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ベトナムはカンボジアの解放者か、侵略者か?ASEAN巻き込むSNS炎上を巡って

インドシナ半島を巡る外交上の話題として(日本ではほぼゼロ)、ベトナムでは結構議論になったのが、シンガポールのリーシエンロン首相が「ベトナムのカンボジア侵略」という発言をフェイスブック上でしてしまったことによる国際プチ炎上です(外交上の大きな悪影響まで生んでいないので、とりあえず「プチ」と呼んでおきます)。経緯は筆者のツイートを見て頂きたいですが、発言自体が5月31日のもので、騒動ももう収まったのかなあと思った6月22日になっても、ベトナムのフック首相がリー首相との会談の席で直接発言を「批判」するなど、怒りが収まらない様子、少なくとも怒りが収まらない姿勢を見せています。これにはベトナムとカンボジアの微妙な隣人関係が影響していますところ、以下に背景を解説してみたいと思います。

そもそもこのSNSでの発言自体は、リー首相の、タイの元首相プレーム・ティンスーラーノン氏に対する哀悼メッセ―ジの中の一言で、「プレーム氏の率いたタイがASEAN原加盟国(タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5か国)の前線に立ち、カンボジアを侵略・占領したベトナムと、クメール・ルージュから政権を奪ったカンボジア政府に対抗した」と、彼の過去の功績を振り返る中で「侵略」という言葉を使ったことがきっかけです。ベトナムはそれに猛反発、カンボジア側も歴史的事実と異なると訂正を求めたとされ、シンガポール外務省は釈明に追われました。ベトナムネット民は同様に猛反発ではありましたが、カンボジア国民はこれをどう受け取ったのかは・・・、是非カンボジア事情に詳しい方にも聞いてみたいところです。

これは、ベトナム軍がポルポト掃討を掲げ、カンボジアに侵攻した1978年の軍事行動を指していますが、これ自体はポルポト派の非人道的政策に苦しむカンボジア人も「英雄として迎えた」という歴史的証言もあり、そこまでは確かに「解放者」として称賛される側面があったし、実際に当時の国際社会でもそういう見方もありました。ただ、その後ベトナム軍が長くカンボジアに駐留したことが、カンボジア人がみるベトナム人像を「解放者」から「侵略者」に変えてしまいました。その過程でカンボジア国民のベトナムへの好感度は低下し、多くのベトナム系住民もカンボジアに増える中、今に続くカンボジア在住ベトナム人の待遇に関する色々な問題にもつながります(例えばこちらのツイートなどで少し触れています)。ちなみに、このカンボジアへの軍事行動が、当時ポルポト派と密であった中国の怒りを買い、1979年の中越戦争を引き起こす原因にもなります。

その後、ベトナム軍駐留は1989年にまで続き、冷戦集結という世界情勢にも鑑み、ベトナム軍カンボジアから撤退することになります。因みにこの1989年というのは、ベトナム退役軍人会が12月に設立された年でもあります。大規模な海外派兵が終わって、退役軍人たちを組織的にどう処していくかという議論が高まっただろうことは、想像に難くないですね。

しかも今年2019年はそのカンボジア解放から40周年を迎えた記念すべき年になります。ポルポトからプノンペンを解放したとされる1月7日には40周年記念イベントが、ベトナム現政権、過去の指導者も呼んで厳かかつ盛大に行われたばかり。そんな祝勝ムードに水を差す発言は、ベトナムも外資誘致などでお世話になっているシンガポールとは言え許せない、となったわけです。

フェイスブックなどSNSの使い手として知られていた、イケてるデジタルおじさんという感じもあったリー首相も、少し足を滑らせた勇み足投稿が、こんな形で外交プチ炎上するとは夢にも思わなかったかもしれないですね。ともあれ、同じASEAN国同士とは言え、島しょ部東南アジアとインドシナ半島東南アジアとでは、少し「歴史問題」への敏感さ、ASEANの一体感醸成も簡単ではないといった側面が浮き彫りになりました。

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。