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日本の三国志展に行って考えた、ベトナムと三国志の意外な関係

本来は、ベトナム国内や周辺各国について書くのを「ハノイから旅行して考えたこと」には収録しようと思っていますが、今はハノイベースなので日本も旅行のようなもの。というわけで、今回は夏休みに帰国して観に行った、上野、国立博物館の「三国志展」に行って思ったこと、考えたことを記したいと思います。三国志ファンの方、そうでない方も、軽いタッチでお読み頂ければ嬉しいです。

ベトナムでも人気の三国志

っていうか、中国、日本では大変有名な三国志、ベトナム人は知っているのでしょうか?それが結構知っているのです。三国演義はもちろん既に、様々に訳されていますし、陳寿の正史「三国志」だって、ほら、きちんと訳されているのです。

現代ドラマはすっかり韓国の独壇場ですが、歴史ドラマでは韓国と並んで中国のものもよく観られていますし、国民感情などはあるにしてもやはりベトナムも(元をたどれば)漢字文化圏。三国志を好きになる素地は十分にあるわけです。三国志好きを狙っての「三国志テーマレストラン」もホーチミンにはあるそうで、いつか行ってみたいなあと思っているところです(まだつぶれていないことを祈っております)。

ベトナムも三国志の一部!?

しかも、ベトナムは単に三国志が好きなだけではなく、三国志の舞台の一つでもあるのです!というのも、現在のベトナム北部、当時交趾郡(ベトナム語でGiao Chỉ)と呼ばれた地域は、三国志の中にも出てくる豪族・士燮による支配をうけていた場所なのです。ちなみ「交趾」が後にこの地域がコーチシナ(英語 cochin china)と呼ばれる由来となったとされています。士燮さんのお墓と呼ばれる場所もベトナム北部Bac Ninh省にあり、筆者も随分前に一度訪れたことがあります。今度再度訪問してみないといけませんね。彼自身のベトナム文化への影響を評価する声はベトナムの歴史研究者にもあるそうで、そちらはまた稿を改めて書いてみたいと思います。

解説を読めば当時「山越」と呼ばれた人が住んでいたとか。やはり当時から「越」だったわけですねえ。何となく諸葛孔明の孟獲との戦いの「南蛮討伐」のイメージから、最初は蜀エリアかと思ったのですが、実は呉に属する地域。もちろん、三国志展では士燮も交趾もメインではないのですが(苦笑)、でも孫呉の海に広がるネットワークの例として触れられていて、ベトナムから三国志を愛する日本人としては、大変嬉しい限りでした(笑)。

更に進むと銅鼓の展示が。雲南省などで多く出土しているようですが、銅鼓はベトナム北部のドンソン文化でも特徴的な歴史文物とされていて、今でもベトナム北部の地方省などに行くと「これをお土産に!」と大きな銅鼓レプリカを頂くことがあります(ありがたいんですが、往々にしてデカい…)。三国時代の当時から、やはり陸続きで連なる文化の往来と類似性はあったわけですね。

その他、普通に楽しかった三国志展

そんなわけで、このnote的にはまずはベトナムとの繋がりを押し出して書いてみましたが、学生時代にハマった三国志に再びこういう形で触れたのは、嬉しくもあり、懐かしくもあり。

迫力ある関羽像(↑)、そして多く飾られていたNHK人形劇三国志の人形(↓)の迫力がもそれに負けぬものがあります。

ベタですが、やりが飛び交う部屋の写真も撮ってきました。迫力ありますねえ。その他も色々あったのですが、写真映えするのはこのあたりでしょうか。

今回展示の目玉である曹操のお墓、高陵からの出土品。写真にすると地味なのであまり出しませんが、2009年頃北京で働いていた際に出土報道が出て大騒ぎが始まったこの陵墓も、研究が進んでいるんだなあと時の流れの速さを感じます。

個人的に気に入ったのは以下の蜀漢の「お笑い芸人」。当時、こういったお笑いや真似事をして人々を楽しませる職業のことを「俳優」といったそう。現代中国ではその意味はないのですが、俳優はここからきている言葉なんですかねえ。三国志を読んでいると、もっとも国力が弱く、早くから危機に陥った蜀漢には緊迫感が印象深いのですが、三国の生活の様子を描く文物の中では蜀のものが最も楽しそう。やはり「天府の国」で、豊かな生活もあったんですかね。

あぁ、三国志の世界にまた改めてハマりそう。また頑張ってベトナム語三国志読破を目指そうかなあ!?

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。