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ぶらりくり -松山・道後編-

 大洲本町から宇和島バスで1時間ほど揺られて道後温泉出張所に到着する。道中はかなりふぶいていたものの、道後温泉に到着した時にはすでに雪はやんでいた。投宿先は道後御湯。荷物だけ宿に預け、松山市街の散策に躍り出た。


1日目

 市街をフラフラしてまず最初に辿り着いたのが城山公園にある愛媛県美術館。セザンヌやモネ、杉浦非水などのコレクションが収められている美術館だけれども、興味を惹かれたので特別展「発見された日本の風景展 美しかりし明治への旅」を見学した。
 旅と絵画には切っても切り離せない関係がある。明治洋画史は五姓田派が報道画家のワーグマンと出会うことで有力な洋画家集団へと成長したように、日本人と西洋絵画との出会いの歴史でもある。そしてこの出会いは旅から始まる。報道画家たちは取材のため各地を旅し、風景画家たちは各地の風景を巡る。特に、アルフレッド・イースト、ジョン・ヴァーレー・ジュニア、アルフレッド・パーソンズの3人が日本を旅しながら制作した水彩画はその新鮮な視点から日本の青年画家らに大きな影響を与えたという。
 水彩画を中心とする洋画の隆盛はいわゆる「名所」に留まらない日常的な純粋な「風景」そのものの美の発見に結びついている。豪奢な社寺や雄大な自然だけでなく、民家の庭や農園に咲く花、田畑で働く人々の姿といった「名所ではない」各地の風景は来日した外国人が形を非常に強く魅了した。そして日本人画家らも、そういった風景画を基に現地を旅し、素朴な風景への美を再認識したのである。
 僕自身もこの旅では名所のみならずその土地土地の風景や空気感や日常それ自体の美しさを五感と記憶に刻み込みたいと思った。

瀬戸内風仏蘭西料理 レストラン門田

 美術館から出ると丁度お昼時になっていたので昼食。松山について最初の食事は旬の瀬戸内海の魚介や地野菜を使った正統派の瀬戸内フレンチ店に。

 ドリンクは八幡浜のみかんジュースを頼みました。

 オードブル。海鮮がふんだんに使われていておいしい。ソースは酸味が強め。

 スープはポタージュ。

 お魚料理

 ローストビーフ。

 デザート。
 全体を通して丁寧でおいしかった。味は意外にもやや濃いめ。ブイヤベースのコースもあるみたいなので、次回訪れた時はブイヤベースも食べてみたい。

萬翠荘

 1922年に建てられた国の重要文化財となっているフランス風の洋館で正岡子規とも交流の深かった旧松山藩主の子孫・久松定謨の別邸として使われていた建物・萬翠荘を見学した。
 設計者は新田長次郎の息子である、愛媛県庁本館や石崎汽船本社を設計した木子七郎。地下1階、地上3階、面積887.58m2の鉄筋コンクリート造り。工費は約30万円で現在の価格にして19億円かかったとされている。

 エントランスに入ると正面に大きなステンドグラスが迎え入れてくれる。定謨はフランスのサンシール陸軍士官学校に秋山好古と共に留学しており、渡仏を思い起こさせるデザインとなっている。

 扉板や階段の手すりには当時の高級輸入木材である南洋チーク材が使われている。通常であれば建物は年代が立つにつれ劣化していくが、南洋チーク材を使うことで年月が経過するとともに色艶が出るようになっている。これは非常に水に強い木材で船舶・選管の内部のインテリアに使われており、戦艦大和にも同じものが使われている。

 このステンドグラスは萬翠荘で最も大きいもので、東京の高輪プリンスホテル、横浜の横浜開港記念会館、大阪の大阪中央公会堂、京都の旧・都ホテルなど各地に大きい仕事を残している木内真太郎の手によるもの。実は萬翠荘は施主も設計も制作も、全て日本人による洋館っであり神戸や横浜で見られる洋館との最大の違いはこの点である。

 玄関には石の柱が2本建っており、写真ではわかりにくいがピンク色のまだらが入っている御影石で「桜御陰」ないしは「紅桜」と呼ばれる石であり、岡山から取り寄せたものだそう。当時は重機のない時代であり、表面の研磨加工などはすべて人力。そのため、触れてみると実は細かい凹凸を感じられたりする。柱自体はふんわり丸い形で女性のシルエット、柱の上部にあるものはアップの巻髪を表しており、玄関先で美女二人がお出迎えという意匠である。

謁見の間

 来客が最初に入るのがこの謁見の間であり、賓客を出迎えるサロン的な存在。明るく広く豪華な雰囲気。

 萬翠荘の各部屋には天然大理石で作られた石の種類もデザインも違う暖炉が添えられてる。庶民は長屋で火鉢を炊いていた時代ではあったが、左下にガス管跡が残っており、当時にしては珍しいガス暖房が導入されており、いわゆる都市ガス的なものををこの屋敷だけのために引いていた。そのため、この暖炉では薪や石炭などは使われていなかったそう (厨房もガス調理器具が入っていた)。

 各部屋には鏡が添えられているが、この謁見の間の鏡が一番大きい。当時の日本には歪みや狂いや気泡の入らない質の高い鏡を作る技術が不足していたため、この鏡はベルギーからの輸入品である。

 位置的にはかなり高いところに位据えられていて顔も全く映すことができないが、当時の鏡は高級品であり実用性は求められておらず、部屋を明るく広く豪華に見せるためのインテリアとして使われていた。

 謁見の間のシャンデリアは手前のものだけが花開いていて、奥のシャンデリアは蕾の状態のデザインとなっている。なお、電気自体は明治時代からすでに通っていた。

 萬翠荘の各部屋には窓側と出入口に部屋ごとにデザインの違うアール・ヌーヴォーのステンドグラスが添えられてる。謁見の間はサロンで格式高いため吉祥文である蝶々があしらわれている。

 謁見の間の2枚のステンドグラスはそれぞれ少し白っぽく見えるものとブルーグレーに見えるものとあるが実は2つとも同じ色のガラスが使われており、光の当たり方によって色目が変わってみえるようになっている。色目が変わるグラスあまり見たことがなくて新鮮。

 謁見の間には2枚の絵が飾られている。1枚目は愛媛県と高知県の県境にある三坂峠から街の部分を見渡した絵。2枚の絵の作者は八木彩霞、森永ミルクキャラメルの昔ながらの黄色いパッケージの天使が逆立ちしたマークを描いた画家である。彩霞は元々は横浜元町の小学校の教師であったが、一念発起してパリに渡り、修行の末にサロン展で入選。その腕を見込んで定謨は彩霞に壁画の制作を依頼した。

 2枚目の絵は愛媛ではなく横浜の絵である。実は、幕末のペリーの黒船が来たと際に黒船が再度来航するので守備を固めよという機運があった際に、横浜に防御のための港、お台場を7万両と30万人の人出を動員して埋め立てたのが松山藩である (今でも横浜には神奈川台場跡公園という記念公園があり当時の石垣を見ることができる)。
 ではなぜこの絵を飾っているのか? 松山藩は江戸時代の初期に徳川家康の甥が藩主を務めたため、江戸時代では代々幕府方としての立ち位置であり、明治時代になった際には「朝敵」としての存在となっていた。実はこの萬翠荘が最初に迎えた賓客が当時21歳であった摂政宮、後の昭和天皇であり、陛下に対して「松山は朝敵ではなく、金も人でもかけて日本にこれだけ貢献しております」というメッセージを送る意図があったといわれている。

晩餐の間

 謁見の間の隣はサロンでお迎えしたお客様に夕食を食べていただく部屋の晩餐の間。絢爛豪華な謁見の間とは打って変わってちょっとシックな、落ち着いたお食事の部屋らしくなっており「白」の印象の強い謁見の間に対し、こっちは「黒」の部屋になっている。この部屋のステンドグラスのデザインも食事用の部屋らしく花と果物。

 この部屋の中でひときわ目を惹くのが2つのシャンデリアであり、このぶら下がっているものは本物の天然水晶。規格品ではないので1つ1つ石の形が微妙に異なっている。

 現在では剥落してほとんど見えなくなっているが建てられた当時は格子天井全体に水晶のそのかけらを盛り込めて、星天井にしていた。現在でも視力の良い人であれば天井の一部に光り輝いている部分があるのがわかるそう。洋館全体においてこの部屋の天井だけ神社仏閣によく見られる和風の格子天井となっている。

 部屋のマントルピースの側には三つボタンがある。これは電気式呼び鈴、現在のインターホンであり、このボタンを押すと電気でベルが鳴って働く人の控えの部屋に信号がいきわたり、木札が電気でパコパコ動くことでどの部屋で誰を読んでいるのかがわかるようになっている。迎賓館としての機能も持っていたため、賓客の前でスマートに人を呼ぶための工夫である。ちなみに、日本でラジオ放送が開始されたのが呼び鈴設置から3年後であり、ラジオのない時代の電気式呼び鈴は非常に珍しい。

 一般公開されていないため中は見られないが、晩餐の間には意味深な黒いドアがある。この先は配膳室や地下の厨房につながっており、食事を客人のいる正面から見せずに階段裏の通路通って運べるようなデザインである。客人の視線と従者の動線を完全に分割させる工夫に時代が感じられる。
 また、この扉の取っ手は向かって右開きになっている。これは右利きの人にとってはやや扱いにくい。しかし、右開きであると扉を開けた際にトビラ自体が衝立のように目隠し的な役割を持つことができ、客人に対して裏方を見られにくくする工夫がなされている。

 萬翠荘は1945年にアメリカ軍によって接収され、将校の宿舎として2年間使われたが、その後1954年から1981年12月までこの部屋はフランス料理の高級レストランとして使われていた。松山においては当時フルコースのフランス料理を提供できる唯一のレストランであり、接待やお見合い、結婚式場としても使われていた。

迎賓室

 2階に上がると迎賓室と呼ばれるメインのゲストルームがある。

 この部屋には2枚の肖像画があり、入って左側は、後に昭和天皇となった、21歳の頃の摂政宮。摂政宮は当時、良子様とご婚約中であり、そのおばさまにあたる治子様、久松定謨の婦人とともに、島津家の出身で、おばと姪の間柄であった。
 向かって右側の肖像画は、昭和天皇古希の時のお姿。昭和天皇は、昭和28年の四国国会の際、この萬翠荘にご夫婦でお泊りになった。

 1階のロビーからステンドグラスを見るときには、帆船を見上げるようなかたちになるが、この部屋からだと、2階踊り場のステンドグラスの帆船が、ソファーに座ったときにちょうど目の高さに浮かんで見える。

 バルコニー。現在は建物や生い茂った樹木で遮られているが、建築当時はここから石手川を望むことができたそう。

 萬翠荘の敷地内には「愛松亭」という喫茶店があるが、これは夏目漱石のが英語教師として松山中学校に赴任してきた際の最初の下宿先であった。漱石は非常にこの場所を気に入っており、正岡子規にあてた手紙にも「小生宿所は眺望絶佳の別天地」と記している。

道後ハイカラ通り

 萬翠荘を一通り見学するともう日も暮れてきたので道後温泉に戻った。

方生園

 道後温泉駅前の広場に道後の源泉が楽しめる足湯と夏目漱石の小説『坊っちゃん』にちなんだカラクリ時計が設置されている。

 駅からは道後ハイカラ通りと呼ばれるアーケード街に続いており、食事処やカフェ、土産物店などが軒を連ねる。湯上りに散歩するのにももってこい。

一六茶寮 (一六タルト・SHIRASAGI)

 道後ハイカラ通りにはユズを使用した餡をスポンジでまいた四国銘菓「一六タルト」をはじめ松山の郷土菓子「しょうゆ餅」等の和菓子を売っているお店「一六茶寮」がある。お土産に一六タルトを買い、2階の喫茶スペースでは白鷺伝説を表現した抹茶スイーツ「SHIRASAGI」を注文した。目の前でチョコレートが解けて変化していく様子が視覚的にも楽しい。

道後温泉本館

 道後温泉のザ・シンボル。行ったときには保存修理工事中だったがお風呂には入れた。入り口で整理券を配っているのでその整理券を受け取り、時間になったら再びここに来ればお風呂に入ることができる。

『釈日本紀』には596年10月に聖徳太子が朝鮮の僧・恵総と大和の豪族・葛城臣を従えて道後温泉を訪れたという来湯伝説の記録がのこっているほか、『日本書紀』には舒明天皇と斉明天皇の道後温泉への行幸が記録されている。

 これは道後温泉本館の側で見付けた夏目漱石の『坊っちゃん』の碑

 日本最古の歌集『万葉集』にも道後にちなむ歌が多く収録されている

熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今はこぎいでな

『万葉集』額田王

2日目

 2日目はまず正岡子規が17歳で上京するまで住んでいた住居・子規堂に行ってみることにした。

子規堂

 正岡子規の菩提寺・正宗寺の境内にある子規の生家の一部を復元した資料館。

子規の勉強部屋

 子規が松山中学に入学してから勉強部屋として増築された三畳の小部屋。ここで幼馴染の眞之と夢を語ったといわれている。当時は「子規」という号を用いておらず、櫻亭仙人(13歳)、老櫻漁夫(14歳)、香雲散人(15歳)という名前を使っている。すべて桜に関係した名前なのは庭に生えていた桜の老樹の影響だといわれている。

 机の上方にかかっているのは「香雲」の額であり、子規の外祖父・大原観山の親友、武智五友によるもの。子規は幼少期に五友に書を習っていた。

 子規の紅梅の歌。

紅梅の下に土筆など植ゑたる盆栽一つ左千夫の贈り来りしをながめて朝な夕なに作りし歌の中に
くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

正岡子規

居間

 松山中学に入学前、勉強部屋ができるまでは子規はこの居間で勉強をしていた。

 子規堂の隣には明治時代の坊っちゃん列車の客車があった。

フルーツパーラーみしま

 子規堂を見学した後は、大街道にある松山の老舗果物店が営むフルーツパーラーで紅マドンナパフェを食べた。みかんうま~!!!

和食みよし

 お昼は和食を食べたよ。お造里、焼魚、龍皮昆布巻、大根酒粕煮、水菜と数の子浸し、海老・菜の花サラダ、叩きごぼう、黒豆密煮、かき茶碗蒸し。

 和食屋さんの近くにあった愚陀仏庵跡。漱石が松山中学校の英語教師として松山に赴任した時の下宿があった場所であり、ここで夏目漱石と正岡子規の共同生活が行われていた。1945年7月26日、松山大空襲のため消失。

松山市立子規記念博物館

 子規堂に行ったその足で道後にある子規記念博物館に。

 正岡子規は1867年に本名「常規」として松山に生まれた。幼名は「處之助」、後に改名して「升(のぼる)」と名乗り、周囲からは「のぼさん」と呼ばれていた。
 子規は幼くして父を亡くしていたため母の八重が子規と妹のを育てており、母方の祖父である漢学者の大原観山が子規に学問を教え子規た。
 正岡家は代々松山藩に仕える武士の家であったが、祖先は元々は今治出身で寺路姓を名乗っており、三代将重の時に正岡に改姓し、子規の父・正岡常尚まで百年以上にわたり松山藩に仕えていた。子規の父・常尚は同じく松山藩士だった佐伯家から養子に入っており、常尚の兄・佐伯政房は祐筆役を務めていた。
 また、子規の随筆「筆まかせ」では子規の玄祖父・一甫が藩のお茶坊主の役を務めたこと、曾祖父・常武が棒術や鎖鎌の名手だったことなどが記されている。
 子規は独身のまま一生を終え子供はいなかったが、妹・律は二度の結婚と離婚を経験したのちに養子・忠三郎を迎え、正岡家を継承させていった。

 子規の母・八重は幼いころの子規について「顔が丸く、鼻が低かった」「近所の子どもにからかわれて泣いて帰ってくるので、妹が兄の敵討ちをしたことがあった」と語っており、字の練習や絵を描くことが好きなおとなしい性格であったと伝えられている。
 松山に小学校が設置されて間もない1873年の秋ごろ、子規は松山の法龍寺に設けられた末広学校に入学。この頃はまだ寺子屋式であり、子規は「文庫」と呼ばれた箱全のようなもの中に負で休み、紙、書物などの勉強道具を入れて通学していた。1875年、松山に教員養成のための付属学校として勝山学校が開設されると子規は選抜されて勝山学校に転学。
 一方で子規は祖父の大原観山や観山の有人の儒学者・土屋久明に漢文を教わり、山内伝蔵や親族の佐伯政房に習字を習っていた。また、書家としても知られた武知五友の書を手本に文字の練習をし、絵画の練習のために葛飾北斎の『画道独稽古』を模写するなど、学校以外の場でも子規は熱心に学び、武士の子としての教養を身に着けていった。子規が1878年ごろに書いた小学校時代の作文は「自笑文章」として27編が纏められている。
 1879年5月15日は子規らが論説・詩歌・書画などを掲載する回覧雑誌「桜亭雑誌」を発行。雑誌のタイトルは子規の少年時代の筆名「桜亭仙人」を基につけられた。

 子規が少年時代を過ごした明治初期には新聞が民衆から注目を集め、松山でも1876年9月11日に愛媛県の権令・岩村高俊の指示で県の広報誌「愛媛新聞」が発刊、翌年4月18日に西河通徹を編集長に迎えて日刊紙「海南新聞」と改称し、民権派政治結社の機関誌となって維新後の逆境にあえいでいた松山の人々に刺激を与え、自由民権運動へと駆り立てていった。こういった松山における自由民権思想は子規に大きな影響を与え、子規の政治家志望の基礎となった。1881年6月には風詠舎発行の民間の週刊新聞「愛比売新報」が創刊され、新聞には和歌・監視・俳諧の投稿を掲載する2冊の別冊「俳諧花の曙」、「風詠集」の付録がつけられた。こういった新聞の存在は伝統的な文芸の隆盛に大きく寄与していった。

 1879年12月27日に勝山学校を卒業した子規は、翌年には松山中学校へ進学。松山中学校は江戸時代の藩公明教館の流れを汲み1875年に設営された英学所を母体とする学校であった。初代校長の草間時福は演説や討論を重んじる自由な教育を奨励し、民権派として知られた愛媛県権令・岩村高俊もこれを支持。しかしながら、子規が入学する1年前に草間時福は校長を辞任し、それ以降松山中学では草間校長が造った自由な校風が失われていった。弁論同好会「談心会」で活動していた子規であったが、規制や抑圧の強まった中学の雰囲気に不満を持ち、中学校を退学して東京の学校に進学したいという思いが強まっていった。それと同時に、川東碧梧桐の父である河東静渓の私塾「千舟学舎」にも通い漢学の講義を受け、洋の東西を問わぬ幅広い教養を身に着けていった。

 人間関係としては、松山中学校時代は「五友」と呼ばれる友人グループ (竹村鍛、三並良、太田正躬、森知之)を形成し、親しい関係を築いていた。竹村鍛は川東碧梧桐の兄であり、後に女子高等師範学校などで教鞭をとることになる。三並良は子規の親族であり、将来はドイツ語学者兼哲学者となり晩年は松山高等学校の教頭を務めた。太田正躬も後に大阪商業学校の教員となり、森知之は陸軍軍人となり退役後には道後湯之町の町長を務めた。この5人は漢詩をつくる会を開き、自身の作品を載せた1880年10月15日に「五友雑誌」を刊行。武村の子規の当時の雅号は「好吟童子」。武村の父である漢学者・河東静渓の指導を仰ぎ漢詩にも熱中したという。

 中学校時代から子規は政治の話題に強い興味を持ち、新聞を取り寄せて読み、自身で政治演説の原稿を書き演説にも熱中した。1882年12月の演説原稿「自由何クニカアル」では、日本には自由が必要で欧米諸国に侮られないために自由の保障が重要であるという趣旨の演説を行っており、1879年に発刊した回覧雑誌「松山雑誌」では政治や国家を論じている。1883年1月14日の松山青年会における演説原稿「天将二黒塊ヲ現ハサントス」では民権の観点から国会(黒塊)開設を歓迎するという内容の演説を行っている。

 松山中学校の現状への不満がたまっていった子規は、政治家になるべく東京の学校に進学することを望み、叔父・加藤拓川に何度も手紙を書いていた。1883年6月8日に託宣からようやく状況が許可され、6月10日、三津浜の港から神戸行きの船「豊中丸」に乗り込み、青雲の志を胸に東京へと旅立った。6月11日の朝に神戸港に到着すると、子規は人力車で神戸市内を遊覧し、ホテル、賭博場、演劇場、布引の滝を見学し神戸で一泊。6月12日の午後に神戸港から横浜に向け出港する。神戸から横浜までの航路を運航していたのは当時の日本郵船であり、神戸から三菱の「東京丸」に乗船。この頃は瀬戸内海地方では鉄道網の発達が十分ではなく、船が最も主要な交通手段であった。
 横浜からは1872年に開通した新橋までの鉄道に乗り、6月14日の朝方に新橋駅に到着した。実は新橋-横浜間の鉄道は日本で最初に開通した路線であり、当時は一日九往復の便が運行され所要時間は約五十分。子規にとっては初めての鉄道乗車であった。

 東京での第一歩を踏みしめた子規は浜町の旧藩主久松家の旧宅に行き、続いて先に上京していた郷里の友人・柳原正之(後の柳原極堂)を尋ねて宿屋を巡り、本郷弓町の下宿屋で柳原と三並良と再会した。

 上京を果たした子規は1884年に東京大学予備門(1886年4月に第一高等中学校と改称)に入学し、友人らとは野球や寄席、旅行に興じ青春の日々を送った。予備門での友人らと相互に人物評をした資料に「七変人評論」が残されており、この資料には子規、関甲子郎菊池謙二郎井林博政秋山真之神谷豊太郎清水則遠の7人について記されており、子規と友人らとの交流が伺える。特に、同じく松山出身で後に海軍軍人となり日露戦争の日本海海戦で東郷平八郎の名参謀として活躍した秋山真之との友情は厚く、江ノ島に無銭旅行に出かけたり、勉学を競い合ったりした様子が記録されている。そのほか、同級生に夏目漱石山田美妙尾崎紅葉といった作家や、後に博物学者として名を成す南方熊楠らもまた同級生として交流があった。特に夏目漱石とは同い年でもあり子規にとって終生の親友でもあった。
 漱石との交流が始まったのは1889年1月毎に共通の趣味だった寄席の話で意気投合したのがきっかけだった。後に二人は互いの詩文集(子規の「七草集」と漱石の「木屑録」)の批評を通じて才能を認め合った。文章を巡っては漱石はイデア(理念)を重視し、子規はレトリック(修辞)を重視するなどに対立もあったが、二人は良き友人であり、子規は「筆まかせ」の中で漱石のことを「畏友」と呼んでいる。され、夏目漱石と同級生となった。

 しかしながら、子規は1889年5月初旬に突然喀血し、その喀血は一週間続いた。当時不治の病気と言われていた肺結核である。この時子規は時鳥を第に50作近くの俳句を作り、以降「鳴いて血を吐く」鳥と言われたホトトギス(子規)に自分を重ね、「子規」と名乗るようになる。子規が本格的に俳句の世界へと進んでいったのはこの頃からである。

卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規

正岡子規

 1888年には旧藩主久松家の出資により開設された松山出身の私邸のための寄宿舎・常磐会寄宿舎に移住。本郷区真砂町に位置し、子規は1891年まで在社した。
 1890年9月には帝国大学文科大学へと進学し哲学科、翌年には転科し国文学科に学んだ。当時の帝国大学の課題作文として松尾芭蕉の人物とその発句などについて論じた「Baseo as a Poet」(英文芭蕉論)が残されている (日本語訳は『子規全集 第5巻』に掲載)。
 校外では友人らと活動的に時間を過ごすが特に子規が熱中したのが寄席野球旅行だった。子規と柳原極堂、秋山真之は本郷や神田の寄席を巡り、気に食わない芸人が高座に出ると下足札を鳴らして妨害していた。
 野球に関しては、子規のポジションはキャッチャー。友人らとも試合を盛んに行い、随筆「筆まかせ」や合作小説「山吹の一枝」などでは野球をする場面描いた。随筆「松蘿玉液」では野球のルールを紹介し、当時はまだなかった打者、走者、四球、直球などの現在でもつかわれる野球用語を日本語に翻訳した。
 また、子規は13歳の頃に松山港外の岩屋寺へ一泊旅行をしたのをきっかけに、上京後にも鎌倉や箱根、日光、水戸、東北地方を旅し、東京都松山を往復する規制旅行は九回にも及んだ。旅の様子をする下紀行文も数多く残しており、「水戸紀行」「しゃくられの記」「かけはしの記」「はて知らずの記」等は青春時代に旅を愛した子規の足跡を伝えている。

 子規が俳句を作り始めたのは1885年頃だといわれているが、1887年に松山に帰省した際には三津浜の俳諧宗匠・大原其戎を訪問し、初めて句作の指導を受けた。其戎の出した雑誌「真砂の志良辺」の92号では子規の句「虫の音を踏わけ行や野の小道」という句が掲載され、子規の句の中で一番最初に活字化された句である。その後は寄宿舎の友人らと句作や分類に熱中し(「寒山落木」では1885年から1896年までの11年間で子規の作った句を分類し、15,000句を収録した)、1892年には伊藤松宇をはじめとする結社「椎の友」の俳人らと交流を深め、雑誌「俳諧」を発行していくことになる。
 子規が俳句に熱心になったのは「趣味の上からよりも寧ろ理屈の上から」と述べており、そのきっかけになったのが「俳句分類」の作業であった。子規が俳句分類に力を入れ始めたのは1889年頃からであり、室町時代から江戸時代にかけての俳句を季語、事物、形式によって分類しこれを10年ほど続けて、この他にも「俳家全集」「一家二十句」「拝書年表」「俳諧系統」等の数多くの俳句に関する編著を残した。

 また、子規は小説の執筆にも熱心に取り組み、明治18年に坪内逍遥の当世書生気質が発表されると趣向が写実的で雅俗折中的であるところに衝撃を受け、処女作「龍門」を書き、1890年には寄宿舎の有人・新海非風と合作で、野球を題材に取り入れた「山吹の一枝」を執筆。
 当時の文壇では子規と同年代にあたる尾崎紅葉幸田露伴らが活躍しており、子規も小説家としての体制を願うようになる。1891年、「月の都」の執筆に着手。その年には寄宿舎を大挙して本郷の下宿に一顧し、執筆に専念するようになった。1892年2月に完成させ、幸田露伴の批評を受けるべく原稿を渡すが好評を得ることができず、「月の都」は世に公開されることはなかった。
 この後子規は高浜虚子に「僕は小説家にはならない、詩人になろうと思う」と手紙書き、小説家の夢の挫折と誌・俳句への注力を試みていく。

  しかしながら、1892年の夏の学年末試験に落第。大学中退を決意した。1892年12月1日、松山から母と妹を東京に呼び寄せて日本新聞社に入社し、ジャーナリストとしての道を歩んでいくことになる。日本新聞社の社長・陸羯南は青森県弘前出身の出身で羯南主催の新聞「日本」は硬派な政論新聞として国分青厓福本日南古島一雄などの多くの社員は一流のジャーナリストとして知られていた。
 羯南は子規の叔父・加藤拓川の有人であり、子規は大学に在籍していたころから紀行文「かけはしの記」や俳論「獺祭書屋俳話」を新聞「日本」に掲載していた。
 1892年12月2日、子規は松山沖で軍艦千鳥が沈没し70余人が犠牲となった事故を題材に「ものゝふの河豚にくハるゝ悲しさよ」と読む。社の方針もあり、子規は頻繁に時事俳句を新聞に掲載していた。
 1893年5月21日には子規最初の俳論書『獺祭書屋俳話 全』を日本新聞社から刊行し、本書が子規の俳句革新運動の第一声と言われている。この獺祭書屋俳話では江戸時代以前の句を題材にして俳諧に関するさまざまについて述べたものであり、字余りの句や類句の問題など、子規の俳論の重要な論点が盛り込まれた。また、子規は本論集において「ありきたりな句」を表現するためにも「月並」という造語を使い、この語は現在でもつかわれ続けている。

 1894年2月11日には日本新聞社から絵入りの家庭向け新聞として「小日本」が創刊される。これは「日本」が政府批判を頻繁に行いたびたび発行停止処分を受けていたために新規の読者層を開拓することを目的として発刊されたものである。子規は「小日本」の編集責任者に抜擢され、学生時代の有人・五百木飄亭や画家・中村不折を引き入れ文芸をメインにした紙面づくりに取り組んだ。学生時代に書いた小説「月の都」を創刊号の一面に掲載し、斎藤緑雨森鴎外の小説・随筆を掲載した。この後、石井露月も校正に加わり、また、「日本」に引き続き、「俳諧一口話」などの自身の俳論を連載し、さらに俳句欄を設け多くの募集俳句を掲載した。
「小日本」は子規の活躍により独自性のある紙面で発行が続けられたが、経済的理由により半年で廃刊となる。しかし、新聞編集の仕事の経験はのちの子規の文学活動に大いに生かされることとなる。

「小日本」の廃刊後まもなく、日清戦争が勃発。各新聞社は従軍記者を戦地に送り込み戦況を実況した。日本新聞社からも多くの記者が従軍して戦争記事一色となり、子規の手掛けていた文苑欄は縮小されていった。そのような中、子規は戦争の実態を自身の目で確認したいと思い戦場に赴くことを強く希望する。入病を患っていたため周囲からは反対を受けるが、それらをすべて振り切り1895年4月に広島の宇品港から船に乗り、遼東半島の大連に渡った。しかしながらこの頃戦争はすでに終結に近づいており実践を見ることはく、1月ほどの滞在の後に子規は帰国した。この間、子規は「陣中日記」などの記事を執筆した。また、子規は陸軍の軍医として従軍した森鴎外と戦地で一緒になり、鴎外とはたびたび文学談議に花を咲かせていた。
 遼東半島から帰国する途中、子規は船上で大量の吐血をする。神戸に上陸すると記者仲間の介抱を受け、1895年5月に神戸病院に入院。高浜虚子や川東碧梧桐、母・八重が病院に駆け付けた。一時は危篤状態に陥るも何とか一命をとりとめた。この時の記録は河日越碧梧桐や高浜虚子らの看病の記録「病床日誌」に残っている。
 6月ごろから快方に向かった子規は俳句草稿「病余漫吟」の編集に取り掛かる。7月23日に神戸病院を退院し、須磨保養院に転院。須磨寺に参詣するなど穏やかに療養の日々を過ごした。
 8月20日には須磨保養院を退院し、俳句革新の総仕上げという大きな目標を胸に漱石のいる松山へと帰っていった。

 1895年、静養のために松山に帰省した子規は、同年4月から中学の英語教師として松山に赴任していた親友の夏目漱石と、8月25日から下宿「愚陀仏庵」で52日の共同生活を送ることになる。漱石は城山山腹にあった「愛松亭」を下宿にしていたが、6月下旬にニ番町の上野義方の離れ「愚陀仏庵」に引っ越した。
 愚陀仏庵の2階は漱石が、1階は子規が住み、子規は漱石との共同生活を「.桔梗活けてしばらく仮の書斎哉」と詠んでいる。
 俳句革新運動の旗手として活躍していた子規の元には柳原極堂をはじめとする俳句結社「松風会」の人々が毎日のように集まり、漱石による俳句の指導が行われていた。漱石も子規の影響を受け俳句を作るようになり、次第に句作に没頭していった。明治を代表する文豪・夏目漱石の創作活動は、ここ愚陀仏庵から始まった。
 また、子規は句作と俳句指導を行う中で自信の俳論の構想を整理し、「俳句文学宣言」を展開した俳論「俳諧大要」を執筆した。
「松風会」は1894年3月に中村愛松野間叟柳ら松山高等小学校の教員らによって結成され、その後は下村為山や柳原極堂が参加し、全国初の子規派の地方結社となる。
 1895年10月6日に子規と漱石が道後温泉の周辺を散策した記録が子規の「散策集」に残っている。1894年に落成したばかりの道後温泉三層楼からの眺めを楽しみ、仏閣を訪れ、数多くの俳句を詠んだという。
「散策集」は愚陀仏庵滞在中に5回にわたって松山郊外を散策した子規がその時の俳句と文章をまとめた作品であり、他にも例えば1895年9月20日に柳原極堂と共に松山城下の東方にある四国霊場の石手寺を散策した記録も残されている。
 9月21日には柳原極堂に加えて松風会の中村愛松、大島梅屋も同行し、松山城の北にある御幸寺山の山麓を散策している。この日に子規と散策した梅屋ができた俳句を書きつけ、子規に添削してもらった記録は「城北散策口占」に残っている。
「散策集」は長らくその存在が知られていなかったが、1933年に柳原極堂が原本を式派の俳人・近藤我観が保管していることを知り、その全文を俳誌「鶏頭」に掲載することで世に知られ、当時の俳壇では大きな話題となった。

 10月17日に子規は52日間の愚陀仏庵での滞在を終え、東京に戻ることになる。10月12日には料亭・花廼屋で送別会が開催され、17日当日には、船待ちをするために三津浜の船宿「久保田回漕店」に移った。
 18日には松風会の人ら10名が子規の元を訪れ夕食を共にして別れを惜しんだ。子規は「十一人 一人になりて 秋の暮」と句を残し、翌日19日に船で松山を後にした。三津浜での別れについては柳原極堂『友人子規』に詳しく残されている。

「愚陀仏庵」復元

 夏目漱石は松山から東京に戻る子規に選別として一句俳句を送っている。

御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花

 子規は松山を発って帰京の旅に出る道中、広島・大阪などを経て奈良を訪れた。当時は腰痛が酷かったものの東大寺、薬師寺、法隆寺などを訪れ多くの俳句を詠んだ。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

正岡子規

 1896年以降は病状が悪化して病床での生活を余儀なくされ、外出することがほとんどできなくなった子規にとって古都・奈良を訪れた旅は子規生涯で最後の旅となった。
 1894年2月に子規は東京根岸の子規庵に転居し、以後亡くなるまでの約8年間を過ごした。晩年の子規が受けた診断は難病の脊椎カリエス。病床での生活を余儀なくされたが、そんな下でも創作意欲が衰えることはなく、ここから様々な作品が生み出された。
 子規庵には子規の有人や俳句・短歌の門人など多くの人々が毎日のように通い詰め、苦海、歌会、文章の研究会など、様々なジャンルの会合が行われ、子規庵は明治を代表する一大文学サロンとなっていった。

 闘病の中子規が続けた俳句革新運動は明治俳壇の新しい潮流として注目された。新聞「日本」を拠点にして展開されたため1895年ごろには子規をはじめ、内藤鳴雪、高浜虚子、川東碧梧桐らは「日本は」と呼ばれるようになり、後には佐藤紅緑石井露月松瀬青々青木月斗が日本派の俳人として活動していった。
 また、愛媛の俳句結社「松風会」の誕生を川霧に、京都・大阪の「満月会」、宮城の「奥羽百文会」、静岡の「芙蓉会」など、各地に日本派の俳句結社が次々と誕生し活動拠点は全国に広がっていった。
 こうした流れの中、1898年には日本派の俳句集『新俳句』が刊行され、日本派の俳人600人による4,900句が収録された。

 子規の他の功績に与謝蕪村の再評価がある。当時、蕪村は画人としか知られていなかったが、子規は蕪村の句に注目し、その絵画的な俳句に大きな魅力を見出した。1897年4月から11月にかけて、子規は蕪村研究の成果を新聞「日本」に連載し、俳人としての蕪村を広く世に紹介。蕪村の句を「客観的美」や「理想的美」などの項目に分けてその特徴を論じ、「蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、或いは之に凌駕する処あり」と絶賛した。
 また、1898年から『蕪村句集』の輪読会を子規庵で開始し、その成果は「蕪村句集講義」という題で「ほとゝぎす」に連載し、子規晩年の俳論研究として重要な成果を遂げた。
 子規は蕪村の命日にあたる12月24日に子規庵で句会を開く「蕪村忌」を1897年初め、多い時には40名を超える俳人が参加し、子規の死後も内藤鳴雪をはじめとした子規の門人らが継承していった。なお、有名な子規の横顔の写真は1900年に開かれた第4回蕪村忌の際に撮られたもの。

 子規は短歌の分野でも姓直的な活動を続け、上代から江戸時代に至る歌集や歌人の研究を行う中で明治という新時代に対応することなく古くからの題材や形式的な詩句を使用する当時の歌壇を批判した。1898年2月に「歌よみに与ふる書」の発表を皮切りに本格的な短歌革新に乗り出す。これまで聖典とされてきた『古今和歌集』を否定し、古今調の歌人として絶対的な存在であった紀貫之を「下手な歌よみ」と批判した。子規の歌論には当時の歌人からは勿論、日本新聞社内部からも批判の声が上がったが、短歌革新をやめることはなく、「日本」に「百中十首」と題して掲載した自身の短歌の中で『万葉集』の力強い作風を推奨・実践した。
 子規の歌稿の中で有名なものが1882年から1900年までに作った短歌・新体詩・長歌などを記した「竹乃里歌」である。掲載作品数は約1,900作に上り、子規が一生で詠んだ短歌作品の8割がここに記されている。

 子規は、亡くなるまでの約7年を病床で過ごし、自由に動くことはできず想像を絶する苦痛に襲われたが、病床でひたすら文学活動を続けていった。死が近いことを自覚した子規は病床で随筆を綴り自己表現に努めた。子規の三代随筆「墨汁一滴」、「病牀六尺」、「仰臥漫録」である。
「墨汁一滴」は、1901年1月から7月にかけて新聞「日本」に連載され、文学や芸術、自身の身の回りのことなど幅広いテーマが盛り込まれた随筆。
「病牀六尺」は1902年5月から同じく「日本」に連載され、病苦の中で日々を過ごす最晩年の心境がつづられ、死の2日前の9月17日まで掲載された。
「仰臥漫録」は1901年9月から子規が病床で記した手記で、日々の出来事や思いが述べられているほか俳句や写生画も織り込まれ、子規の病床での息遣いを伝えている。

 1902年9月14日の朝、目を覚ました子規は高浜虚子にその日目に移った庭の景色やその時の気持ちを口述筆記させている。

 正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五六本散らばっている。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せている。余は病気になって以来、今朝ほど安らかな頭をもって静かにこの庭を眺めた事はない。

「九月十四日の朝」

 この4日後、子規は辞世の句となる絶筆三句をしたためてそのまま昏睡状態に。9月19日午前1時ごろ息を引き取った。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき

正岡子規

 息絶えた直後、母・八重が「サア、も一遍痛いというておみ」といって涙をこぼしたと虚子は語っている。

伊佐爾波神社

 道後温泉の近くにある千年以上前に創建された古い神社。江戸時代初期に松平定長によって建て替えられたのが今の社屋。

 圧巻の135段の石段。眼下に松山平野の景色が広がる。

 きわめて色鮮やかな朱塗りの社殿は八幡づくりになっていて、日本に三社しか存在していない。

宝厳寺

 665年に創建されためちゃめちゃ古い寺。2013念の火災で本堂が焼失したが、2016年に再建。河野通広の第二子、時宗の開祖・一遍上人の生誕地としても有名。

 山門は唯一焼失を免れた。

 境内にあった正岡子規の句碑。1895年10月6日に漱石とともに道後に吟行し『散策集』に「宝厳寺の山門に腰うちかけて」と前書きしてこの句

色里や十歩はなれて秋の風

『散策集』正岡子規

 文字は句集『寒山楽木』の自筆筆跡を拡大したもの。

 本堂はこんな感じ。

 一遍上人堂には一遍上人像が建っている。

圓満寺

 恋愛成就に御利益があるといわれ全国から参拝者が訪れるパワースポット。地蔵堂内には大きな湯の大地蔵尊が鎮座している。

 カラフルなお結び玉に願い事を書き込んでお供えするのが習わしで、フォトジェニックなスポットとしても人気を集めている。

道後の町屋

 歩き疲れたのでカフェで休憩。道後郵便局舎と郵便局長の自宅であった大正時代の町屋を改装して作られたカフェ。庭がめちゃ奇麗。

道後温泉別館 飛鳥乃湯泉

 その後はひとっ風呂あびるべく、道後温泉別館に。「太古の道後」をテーマにした日帰り温泉であり、お風呂だけのコースと広間で休めるコース、個室で休めるコース、特別浴室が使えるコースの4種類のチケットがある。

 インスタレーションは蜷川実花の作品。

 廊下から既に雰囲気良すぎ。

 お風呂を浴びた後は、広間で休めるコースであればお茶とお菓子のもてなしが受けられる。

 大広間にはキルティング和紙の装飾品がかざられてる。

3日目

 3日目は松山城を見学すべく、城址公園に向かった。これは途中で見かけた『坊っちゃん』の像

松山城

 築城の名手としても名高い初代藩主加藤嘉明が1602年1月15日から4半世紀をかけて132mの勝山山上に築いた連郭式平山城・松山城。複雑で強固なつくりから防衛に優れた難攻不落の城としても名高い。
 城自体の完成は加藤嘉明が会津四十万石に移封となった1627年のことである。

石垣

 勝山の8合目まではロープウェーを使って登ることができ、そこから本丸に向かって歩いていくと石垣が現れる。扇のような紅梅が美しく、上に向かえば向かうほど急勾配になってゆく。

中ノ門跡

 本来であれば最初に中ノ門をくぐることになるが、明治時代に取り壊されている。大手登城道の途中に門を設けることで、攻めてきた寄手は門を通り過ぎて直進するものと、次に構える戸無門に行く者とに分断させることができ、直進した者は乾門下で行き止まりになっている。

戸無門

 敵を筒井門に誘い込むために設置された門であり、創建当時から門扉がないために戸無門と呼ばれている。写真向かって右方には昔は渡塀があり攻撃できるようになっていた。

筒井門・隠門

 戸無門を通過すると下の写真のようにまた門が見えてくるが、左手側の門が筒井門。非常に見難いがこの奥の石垣の陰に隠された、写真右手に隠門と呼ばれる門があり、奇襲作戦のために用いられた。

 筒井門は門の上部の隙間から弓矢で攻撃できるようになっている。門自体の扉は楠の一枚板で非常に貴重

太鼓門

 次の太鼓門は本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付きの櫓門であり、筒井門に続く第2の防衛線である。

本丸広場

 いよいよ山頂に到着。天守前に広がる見晴らしの良い広場があり。春には桜が奇麗に咲くらしい。

本丸

 城の防衛上最後の砦となる郭・本丸。高さ10mを超える高石垣に周囲を囲まれていて、石垣は美しい曲線を描く扇勾配に積まれている。

 弓や鉄砲で敵を打つための開口部である狭間

 一ノ門。脇戸付の高麗門であり、ここで足止めした敵を二ノ門や三ノ門の南櫓、小天守から射撃できるようになっている。

 ニノ門。一ノ門より防御性能は劣る薬井門形式の門

 三ノ門。扉の上部は縦格子になっている高麗門。南櫓や天守から射撃できるようになっている。

 筋金門。門の柱に鉄板が張ってあるので筋金門という名前。櫓は天守と小天守を結ぶ通路となっている。

 小天守。二重二階の櫓。白壁が天守の黒塗りの板壁と対比して映える。

 天守。三重三階地下一階附の建造物であり、完成後に1642年に松平定行が改築している。左下に見える穴は穴倉で、床には素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避け、穀倉や米蔵として使われた。約二千俵の米が貯蔵可能。現在は天守の入り口に使われている。

 名将と呼ばれる加藤嘉明だが、幼少期は不遇であった。父・教明は徳川氏に属していたが、三河の一向一揆に加勢し敗北したため三河を追われた。その後。父を亡くし幼くして流浪の身となり近江国(滋賀県)の長浜で馬喰をしていた。そこで十代半ばの頃、秀吉の家臣であった加藤景康に見出され秀吉に仕えるようになる。

 その後秀吉の戦功と共に1583年に賤ケ岳の戦いにおいて戦功をあげ、「賤ケ岳の七本槍」として名を馳せる。その後も水軍の将として多くの武功を上げ、1586年には1万5千石を与えられ淡路国志知城主となり、1595年には伊予国正木6万石の城主に封じられる。更に秀吉の死後、1600年の関ケ原の戦いでは家康率いる東軍に従い戦功を治め、伊予半国20万石に加増。1602年1月15日に松山平野の中央部に二十万石にふさわしい城と城下町の建設に乗り出し、1603年に入城。以後、この地を「松山」と呼んだ。しかしながら、1627年には陸奥国会津40万石へ領地替えとなり、本人は松山城の完成を見ることはなかった。
 4年後の1631年に江戸屋敷にて病没。享年69歳であった。

 嘉明は松山築城と並行して、当時普請奉行であった足立重信に命じて湯山川(現・石手川)の改宗と城下末の建設にも力を入れていた。足立重信は勝山の南麓を流れる湯山川の流路を買えて伊予川(現・重信川)に合流させ、城の外堀として活用するなど、城下町や耕地の開発に卓越した手腕を発揮。
 新城下町の構想としては、城の東西に商家町を置き、北に寺院を集めた寺町を配するというもの。特に、城西の松前町には住民を移住させて商工の町として税金を免状する免訴地としており、これが後に古町三十町と呼ばれる商業地に発展していくきっかけとなっていった。

 加藤嘉明が会津に転封された後に伊予松山に移ってきたのは、蒲生氏郷の孫・蒲生忠知。忠知は暴君としても知られるが、その治世は良好で寺院の建築・移築、二の丸御殿の建設などの治績を残した。
 しかしこの間に重心の抗争が勃発し、ようやく家中の安定を取り戻した矢先の1643年に、参勤交代の途中の京都藩邸で急死する。嗣子がいなかったため、これ蒲生氏はお家断絶となった。

 その後1635年、三代将軍家光の命により外様への牽制と警戒のため、4万石の加増をもって家康の甥・松平定行が桑名から入封。定行は1639年に3年の月日をかけ五重であった松山城天守を三重に改築。一説には「幕府に遠慮しての配慮」と言われているものの、実際には本壇の地盤の弱さに起因する天守の安全確保が目的であったという説が通説である。
 1644年に定行は長崎探題に就任して異国船との交渉にあたり、鎖国制度の完成に尽力した。また、家光死去後の1651年には幼将徳川家綱を補佐するために溜之間詰に任ぜられている。

 定行の次に1662年に松山藩十五万石を継承したのは松平定長。定長は三津浜魚市の制度の整備や道後湯月宮(現・伊佐爾波神社)や味酒明神(現・阿沼美神社)を再興させるなど民政に尽くし、連歌の分野においても多くの名作を残した。
 松平貞直は1687年に藩庁を二の丸から三の丸に移し、二の丸を藩庁別棟とし、1705年には財政難から初めて藩札を発行。その一方で地坪制度を導入することによって農民負担の均質化を図り、課税法を検見方から定免法に改めることによって安定した年貢収入に成功した。文化面では俳諧ヲたしなみ、その交流に貢献。
 この頃はおおむね文化面において花開いた時代だった。

 五代松平定英時代には1732年に大飢饉が発生し、領民の餓死者は3,500名に上った。六代松平定喬時代には1741年に久万山農民騒動が勃発し八百八狸の怪奇談も語られた。
 八代松平定静時代は比較的安定していたものの、九代松平定国時代には1784年に松山城天守に落雷が起こり出火。沈下には成功したものの天守をはじめとした本壇が焼失した。
 十代松平定則は1805年に興徳館を設立して文武に励むことを奨励し、江戸藩邸には藩校三省館を設立。十一代松平定通もその遺志を受け継ぎ、文武両道の振興、士風の刷新、綱紀の粛正を目的とし興徳館に代えて1828年に明教館を創設し、本格的な藩学が誕生した。明教館には江戸の昌平黌で学んだ日下伯巌高橋復斎が教授として招かれ関学や武芸などが教えられ、こうした中で人材と用の道を大きく開き、明治維新に大きな影響を与える若者らが排出されていくことになる。
 定通は文化面に加えて殖産興業にも力を入れ、伊予結城の奨励や倹約厳行を推し進め、松山藩中興の祖として仰がれることになった。

 また、定通は天守焼失後37年が経った1820年4月、大普請奉行・小普請奉行を任じて松山城復興工事に着手。しかしながら着工16年目に定通の逝去と作業場の火災により頓挫。
 これを引き継いだのが十二代藩主松平勝善。1847年11月に小普請奉行小川九十郎を作事奉行に任じて城郭復興に着手。棟梁は坂本又左衛門と田中久左衛門。1848年2月に設計が完成し、5月に作業場が設けられ、材料の荒木拵えに取り掛かる。8月8日に本丸普請が開始され、1850年4月3日には上棟式が行われ、1852年12月20日、ようやく天守をはじめとした城郭が完成した。

 1853年にペリーが来航し、親藩であった松山藩は一貫して佐幕派としてのポジションを取り、禁門の変をきっかけに勃発した長州戦争には幕府軍の先鋒として出兵。1867年9月、家督を譲られた松平定昭は十四代藩主になると史上最年少に22歳にして老中に就任、1ヶ月後に大政奉還が行われ、自ら溜間詰上席と老中を辞職。
 1868年には鳥羽伏見の戦いが勃発し、松山藩は徳川慶喜に従ったとして朝敵とされ、1月に松山藩追討令が下される。松山藩は新政府方の雄藩・土佐藩山内家に占領されるも恭順の意を示し無血開城することとなる。その後、長州征伐による財政難の中15万両朝廷に献上し、藩主も定昭から14代藩主であった松平勝成を再勤させ赦される。その後、明治政府より源姓松平氏と葵紋を返上し、旧姓である菅原姓久松氏に復するようになった。

 松山藩追討令が下された際に、勝成・定昭父子は祝谷の常信寺に謹慎したが、その時に「赤心報国」の文字をしたため恭順の意を表した書が残っている。

 天守閣からの眺め。現存12天守の中でも江戸時代の最期の完全な城郭建築と言われている。

 天守閣にしては珍しく床の間がある。

 天守を一通り廻ったのでロープウェーで下山。ロープウェー駅の近くに近くにえひめ愛顔の観光物産館があり、みかんジュースが出てくる蛇口を発見した。

 あとおいしそうだったので真鯛を使ったチーズディップを買った。揚げ物とかのアクセントに良さそう。

 松山城を見学した後は天気が良かったので松山駅から予讃線に乗って海岸のすぐ近くに建つホームから海を見渡せるフォトジェニックなスポットとして有名な下灘駅に行ってみた。

下灘駅

 日本一海に近い駅。夏 (冬だけど)

 下灘駅から西に歩いていくと右手に奇麗な海を見ながら散策ができる。

 しもなだ運動公園には海に行く線路がある。

六時屋 道後店

 下灘駅から同後に戻る。一昨日は一六茶寮でタルトを食べたので今日は六時屋でタルトを食べる。

道後ミルクチーズケエキ

 同じく道後ハイカラ通りにある四国カルストの牛乳と愛媛県産のミカンで作ったチーズケーキ「丸ごとみかん」。

 これは道後で見かけた若い時の正岡子規の像。

4日目

 4日目は松山ゆかりのある俳人に関連する場所を巡ってみることにした。

河東碧梧桐誕生地

 俳人・河東碧梧桐が生まれた場所でもあり、父・河東静渓の住居跡。河東静渓は江戸時代に儒学者として昌平黌で学び、帰省後には藩校明教館の教授となった。1880年にはここに私塾・千舟学舎を開き正岡子規らの明治の若者の教育に尽力したという。
 碧梧桐は1873年2月26日にここで生まれる。高浜虚子とともに子規門の双璧とされる碧梧桐は中学生のころから俳句をはじめ、1889年の夏に野球を教わったことから子規と交流を持つようになっていった。

子規旧邸跡

 子規は生誕地から2歳の時にこの地に引っ越し、ここで17歳まで過ごした。

 旧邸跡の隣には式最初の歌碑が立っている。文字は『仰臥漫録』の本人筆跡を拡大したもの。

くれなゐの 梅散るなへに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ

正岡子規

 いたるところに俳人ゆかりの地の案内標識が出ているのでわかりやすい。

子規母堂令妹住居跡

子規誕生地跡

 1867年9月13日に子規が生まれた場所。生家は東西の道路の南側に竹の枯れ枝(オロ垣)を結い、垣の内にサンゴ樹の並んだ家であったという。

御所柿

 子規誕生地跡の隣にある、2017年に志岐生誕150周年を記念して奈良県御所市から寄贈された御所柿。1895年10月に志岐が夏目漱石と共に東京に出発し、その途中に奈良に立ち寄った際に「御所柿」を食べたことを随筆「くだもの」の中で書き記している。子規は果物が好物で特に柿を好んで食べたといわれており、柿を題材に様々な句を詠んでいる。

奈良の宿御所柿くへば鹿が鳴く
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
三千の俳句を閲し柿二つ

正岡子規

俳誌「ほととぎす」創刊の地

 柳原極堂によって1897年に俳誌「ほととぎす」が誕生。号を追うごとに全国でも注目を集めるようになり、正岡子規も「ほととぎすは余の生命なり」と記すほど大きな意味を持つ俳誌となった第20号をもって廃刊するも、その後は高浜虚子が子規の依頼により「ホトトギス」と改名して発刊し現代でも引き継がれている(現在は高浜虚子の曾孫・稲畑廣太郎が主宰)。

鮨 小椋 (鯛めし)

 昼食は愛媛の郷土ご飯としてまず第一に食べてみたかった鯛めしをいただく。鯛の刺身を醤油ベースのだし汁に絡ませご飯にのせて食べる漁師料理の一つ。うますぎ。あと十回は食べたい。

10FACTORY 松山本店

 ロープウェーがいにあるスタイリッシュな柑橘専門店でミカンジュースばかり売っているすごいお店。効きミカンジュースをやってみた。全部うまい。みかんビールやジェラートも売ってる。伊予柑ジュースと温州みかんのジュースとゼリーを買った。うますぎる。

秋山兄弟生誕地

 秋山好古・秋山眞之兄弟の生誕地。残念ながら中には入れなかった。

高浜虚子住居跡

 高浜虚子は1879年に京都のダイサン高校に入学するまではこの地に住んでいた。1891年5月、川東碧梧桐の紹介で子規を文通をするようになり、8月には子規は虚子宅を訪ねてここで句会を開いた。

あんから庵 (紅まどんなパフェ)

 これで松山旅行、ならびに3か月にわたる西日本旅行はおしまい。京都→大阪→神戸→養父→岡山→倉敷→山口→下関→福岡→壱岐→唐津→長崎→小浜→天草→熊本→由布院→大分→大洲→愛媛という行程となりました。

 というわけで特急に乗って岡山経由で新幹線に乗り替え実家の名古屋に帰る。無職なのでこれから転職活動もしなければいけないのでがんばります! それではまた次の旅で!!!

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