の流路を南麓に沿って移し、井芹川と合流させて内堀とし、さらに白川を外堀に見立てて城下町を築いた。

 これは熊本地震で崩れた石垣の中から見つかった石。落書きがかわいい。

 城彩苑には香梅庵という「誉の陣太鼓」で有名なお菓子屋さんが入っている。土産で「誉の陣太鼓」を買いつつ庵で「肥後鍔」を食べる。

熊本城

 熊本城には城彩苑から直接行けるようになっている。

 色んな観光パンフレットに乗っている角度からの熊本城。ボランティアの案内員さんが「ここから写真撮るとええ感じにとれますよ!」とめっちゃアピールしてくれる。
 右側の二重になっている石垣は二様の石垣と呼ばれ、傾斜が緩やかな古い石垣(右側)に、傾斜が急な新しい石垣(左側)が築き足されている。長らくの間、古い石垣は加藤清正が、新しい石垣は細川忠利が築いていたといわれていたが、近年の研究では新しい石垣は清正の息子・忠広が築いたと考えられている。
 左側の本丸の最上段には本丸御殿が建てられており、儀礼や藩主の政務などが行われていた建物である。

 本丸御殿は2つの石垣をまたぐように立っているため、その下に地下通路を有する特異な構造となっている。この地下通路は昼間でも暗いことから闇り通路と呼ばれており、通路の入り口は闇り御門と呼ばれている。

 闇り通路を通り抜けると本丸が目の前に。

 過去には藩主の私的空間である居間や台所があったが1877年に焼失し、現在は井戸や大イチョウだけが残っている。このイチョウは加藤清正の手によって植えられたといわれている。

 城内に入ってからでも北面の石垣を観ることができる。

 城内の石階段。1階と小天守地階の往来に使用された会談で、石段の一番上から1階床までは1mの段差があり2段の箱段が置かれ、緊急時には箱段を取り外せば天守1階に上ることができなくなるという工夫が凝らされている。

「隈本城」という名前が初めて資料に登場したのは1377年、そこから15世紀後半の出田秀信、1520年からの菊池義武、16世紀後半からの城親冬、1582年からの城親賢、1583年からの城久基、1587年からの佐々成政の時代を経て、1588年に佐々成政の失脚により肥後北半国領主に抜擢された加藤清正が隈本城に入城した。

加藤清正時代
 任命された当時の清正は27才。1587年の肥後の国衆一揆を生じさせた罪で切腹を命じられた成政に代わって抜擢されたが、天理大学の天理図書館に収められている「豊臣秀吉朱印状」には清正に肥後を与えた理由として

其方事、万精を入、御用ニも可罷立与被 思食付而、於肥後国領知方、一廉被作拝領、隈本在城儀、被 仰付候条、相守御法度旨、諸事可申付候、於令油断者、可為曲事候、就其陸奥守事、以一書被仰出候ことく、去十四日腹を切させられ候、雖然、家中者之儀者不苦候間、其方小西相談、其々ニ見計、知行念を入遣之、為両人可拘置候、猶浅野弾正少弼戸田民部少輔可申候也、
(お前は何事にも精を入れ役に立つので肥後国を与える。隈本に在城して指示を守り、統治を行うように。もし油断したら、けしからぬことだ)

と記載されており、秀吉の期待の高さを窺える。

 加藤清正は1562年に尾張国に生まれ、10代の頃から豊臣秀吉に仕え、1580年に120石を与えられ、秀吉と柴田勝家との間で繰り広げられた賤ケ岳の戦いで「七本槍」の一人として戦功を上げ(賤ケ岳での合戦を描いた「横矢旗」が熊本博物館に所蔵されている)、3,000石を与えられた。その後も着実に功績をあげていき、1585年には河内国(大阪)に434石加増、1586年には主計頭に任じられ、播磨国(兵庫)に300石加増、播磨国蔵入地の管理を任され、1587年には讃岐国(香川)の蔵入地の管理を任され、1588年には肥後北半国19万5,000石の領主となった。一般には勇猛果敢な武将としてのイメージを強く持たれがちな人物だが、実際には秀吉直轄にの管理を任されることも多く、行政能力にも長けた人物であった。

 清正においてよく語られるのがその城づくりであり、その技術力は儒学者・荻生徂徠が「石垣は加藤清正の一流あり」と評しており、天下普請でも最も重要な天守台を何度も任されている。また、三宅覚左衛門などの有力な技術者を家臣として抱えていた。肥後に入国した清正は、1590年ごろから中世の隈本城を石垣づくりの城に改造していった。城には天守や櫓・御殿が建てられ、城と同時に城下の整備も進められた。隈本城の主要部は3段の地形からなり、中段の本丸には天守があり、西と南は水堀、東は白川、北は堀切で囲まれていた。城の西側には武家屋敷が並び、川や堀・土塁・塀で囲った惣構が造られる。その南には町が置かれ、京都や大阪の上方商品が店を構えていた。また、清正が入国して初めて築いた隈本城の石垣は、熊本県立第一高等学校と南側と西側に現在も残っており、自然石と割石を併用した緩やかでまっすぐな勾配が特徴として見受けられる。
 築城に際しては清正が家臣に送った手紙が多数残っており、隈本城築城についての細かい指示が読み取れる。清正の城づくりには妥協がなく自ら筆をとって指示を送り、見栄えの悪いものは一度壊してやり直させるほどのこだわりを持っていた一方で、励んでいる大工らの健康に気にかけ、休息をとれるように心を配る様子もうかがえる。

「隈本城の石蔵ならびに建物の建築は油断してはならない」
「本丸に御殿を建てるため、材木を用意しておくこと」
「天守への橋はできたか? できたならば大川に橋を架けること」
「指示通りに細工町の町割をして町人らに渡すこと。細工町の者たちには末町を割り渡すこと」
「侍町に惣構の堀を丈夫につくること」
「馬屋を建てる場所の地割を厚い紙に書いて送れ。こちらから指示をするので、建てる用意をしていくこと」
「本丸北の櫓は北側が下がってみえる。壊してやり直すこと」
「大工の新左衛門の病気はどうだ? 病気が良くなったなら重ねて煩わないように、すべてに精を出して働くことは無用だ」
「朝鮮から帰国した大工たちには10日の休みを与えてから、城の建築に従事させること」

 城づくりに関して、清正は秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にあたっての肥前名護屋城倭城においてもこれまでの技術を活用して築城を行った。名護屋城は1591年10月に、明進出の足掛かりとして豊臣秀吉の命令で築城が開始され、加藤清正、小西行長、黒田長政を中心とした九州の大名らによって1592年の3月に完成。「肥前名護屋城図屏風」は佐賀県立名護屋城博物館に収められている。
 倭城とは1つの城ではなく、朝鮮半島の南岸に築かれた約30か所の石垣づくりの日本式の城の総称である。これまでには使われてこなかった石割のような技術を用い、築城に際しては日本各地から大工や石工を呼び寄せたことから、その後の日本の城の土木・建築技術に大きな影響を与えることになった。倭城の中でも清正の功績として特徴的な城は西生浦城蔚山城である。西生浦城は1593年に西生浦に築かれ、麓の港湾近くまで伸びた斜面に作られた登り石垣が特徴的であり、蔚山城は1597年に清正と浅野幸長ら複数の大名が協力して築いた城で、清正自身も蔚山城にて籠城戦を耐え抜いた。この時の籠城戦を描いた「蔚山攻城図屏風」は福岡市博物館に展示されている。

 文禄・慶長の役に参戦した全国の大名は朝鮮半島の寺院・宮殿に吹かれた屋根瓦を日本に持ち帰り、様々な技術を日本にもたらした。清正だけでなく多くの大名が城郭の屋根瓦に朝鮮的なデザインの瓦を使用し、熊本城跡や佐敷城跡からは朝鮮由来の軒丸瓦や滴水瓦が出土している。

 1598年には秀吉が死去し清正は朝鮮から帰国。秀吉の死により日本国内の状勢は不穏な動きを見せており、翌1599年には石田三成が家康の襲撃を計画し、清正らは石田三成を襲撃。当時九州で家康方についていたのが清正、寺沢広高(唐津)、黒田長政(中津)の三氏に対し、石田三成方についていたのが小早川秀秋(名島)、鍋島勝茂(佐賀)、小早川秀包(久留米)、立花宗茂(柳川)、相良長毎(人吉)、小西行長(宇土)、島津豊久(佐土原)、島津義弘(帖佐)らであった。徳川方として清正は、10月半ばに宇土城、10月25日に柳川城を攻め落とし、その後黒田勢や鍋島勢とともに薩摩に向かい、水俣に在陣。島津氏と家康との和平交渉が成立すると九州での戦闘は幕を閉じることになる。

 同時期1599年に朝鮮出兵で疲弊した領内の立て直しを進めるため、清正は熊本城(新城)の築城に踏み切った。清正が築城の地とした茶臼山は約9万年前の阿蘇火山の火砕流堆積物でできている山であり、細長い大地の先端がやや広がった地形となっており、坪井川・井芹川・白川の浸食によって高さ25~45mの崖が形成され、天然の要害となっている。

 1600年には関ヶ原の戦いに間に合わせる形で大天守が完成するが、小天守は清正の死後に増築されたものである。大天守台が造られた後には西側の西出丸一帯が土づくりの曲輪として完成し、1602には西出丸に大国櫓が完成。1606年には本丸東側の拡張工事が進められた。

 1600年10月26日、柳川城立花宗茂を降伏させたのち、柳川から清正が熊本の重心らに送った書状が残っている。島津義弘を攻めるために薩摩に向かう道中、黒田如水を熊本の「新城」でもてなすため天守の完成を急ぐように指示したのがこの書状の趣旨である。

 熊本城内には天守の作りがどうなっているのかを現した模型が展示されている。平屋造りの建物が主流だった当時に突如として生まれた天守は近世城郭のみに見られる特徴になっている。天守には主に望楼型層塔型の2種類があり、熊本城は望楼型である。望楼型は入母屋造りの建物に望楼を載せたタイプで、古い時期の天守に見られ天守台上面が正確な四角形でなくても天守を建てることができる。望楼型には他に広島城や岡山城、姫路城や松江城、高知城などの天守がある。

 一方で、層塔型の天守の代表例は愛知の名古屋城の天守閣であり、他には宇和島城の天守も層塔型である。1階から最上階まで同じ平面を少しずつ小さくしながら順に重ねたタイプであり、正方形に近い天守台が築けるようになった慶長年間中ごろ以降に成立した新しいタイプである。

 ちなみに、文献資料と遺構の両方で存在が確認できる最古の天守は安土城の天守と言われている。いわゆる「天守閣」という名前は近代以降につけられたもので、江戸時代には単に「てんしゅ」と呼ばれ「天守・天主・殿守・殿主」などの表記が用いられた。熊本城では江戸時代に作られた部分を「天守」と呼び、1960年に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された部分を「天守閣」と呼んでいる。

 また、天守のデザインについても熊本城は反りのある三角形が目立つ屋根の形や戦いに備えた防御の工夫などの様々な意匠が凝らされている。
 例えば、熊本城の天守は外観全体としては屋根のデザインに重点が置かれており、城内の他の櫓と異なり屋根の端を飾る入母屋破風を柔らかく反らせ、同様に大きな千鳥破風を2面に配置することで司法とも同じような形に見せている。破風の細部に懸魚や狐格子などの意匠が凝らされている。

 大天守最上階入母屋破風は、破風の芯となる木に漆喰の接着をよくするために竹を藁にまいた巻竹をつけ、その上に漆喰を塗り重ねて仕上げている。破風の中央には梅鉢懸魚があり、懸魚の中心には六葉。六葉には木に黒色の塗装を施されている。

 懸魚とは破風板の舌につけた装飾で、火災を避ける意味を込めて魚をかたどったことから魚の字が付けられている。

 天守内部のデザインとしては、畳やふすま・引き戸のような建具のほかに、壁を豪華に飾る障壁画や床・付書院・違い棚などの座敷飾りも用いられている。特に大天守最上階の「御上段」は天主の中でも最も格式が高い部屋であり、様々な意匠が凝らされている。
 御上段の南北の壁と建具には狩野言信による障壁画「若松」と「秋野花」と描かれており、細川時代に矢野雪叟により描き足された。

 防御装置としては、壁、窓、忍び返し、狭間、石落しにそれぞれ工夫が凝らされており、壁は防火や防弾のために暑い土壁になっている。土壁の外側は軒裏を漆喰で塗り込め、その下側は柿渋や炭を混ぜた塗料で仕上げた板を横方向に貼り重ねた「下見板張」という仕上げになっている。仕上げ方には他に、土壁の表面をすべて漆喰で仕上げる「塗籠」という方法も存在し、見栄えは塗籠の方が美しいが耐久性には下見板張に軍配が上がる。
 窓に関しては、天守や櫓に攻撃のための窓が各階に設けてあり、格子が組まれている。その外側には棒を使って開閉を行う「突上戸」があった。
 忍び返しは、石垣をよじ登ってくる敵を防ぐために先端がとがった鉄串を打ち付けたものであり、小天守の石垣直上の土台近くには鉄串が等間隔で下向きに設置されている。
 狭間は弓や銃による攻撃を安全な建物内から行うために外側に設けた小窓であり、熊本城ではその形状は長方形で縦30cm、横20cmほどである。
 石落しは狭間の死角となる建物直下の敵を攻撃するために1階隅に設けた外側に飛び出した装置である。実際には医師だけでなく弓矢中を用いて攻撃していた。

 城のてっぺんには鯱が飾られている。元々は古代寺院の大棟に用いた「鴟尾」が変化した者とも考えられており、安土城をはじめとして全国の天守に飾和れるようになった。銅製の鯱を飾る天守もあるが熊本城に飾られているのは瓦製。
 現在飾られている鯱は2016年の熊本地震の被災後に復元製作されたものである。

 天守の屋根は、古写真や出土品から伝統的な「本瓦葺き」であることが分かっており、屋根の大半を丸瓦と平瓦で覆い、軒部分は軒丸瓦と軒平瓦らが交互に並んでいた。

 1600年の大天守完成後は、1601年には天草郡と球磨郡を除く肥後一国の領主となり、息子・忠広が誕生。熊本に赴任してから15年目の1602年には西出丸の大黒櫓が完成し、1603年には肥後守に任命。1606年には江戸城の築城(天下普請)に参加する。
 熊本赴任20年目の1607年に熊本城が完成し、隈本を熊本と改めた。ここからは熊本城の整備拡張や河川改修、城下整備に力を入れていくことになる。また、同時期には駿府城の築城にも参加している。

 特に清正の町づくりは有名で、熊本城の築城が落ち着くと、大きく蛇行していた白川の直線化に尽力した。この一大土木事業が現在の熊本市街地の原型を築き上げている。
 土木事業者着手では本丸のすぐ南では白川の蛇行が城下を分断しており、洪水の危険性が高かった。

 1610年には蛇行していた白川を河川改修により直線化し、外堀的な役目を負わせることに成功。旧流路の大部分が埋め立てられて城下に取り込まれ、一部は坪井川となって内堀の役目を果たすように。坪井川と白川との間には清正の別邸の花畑屋敷のほか、家臣らの屋敷が立ち並ぶ新興住宅地となり城下が拡大していった。

 清正の息子・忠広の時代には竹の丸や桜の馬場などの坪井川沿いの護岸となる石垣が造られる。坪井川は白川と切り離して新町と古町との境で水堀の役割を果たし、井芹川と合流させた。白川が蛇行していた際に新町と山崎との間にあった長六橋は直線化した白川にかけなおされて薩摩街道に利用され、細川時代には対岸に迎町が造られた。

 1609年に清正の娘(八十姫)と家康の息子・頼宣が婚約し、1610年に熊本城大広間と花畑屋敷が完成した翌年、1611年3月28日に徳川家康と豊臣秀頼に二条城会見に同席するという大役を終えた清正は、熊本に帰国後に本丸御殿大広間で病に倒れ、6月24日に死去、享年50歳であった。息子・忠広は11歳であったが、江戸幕府は1612年に水俣・宇土・矢部の3つの支城の破却や藩の政治を重心らの合議制とすることを命じて忠広の相続を許可。12歳で跡を継いで領主となり、ここからは加藤忠広の時代が続いていく。
 忠広時代には小天守が増築され、大天守と小天守からなる熊本城の天守は忠広の時代に完成することになる。
 忠広時代の城下については1630年前後に描かれたといわれる「熊本屋舗割下絵図」(熊本県立図書館蔵)に詳しく、現在の熊本城と城下の町並みの原型はこの時期にほぼ完成された。

1613年、忠広が秀忠幼女と結婚
1615年、忠広に息子・光正が誕生。一国一城令により、支城の南関城、内牧城、佐敷城を廃城
1616年、中尾山に本妙寺が移される
1618年、加藤家内で家臣団の内紛が勃発。牛方・馬方騒動である。
1619年、麦島の八代城が地震で倒壊する
1620年、大阪城大手枡形・千貫櫓の石垣を築く
1622年、松江に移転した矢代城が完成。同時期に江戸城天守の石垣を築く。
1624年、大阪城天守の石垣を築く。

 1625年6月17日の夜には熊本地方で大地震が発生。地震の規模はマグニチュード5.0~6.0と推定されており、記録に残る限りは熊本城が初めて経験した地震被害であった。永青文庫に収められている「萬覚書」には地震を見舞うために小倉藩主細川忠利の命令で熊本に送られた使者の報告が記録されており、天守や城内の屋敷が被害を受け、瓦や梁が落下し50人が亡くなったと書かれている。また、煙硝蔵(火薬庫)から火が出て爆発して周囲の家が吹き飛び、火薬を備蓄していた蔵の石垣や瓦は3~4kmも吹き飛んだと記されている。

 1632年4月上旬、忠広の息子・光正が江戸で幕府転覆をうかがわせる謀書事件を起こす。この事件を受けて幕府は5月29日に忠広・光正に改易・配流を決定し、忠広を出羽庄内、光正を飛騨高山へ配流。7月22日には1万3,000人の軍勢でやって来た幕府の上使衆に熊本・八代両城を明け渡し、10月に細川忠利が肥後の国の領主となり12月に熊本城入城。こうして1632年に45年間にわたる加藤家の治世は終わりを迎え、城は細川家に引き継がれていった。

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\begin{array}{l:l:l}
 & 江戸 & 熊本城 & \\ \hline
4月上旬 & 光正、謀書事件を起こす &  \\ \hline
5月上旬 &  & 忠広、熊本を出立 \\ \hline
5/20頃 & & 城下に入るものを厳しく制限 \\ \hline
5/22 & 忠広、品川に到着 & \\ \hline
5/23 & 忠広、池上本門寺へ入る & \\ \hline
5/29 & 忠広・光正に改易・配流が言い渡される & \\ \hline
6/1 & 江戸城にて諸大名に加藤家改易の申し渡し & \\ \hline
6/2 & 熊本城受け取りのための上使衆の派遣が決定 & \\ \hline
6/2 & 光正、飛騨高山へ出立 & \\ \hline
6/3 & 忠広、出羽庄内へ出立 & \\ \hline
6/3 & 熊本城明け渡しを命じる家宛の忠広書状をもって加藤家家臣が熊本に出立 & \\ \hline
6/14~20 & 上使衆が江戸を出立 & \\ \hline
6/20~21頃 &  & 忠広書状が到着、城の明け渡しが決定、城内や城下の屋敷を清掃\\ \hline
\textbf{7/22} & & 熊本城明け渡し\\ \hline
\end {array}
$$

細川時代

 1632年12月、加藤家に代わる新たな熊本藩主として細川家が熊本城に入城。細川家は11代239年にわたって熊本を治め続けることになる。
 新藩主の細川忠則は1586年に丹後に生まれ、15歳で江戸に人質として出され、徳川秀忠に仕え厚い信頼を得た人物である。その後、1621年に父の跡を継ぎ小倉藩主となり、その後熊本藩主となった。
 細川家の興りは、近世細川家の初代藤孝から始まる。細川藤孝は室町麦酒将軍の側近から織田信長に仕え、1573年に信長から山城国に領地を与えられ勝龍城に入城。後に豊臣秀吉・徳川家康に重用された。2代忠興のとき、1580年8月に丹後国12万石の潮流となり、1600年に関ヶ原の戦いの戦功として豊前・豊後国を計30万石与えられ、細川家の基盤が築き上げられた。忠興と妻・玉(ガラシャ)の息子が忠興であり、1621年に小倉藩主、1632年に肥後国54万石を与えられて熊本城に入城した。
 忠利は熊本城の広さに大きく感銘を受け入城した翌日の12月10日にその感想を息子の六(後の光尚)に書き送り、その大きさに驚き江戸城の他にはこれほど広い城は見たことがないと感嘆した様子を綴っている。

我事、十二月九日ニ
熊本へ入城申候
可心安候、事外
ひろキ囲にて候
城も、江戸之外ニハ
これほとひろキ
見不申候、又十一月
十五日之状相とゝき
跡より又可申入候
其方も登城之
よし丹州
御さしつのよし
尤ニ候、恐々謹言

「細川忠利自筆書状」(永青文庫蔵)

 忠利が入城した翌年早々、熊本城は再び地震に襲われることになる。5月11日には忠利の妻・千代姫と息子・六に仕える狩野是斎に、熊本で続いていた地震が落ち着いていることや地震時は危なくて本丸にはいられない旨を記した書状を送っている。また、5月18日には息子に対して熊本城の被害を伝達した書状が残っている。

「細川忠利書状案」(永青文庫蔵)

 このように、熊本地方では地震が頻発し、清正による築城から25年が経過していた熊本城は多くの個所において修理の必要が迫っていた。熊本城修繕は忠利が熊本に赴任して最初の重要課題であった。
 1634年3月には熊本城の修理について江戸幕府に提出し、その絵図の控えが熊本県立図書館に残っている。そこでは櫓や塀の修理に加えて、西側の空堀の拡張や新たな櫓の設置など、城の防衛強化を組み込んだ。忠利は幕府の許可を経て城の修理に取り組むが、徳川家光の病気や天草・島原一揆などの影響でたびたび延期され、修理工程は遅延に遅延を重ねていった。
 江戸幕府の定めた武家諸法度においては新たな築城を禁止し修理を許可制としていたが、さらに1644年に幕府は全国の大名に「正保城絵図」の提出を義務付け、実質的に幕府に城と城下の詳細を握られる状態になっていった。その際の提出図の控えも熊本県図書館に保存されており、この資料から空堀の深さや石垣の高さや長さ、河川・水堀の深さや幅、城を攻める際に拠点となる見晴らしの良い山や行軍する際に必要な渡瀬の位置、馬を乗り入れることができる田地など、城の防衛に大きくかかわる情報まで明らかになっている。
 ちなみに、城の修理には土木工事の「普請」と、建築工事の「作事」の2種類がある。特に前者の不振は必ず江戸幕府の許可を得なければならなず、①藩と幕府役人との事前協議→②普請箇所がわかるように絵図を作成して老中に申請→③不信を許可する「老中奉書」が藩に渡される→④工事に着手、というプロセスを経る必要があった。
 熊本藩においては、城の修理を行う専門の「普請作事掃除方」という部署が存在し、竹の丸に「作事所」が置かれ、藩の役人の他大工などの職人が働いていた。一方で、建物の日常的な管理は「城内方」という部署が担当し、建物内の藩の重要な部署や武具の管理は城内方の中の「天守方」が担当した。

城下
 修理だけでなく、細川家時代には城下自体も大きく拡大し、その広さは総面積約370m2に及ぶ。城下の中でも二の丸・千葉城・宮内・桜馬場・古城・内坪井・山崎には中上級家臣の屋敷が置かれ、手取・京町・千反畑・高田原・外坪井・建部・子飼などの周辺部に下級家臣の屋敷が置かれた。また、新町・古町・坪井・京町の4地区には町屋があり町人の代表により町が運営されていたことが分かっている。熊本城下は時代の経過に従って東に武家屋敷を拡大し、白川の対岸に町が広がっていった。

 城下の原型は下図の様に加藤時代にすでに完成していたが、新町の一部にはまだ池がところどころ残っており、新町や古町の他にも京町の豊前街道沿い、坪井の豊後街道沿いにも町屋が並んでいる。

加藤時代末期の城下

 一方で細川家の入国後には外坪井・千反畑に武家屋敷が拡張。さらに古町から白川を渡った対岸に迎町が造られる。新町にあった池は埋め立てられ、高麗門の南西には細川忠利の死後に妙解寺が建立された。

細川時代初期の城下

 さらに細川時代の末には、武家屋敷はさらに東へと拡張。白川には1857年に橋(安巳橋)がかけられ、対岸には武家屋敷が広がり「新屋敷」と呼ばれた。外坪井・千反田・手取には「広丁」と呼ばれる火事の延焼を防ぐための幅の広い道が造られた。

細川時代末期の城下

 なお、城下の発展を探るための重要資料となる「平山城肥後国熊本城廻絵図」(熊本県立図書館蔵)において、絵図全体にはうっすらと12mm毎にマス目が引かれており、これが1間(6尺5寸、約197cm)とされている。

天守
 細川時代には藩主の生活の場が天守から花畑屋敷に移ったため天守の使われ方も変容していった。普段は天守は使われることはなく武具などの重要なものを保管する場所として使われ、藩主が天守に登るのは特別な行事の意味合いを持ち、天守は城のシンボルとしての性格を強く持っていたのがこの頃である。
 また、天守は戦時において最後に籠城する場所であることから武具や食糧が蓄えられており、そのため熊本城の天守の部屋には「御鉄炮之御間」や「御具足之御間」などの武具にまつわる名前が散見される。
 熊本独特の武器としては「肥後筒」と呼ばれる火縄銃があり、先目当の小さな四角形の板の上に突起があることや、柑子 (銃床の先端に出ている筒の部分) が短いこと、火挟みや引き金を囲む用心金が曲線を描くこと、銃床の尾が角ばっていることなどが肥後筒の特徴である。

城内装飾
 熊本城の天守や本丸御殿大広間の部屋の多くは加藤時代の狩野派の絵師による障壁画で飾られており、細川忠利が入国した際には矢野派の絵師を呼び、本丸御殿の「松之間」や「吉野之間」などの障壁画を描かせた。矢野派は雪舟の流れを汲む流派で矢野三郎兵衛吉重を初代とし、江戸時代を通じて細川家の御用絵師を務めた派閥である。特に、5代矢野良勝衛藤良行が領内の滝や名所などを描いた「領内名勝図巻」や、参勤交代で使われた御座船「波奈之丸」の障壁画・天井画は全盛期の矢野派の代表的な作品として残っている。
 また、初代の矢野吉重は小倉時代から細川家に仕えており、「日の出老松図屏風」や「老松牡丹図屏風」など、本丸御殿の障壁画を数多く残している。

『日の出老松図屏風』(永青文庫蔵)

藩主登城
 細川家が藩主になって江戸から熊本に入国すると、その着任を祝う特殊な行事がいくつも行われたが、その一つが熊本城登城である。藩主は多くの供を連れて登場すると本丸御殿や天守の部屋を巡り家臣らと対面する。
 登城ルートとしては、①礼装である裾の長い袴を穿いて花畑屋敷を出て城内に入る→②本丸御殿床下の闇り通路にある御玄関で城代や家老らの出迎えを受ける→③本丸御殿大広間に入って御殿の部屋を巡る→④御天守廊下を通って大天守に入る→⑤天守内の各部屋を見て回る、という道筋をたどっていく。
 そして、大天守の最上階・御上段(別名「鐘之段」)に入ると部屋の東側に西を向いて座り、着任を祝う。その後、城代や家老らが順番に入り、長寿や家の存続を祝う縁起物である熨斗鮑が藩主から与えられたという。

明治維新以降

 築城から約250年にわたって防衛の拠点であり統治のシンボルであった城は明治維新とともにその役割を終えた。人々に開かれた城内には洋風の学校が建ち、さらに近代陸軍の拠点として軍都の中心としての役割を果たすようになる。
 1869年6月に行われた版籍奉還の翌年、新しい知藩事・細川護久のもとで、熊本藩は政府の推進する政策に応じた大改革を断行する。その一つが熊本城の取り壊しであり、解体を前に初めて天主が一般公開された。解体自体は未実施に終わったものの、一方で改革の一つである医学校や洋学校が湖上に設立され、西洋の学問や技術・文化を学ぶ場として広く開かれた。
 この一般公開時には見物客で連日にぎわい、五野栄八の「世変化止宿万記録簿」など、多くの人がその感想を綴っている。
 また、1870年に古城に開院した治療所はオランダ人軍医マンスフェルトを招き、翌年には古城医学校・病院となり、ここでは日本細菌学の父である北里柴三郎など多数の人材を輩出していった。1817年にアメリカ退役軍人ジェーンズを招いて開港した熊本洋学校ではすべての授業が英語で行われ、1874年には日本で初めての男女共学校となった。
 1871年8月には政府は仙台・東京・大阪・熊本の4か所に軍の拠点である鎮台を設置し、熊本城は軍用地化していき、九州全域を管轄する中枢施設と兵営が置かれ、軍都・熊本の中心として歩みだしていく。本営ははじめは花畑屋敷におかれたが、1874年には本営を本丸に移し、二の丸の武家屋敷跡には歩兵第十三連隊の洋風な兵舎が立ち並んだ。西出丸は火薬庫、桜馬場は砲兵営、孤城の高台は陸軍病院として利用され、この時期に軍によって荒廃した櫓や一部の石垣の撤去が行われた。

 なお、この頃発生した特徴的な戦いは1876年10月24日の神風連の変であり、廃刀令(1876年3月)や秩禄処分(1876年8月)など明治政府の急激な近代化政策に対しての士族の不満が高まり、その反抗の一つとして熊本鎮台を襲撃。鎮台兵の死傷者は200人にのぼり、桜馬場の砲兵営は前章、二の丸歩兵営は北側の兵者を中心に消失した。
 また、写真術が日本に流入したのもこの頃であり、日本で写真を広めた一人である長崎の上野彦馬に学んだ富重利平が1870年に熊本城化に写真所を開業し(この写真所は現在も残っている)、熊本城に関する写真はこの頃から記録が残るようになった。

西南戦争

 明治政府の政策に不満を持つ不正氏族らの反乱は、佐賀の乱神風連の変萩の乱と続いたが、1877年2月、明治政府内の論争に敗れて鹿児島に戻った西郷隆盛を首領に1万3,000人の薩摩氏族が明治政府に対して兵をあげ、日本最後の内戦と言われる西南戦争が勃発する。熊本城は薩摩郡と政府軍が戦う最初の舞台となった。
 2月15日に鹿児島を出発した薩摩軍は、2月21日に熊本鎮台のある熊本城への総攻撃を仕掛ける。その後、熊本城の包囲戦を続ける一方で、南下してきた政府軍と3月4日に田原坂で激戦となる。薩摩軍は半月に及ぶ田原坂での戦いに敗北し、更に4月15日に熊本城の籠城が解かれると、各地に逃れながら戦闘が続き、9月24日の鹿児島の城山総攻撃をもって西郷は負傷・自刃し、西南戦争は終結する。

 一方で政府軍のリーダーは熊本鎮台司令長官の谷干城。谷は薩摩郡の不穏な動きをいち早く捉え、神風連の変から兵の士気が回復せず城外での戦闘で勝つ見込みが薄かったため、2月14日に籠城戦を決定。その日から鎮台では炊事場を設けて兵糧を蓄え、職人を雇い地雷の製造に着手。更に、竹の丸・櫨方に火薬庫を建て、各所に柵や砲台を築き、橋を撤去し通路を塞いで籠城に備えた。
 2月21日、城内に侵入した薩摩軍に向けて城内から砲撃が始まり、熊本城での戦闘開始。翌22日午前6時に薩摩軍は城の東側と西側の二手に分かれ一斉攻撃を開始する。各所で激戦となり参謀長の樺山資紀が負傷、歩兵第十三連隊長の与倉知実も銃弾に倒れ、翌日息を引き取った。
 総攻撃では熊本城が落ちないと判断した薩摩軍は主力を北上させ、熊本城周辺の戦略を長期的な包囲戦に切り替える。2月22日の戦闘で薩摩軍に段山を奪われるが、3月12日に鎮台の大砲で段山の小屋が炎上したことを機に、警視体が猛烈な攻撃を開始。鎮台側221名、薩摩軍川100名の死傷者を出し、開戦以来最も激しい戦いとなった。
 3月下旬になると田原坂の戦いで多くの死傷者を出した薩摩軍は、南から進軍してくる政府軍に備えるため、攻城の兵を削減する必要に迫られていた。3月26日、薩摩軍は坪井川と井芹川の合流地点をせき止める水責めを実行。4月上旬には川からあふれた水で島崎一帯が水没した。これにより薩摩軍は兵を一部引き、一方で籠城する鎮台兵にとっても守備の削減につながった。
 長期化する籠城戦において問題になっていったのは食糧不足である。鎮台側は未だ食料に余裕があるうちに県南から北上する応援の政府軍(衝背軍)と合流するため、薩摩軍の包囲を突破する「突囲隊」を編成。4月8日に突囲隊が薩摩軍陣地の突破に成功し、宇土で政府軍と合流。4月14日に衝背軍の一部が熊本城に入城し、翌日には主力が入城し、熊本城の籠城は解かれ、4月15日、籠城戦が集結する。
 城内には鎮台兵2,590人と県職員や将校家族、小倉から合流した歩兵第十四連隊一大体、警視平約3,300人が籠城。兵力1万3,000人の薩摩軍に対して50日あまりの籠城戦を耐え抜いた熊本城は実戦でも「難攻不落」の名を証明した。

天守炎上
 籠城戦の直前、1877年2月19日午前11時、熊本城本丸におかれた熊本鎮台本営から突如として火の手が上がった。加藤清正の築城以来城のシンボルとして存在し続けた天守は一瞬にして炎に包まれ、わずか4時間で全焼。原因は、敵の標的になることを防ぐための自焼説、誤って出した火が燃え広がった失火説、薩摩郡の兵が侵入し放火したとする放火説、などが考えられているが、火災の原因は現在でも解明されておらず、西南戦争最大の謎の一つとして研究され続けている。
 当時の火災の痕跡は現在にも残っており、①天守閣前の焼けたイチョウの幹や、②熱を受けて表面がはがれた石垣石材、③発掘調査で赤く変色した焼土層、④黒く焦げた炭化材が確認できる。

 天守炎上を目撃した人々の当時の記録がいくつか残っており、その衝撃や悲しみは多くの日記に残されている。京町の氏族・吉田如雪は城の火災を知り錦山神社に駆け付けた様子を日記に記しており、熊本に日本画家・甲斐青萍は当時の人々の記憶や写真を参考に作品を描いていった。石光真清も手記『城下の人』に天守が燃える様子を描いている。

城中東南ノ隅(本丸ナリ)天守際マテ火焔天ヲ突ク、(中略) 遂ニ九時比ヨリ天守ニ火懸リ八時ニ至リ只天守臺ヲ見ルノミ

吉田如雪「明治十年 日記」

おゝ炎々と燃える天守閣! 窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を竜巻きのように、空高く巻きあげ、城下の街々へ火の粉を降らしている! 強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。暫くすると天守閣全体が一つの火の塊となって昇天するかのようである

石光真清『城下の人』

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\begin{array}{l:l:l}
& 西南戦争 & 熊本城籠城戦 & \\ \hline
1/31 & 私学校の一団が政府海軍所属の火薬庫襲撃 & \\ \hline
2/14 &  & 籠城の準備を開始\\ \hline
2/15 & 薩摩軍、鹿児島を出発 & \\ \hline
2/18 &  & 城内に電信仮局設置\\ \hline
2/19 &  & 天守炎上\\ \hline
2/21 &  & 籠城戦開戦\\ \hline
2/22~23 &  & 熊本城総攻撃\\ \hline
2/23 & 木葉の戦い & \\ \hline
2/25~27 & 高瀬の戦い & \\ \hline
2/26~3/21 & 山鹿家の戦い & \\ \hline
3/3~4/1 & 吉次峠の戦い & \\ \hline
3/4~20 & 田原坂の戦い & \\ \hline
3/19 & 日奈久に衝背軍上陸 & \\ \hline
3/26 &  & 薩摩軍による水攻め\\ \hline
4/8 &  & 突囲隊が薩摩軍突破\\ \hline
4/12~14 & 川尻の戦い & \\ \hline
4/12~20 & 御船の戦い & \\ \hline
4/14 &  & 衝背軍の一部が入城\\ \hline
4/15 &  & 衝背軍の本体が入城・籠城戦終結\\ \hline
4/20 & 健軍・保田窪の戦い & \\ \hline
4/28~6/1 & 人吉の戦い & \\ \hline
5/19 & 竹田の戦い & \\ \hline
5/31 & 三田井の戦い & \\ \hline
7/24 & 都城の戦い & \\ \hline
7/31 & 宮崎の戦い & \\ \hline
8/1~8/2 & 高鍋の戦い & \\ \hline
8/15 & 和田峠の戦い & \\ \hline
9/1~24 & 城山の戦い & \\ \hline
9/24 & 西南戦争終結 & \\ \hline
\end{array}
$$

1889年 熊本地震
 西南戦争から12年後の1889年7月28日深夜、マグニチュード6.3の直下型地震が熊本を襲った。城内では石垣42か所が崩落、20か所が膨らみ、崖7か所が崩落した。崩落と膨らみを合わせた石垣の被害は約8,800m2に及び、宇土櫓など西南戦争で焼失を免れた櫓も多くの破損被害を受けた。
 地震被害については、当時熊本城を管理していた陸軍(第六師団)が被害状況を天皇に報告するために報告書が造られた。復旧に当たっては莫大な費用が必要となったが、第六師団が陸軍大臣に復旧費用の支出を訴える。陸軍省は復旧費用の一部を臨時歳出として認め、第六師団によって復旧された。

1960年 天守再建
 1960年に、消失から83年を経て天守再建が実現した。工事が開始されたのは1927年からであり、1926年に結成された熊本城址保存会により国内外から募金を募り宇土櫓の修理が開始。市民主導による初の修理が実現した。
 宇土櫓の修復後に天守再建を求める声は大きくなっていったが、軍用地であったためになかなか戦前には実現には至らなかった。第二次世界大戦後には米軍に接収されていた熊本城跡が返還されると、1955年に特別史跡に指定され、公園としての整備が進んでいき、1958年になってようやく市制70周年記念事業として天守の再建が決定。
 当時の再建費用見積もりは2億円であり、1.5億円を市が、5,000万円を地元の寄付金で賄うこととなったが、地元証券会社の松崎吉次郎が1人で5,000万円全額を寄付し、市民の再建への熱意はさらに高まっていった。また、再建に向けては消失した天守の姿を忠実に再現するため、東京工業大学の建築史家・藤岡道夫教授が古文書・絵図・古写真の研究を進め、10分の1スケールの木造天守軸組模型を作成した。
 1959年4月1日、起工式が行われ、再建工事は本格化。再建工事が終了するのは1960年8月31日と工事は1年5か月にわたり、落成式は9月22日に天守閣前広場にて行われた。

 天守に登ると復旧された天守とそこからの眺めが楽しめる。

お昼ご飯 (2日目) -馬肉-

 一通り熊本城を見学した後は、少し遅い昼食をとるため、城下町にある馬肉料理屋さんに入った。

 前菜。人文字ぐるぐる、辛子レンコンなどの熊本の郷土料理が使われている。

 馬刺しの盛り合わせ。

 馬肉ステーキ

 馬にぎり三種盛り。
 おいしかった。ごちそうさまでした。

スイス上通店

 昼食を終えたので食後に甘いものが食べたくなったので、上通にある熊本初の洋菓子店に入り、併設のカフェに入る。

 1962年の創業時から提供され続けているリキュールマロンを頼む。出てきたときはキラキラした緑の包み紙に包まれており、包み紙を開けるとリキュールの良い香りが漂ってくる。スポンジにはリキュールが浸されており、渋川栗の入ったバタークリームが挟まれている。

 あとついでに同じく上通にあった蜂楽饅頭というものを買ってみた。生地にはちみつが織り込まれている饅頭の中に案がたっぷり入っていておいしい。

 その後は歩いて熊本駅に行く。「肥後よかモン市場」や「アミュプラザくまもと」など大型商業施設が集まっているのでお土産をあさる。
 駅の近くの「くまもと森都心プラザ」には「観光・郷土情報センター」があると聞いていたのだけれども閉館してしまっていた……残念……

夜ご飯 (2日目) -太平燕-

 夜ご飯は下通に戻り、中華料理屋・香蘭亭に入る。

 頼んだのは熊本のソウルフードである具だくさんのスープ料理・太平燕。鶏ガラと豚骨の合わさった白湯スープが合わさって美味しい。熊本では学校給食でもよく出される料理らしい。

3日目

 3日目は朝一で次の宿泊地である湯布院に向かう。本来は途中の阿蘇で中岳の火口を観たりしようと思っていたが、なんと大雪が降り、この軽装で雪山を歩くのはしんどいと思ったので急遽取りやめて湯布院に直行する。
 桜町バスターミナルから由布院駅まで4時間で行ってくれるバスが運行しているが、雪の影響で1時間ほど遅れての到着となった。

 これは本来登る予定だった中岳。登るといっても「ハイヒールで行ける山頂」の売り文句の通りそんな大変な経路ではないが今回は荷物も多くて断念。

 途中の黒川温泉駅。九州は暖かいところだと聞いていたが……

 途中の休憩所も雪が積もっていてメチャ滑る。札幌で鍛えた雪への体幹力があるから余裕だろうと高をくくっていたら、雪対応のシューズをはいていなかったので見事に転んでおしりを激しく打った。痛すぎ。

 雪のせいですってんころりんするはバスは遅れるわでいろいろなトラブルがあったが何とか由布院駅に到着する。もともとこの九州旅行は湯布院で金鱗湖を眺めることにあったのでとても楽しみだ。

 熊本では行きたかったが行けないところが結構多くあった。細川刑部邸や三池炭鉱万田坑、鍋ケ滝、菊池渓谷、長部田海床路、通潤橋、押戸石の丘、上色見熊野座神社、御輿来海岸、永尾剱神社、白川水源、大観峰、草千里ヶ浜、黒川温泉、中岳第一火口には次の観光でぜひ行きたい。

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