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「悲劇が好きな理由」

 悲劇が好きだというと、かなりの確率で「どうして?」って言われる。

 暗くてつらいお話の何がいいのだ。

 友人たちは口を揃えて不思議そうに言う。

 もちろん、作品個別で見ると悲しいテイストのお話でも、ストーリーが面白かったりして好きというのはある。だけど、「悲劇」というジャンルそのものが好きとは考えたことはないと友人たちは言う。

 悲しい話をわざわざ進んでは触れない。触れた物語がたまたま悲劇色が強くて結果としていい味を出している。基本「悲劇」は能動的にでなく、偶然的に触れる類のものかもしれない。

 気持ちはわかる。僕も基本は進んで悲しい物語に触れようとは思わない。しかし、時折、まるで引力に引き寄せられるように、悲しい題材の本や映画に触れたいと思う自分が出てくる。そして、物語が終わった時にいつも思い出す。僕の心に強く刻まれ、人生観や価値観に影響を与えてくれた物語のほとんどが「悲劇」であることを。

 だから僕は悲劇が好きだと言う。けれど、理由を問われると答えに窮する。

 涙を流すくらいに感動するから?

 それはあるが、それはあくまでも悲劇に触れた結果として起こる事象であって、何かに感動したいと思って悲劇を鑑賞しようと決めたことはない。

 涙を流したいから?

 それは少しあるかも知れない。

 涙を流したいのはどんな時なのかを考えてみた。それは、つらかったり悲しみに打ちひしがれている時だ。涙は心にこびり付いた膿を洗い流してくれる。洗い流されて爽快で力強い気持ちになれる。

 叫びたいと思って叫ぶときも似たような爽快感を感じるかもしれない。

 涙と叫び。共通するのは、感情の発露だ。

 悲劇に触れて、人は普段は表に出てこない感情を発露させることができる。泣いたり、(声に出さずとも)叫んだりして、悲劇の登場人物と自分自身の感情をない混ぜにして、爆発させる。

 泣き虫だった子供時代は毎日のようにそうやって泣いて叫んでいたのに、大人になって、社会生活で必要な理性を獲得すると、つらさや悲しみといった弱さを表す感情は知らず知らずの内に膿のように溜まるようになってしまって、いつしか汚れの溜まった排水管のように、流れが悪くなる。

 「悲劇」とは魂の洗濯だ。汚れと汚れがぶつかって、光に彩る色彩が汚れを跳ね除けて光り出す。悲しみや絶望を潜り抜けた魂は、汚れを知らなかったときよりも美しく、そして力強くなれると僕は信じている。

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