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短編小説『天使の愛人』


1、宇宙なのか深海なのか判らない

人気俳優の窪田拓斗(30)が自殺した。
クリスマスの夜、ニューヨークのブルックリン橋から飛び降りたのだ。
衝撃的な出来事だったから、二ヶ月くらいはテレビや新聞で騒がれた。海外のニュースでも取り上げられた。
彼の死は、人びとの記憶にしっかりと刻みこまれた。
そういう意味では、予言通り……サンデー湯河の願いは叶ったわけである。
予言通り……?
いや、もしかしたら、あれは呪いだったのかも知れない。

事件から一週間後、
「葬式に来てください」
と拓斗のチーフマネージャーから電話があった。
「それは、不適切だと思うわ」
とわたしは答えた。
「あいつが本当に愛していたのは、もえぎさんだけなんですから」
「わたしは存在しない女なのよ」
もちろん、彼から愛されていた。わたしも彼を愛していた。けれども、そのことは永久に公になってはいけない。

結局、葬儀の日取りを告げられると、わたしは幾分かセンチメンタルな気分になってしまい、ウィスキーを少しだけ飲み、途中になっていたツルゲーネフの『初恋』をきっちりと十ページだけ読んだ。それから、ふと思いついて、目白にあるホテル石榴荘に電話をかけ、ガーデンスイートを予約した。
 
毎週水曜日の日暮れから夜明けまで、その美しい部屋がわたしたちの世界だった……そこでだけ、会える約束だったのだ。充分すぎる報酬を貰っていたから、彼以外の客をとらなかった。その関係は八年と六ヶ月続き、わたしは7800万円を手にして、さらに港区に2LDKの新築マンションとボルボのスポーツセダンを購入することが出来た。
 
葬儀の日、わたしはバーバリーの黒装束で有楽町線に乗った。拓斗と出逢ったころを思い出したくて、地下鉄を利用してみたかった。
江戸川橋駅の1a出口から出ると、空は鉛のような色で大粒の冷たい雨が降っていた。このところ、天気予報はよく外れる。傘を持っていなかった。簡単にタクシーはつかまりそうだったが、わたしはゆっくりと歩くことにした。濡れたって構わない。ホテル石榴荘までは、十二、三分の距離だった。
予約してあった部屋にチェックインした。
明かりを点けると、時間が何年も巻き戻されたような感覚になった。見慣れたクイーンサイズのベッド、マホガニーのテーブルや椅子、薄いグリーンの絨毯とカーテン、宇宙なのか深海なのか判らない青褪めた抽象絵画……タンジェリンの芳香剤の匂い。
熱いシャワーを浴びたあと、バスローブを羽織って、コーヒーメイカーのスイッチを入れた。すると、フロントから電話がかかってきた。
「もえぎ様宛の封筒をお預かりしております」
と支配人の女性が言った。
不思議だった。
このホテルに来ることは、誰にも知られていなかった。しかも、本名さえ伝えていないのだ。

 
2、一生モノの密かな勲章

窪田拓斗を紹介されたのは、十一年前の八月の終わりだった。彼は十九歳になったばかりで、わたしは四つ年上の二十三歳だった。
六本木の国立新美術館の近くの雑居ビルの二階に『アッサンブラージュ』というモデル事務所があり、わたしはそこと専属契約して、一週間に二日くらい働いていた。
働いていたといっても、雑誌や広告の仕事ではない。指定された時間に指定された高級ホテルへ向かい、クラブメンバーと呼ばれる客と関係を持ったのだ。
家庭の事情で中学しか卒業していなかったわたしが、毎月五十万円も稼いで、高知の母親に結構な額の仕送りをしていた。どんな仕事をしているのか、聞かれたことはなかった。たぶん、知りたくなかったのだろう。

ある熱帯夜、ホテル石榴荘のガーデンスイートに呼び出されると、そこには黒ぶちの伊達メガネをかけた、白いTシャツにジーンズの窪田拓斗がベッドに座っていた。

連続ドラマや映画を観ていたから、ひと目で分かった。特にファンではなかったが、大袈裟ではない演技と甘くて端正なマスクにわたしは好感を抱いていた。

「ぼくのこと、知っていますか?」
と拓斗が聞いた。
「もちろん」
とわたしは微笑んだ。
「恥ずかしいな」
「誰にも言わないわ」
「女の人と寝るの、はじめてなんです。覚えておきたいから、名前を教えてください」
「本名を知りたいの?」
「嫌じゃなければ……」
「平林もえぎ」

あの時、拓斗も本名を教えてくれたけれど、わたしは忘れてしまった。それは、日本人の名前ではなかった。

はじめてなのに、誰に習ったわけでもないのに、彼はお世辞抜きに上手だった。わたしの呼吸やら鼓動のリズムに合わせるように、丁寧に我慢強く動いて、どんどん高いところに連れていき、何度も急降下させてくれた。

……正直、その最中、わたしは仕事なのだということを忘れてしまっていた。

翌日、恵比寿のアトレの書店で、窪田拓斗の写真集を買った。『ミカエル』というタイトルで、ニューカレドニアのヌメアにあるビーチやリゾートホテルで撮影されていた。光と影の加減を巧みに計算してレタッチされた彼の美しく凛々しい表情は、確かに、大理石で彫られた大天使のようだった。

今でも時折思い出して急に嬉しくなり、胸が熱くなることがある。決して他人に話したりはしないけれど、わたしはあの窪田拓斗の最初の女なのだ…プロフィールを見て指名してくれたはずだから……そのことは、一生モノの密かな勲章だった。

3、どうしようもない、上が決めたことだ

あの晩から二週間、わたしは事務所からの依頼を断り続けた。心地よい、奇跡のような夢から醒めたくなかったから。
その月の仕送りが出来なくなったが…一生懸命に働いてきたのだ、これくらいは許されるだろう、と自分に言い聞かせた。
新宿三丁目で、窪田拓斗が主演の映画を上映していて、三回も観に行った。
芥川龍之介の『杜子春』を現代風にした作品で、
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
という最後のセリフが特に印象的だった。

三週間が過ぎ、遂に、わたしはディレクターの三浦さんから呼び出された。
「一方的で申し訳ないのだが…」
応接室のソファに座った巨漢の彼は、そこでチェリーコークの缶を開け、ひと口だけ飲んだ。派手な黄色いアロハシャツを着ていたが、中世のキリスト像みたいに憂鬱な表情をしていた。
「本日限りで、きみとの雇用契約を解除させてもらう。給与の未払金は現金清算。規定通り、退職金は出ない」
……わたしは驚いた。
「そんな……急に困ります」
「こちらだって困っている。大打撃さ。きみの固定客は少なくないのだからね」
「だったら、どうしてですか?長い休みをとったから?」
「そんなことは、なんでもないよ」
「重大な違反でもしたの?」
黙ったまま、彼は首を横に振った。
「お願いです、続けさせてください」
「どうしようもない、上が決めたことだ」
普通預金が百二十万円残っていたが、それくらい、すぐに無くなってしまうだろう。
代官山の十三万円の家賃は馬鹿にならないから、引っ越すべきかもしれない。母親からだって頼りにされている。すぐに新しい勤め先を探さなければ……新聞の求人欄にあるような、まともな仕事では無理だ。わたしなんかを雇ってくれるはずがないし……
『アッサンブラージュ』を斡旋してくれた蒲田の安田さんに電話をしてみたら、お父さんは刑務所に入っていますと小さな男の子に言われ、ぞっとしてしまった。

4、決して不利益な話ではありません

アドレス帳のAからFまでの番号にかけて、わたしは何処にもたどり着けないのだとすぐに理解した。そもそも、有力な人脈なんてなかった。
あのころは苦手だったのだ……いつか利用できるかもしれない……そんなふうに考えながら他人と付き合うことが。
毎日、何もする気が起こらなくて、誰にも会わなくて、十四時間くらいは睡眠をとった。食事もいい加減で、牛乳とあんパンばかりだった。
だから、ある晴れた日の午後、その長い銀髪をひとつに結んだハンサムな老人がアパートの旧式のドアベルを鳴らしたときも、もう三時だというのに……わたしは素っ裸でベッドの中にいたのだった。
「どちらさまですか?」
ロングのダンガリーシャツだけ着て、わたしは玄関から眠そうな顔を出した。
すると、彼はやさしい声で初めましてと言い、厚手の銀色の名刺をそっと差しだした。
……アルマーニの丸くて青いサングラス、シャネルの黒いTシャツ、砂漠色の麻の短パン、茶色い革のサンダルという格好だった。

サンデー・コミュニケーション株式会社
代表取締役社長
サンデー湯河

……そして、裏面には、
ー所属俳優ー
牧ミツル
窪田拓斗
篠沢あや(グループ業務提携)
と表記されてあった。

「平林もえぎさんだね。このあいだは、うちの拓斗が大変お世話になりました」
と彼は笑顔で握手を求めてきた。
「どうして、ここが?」
警戒して、わたしは握手を躊躇った。
「怖がらないで。きょうは、きみにビジネスの話があって来ました」
彼は慌てて手を引っ込め、短パンのポケットに入れた。
「理由はなんであれ……こういうの……すごく困ります」
わたしは抗議しながら、顔が赤くなった。
「申し訳ないが、きみのことを勝手に調べました。しかし、決して不利益な話ではありません。むしろ、喜んでもらえると思う。下にレクサスを待たせてあるから、とにかく着替えていらっしゃい。ドライブしながら、きちんと話しましょう」

昭和通りを走るレクサスの後部座席で、缶のペリエを飲みながら、サンデー湯河は信じられないようなことを語った。
……白いスーツを着た四十歳くらいの美人の運転手は、無表情なままでひと言も声を発さなかった。
「月額100万円(秘密厳守)で、きみと紙の契約書無しの契約を結びたいのです。契約期間は、お互いが同意出来ている限り続ける。
毎週水曜日の日暮れから夜明けまで、ホテル石榴荘の同じ部屋に通って、拓斗の相手をしてほしい……もちろん、拓斗が行けないこともあるし、きみだってやむを得ない事情があるだろう。その時は、チーフマネージャーと連絡を取りあってください。
それから、さっきのアパートは引き払い、汐留にある事務所名義のタワーマンションに引っ越してほしい。きっと気にいるはず。43階の最上階、90平米の3LDK、共用スペースには屋内プールやトレーニングジム、ライブラリーもある。領収書さえ提出してくれれば、家賃や光熱費、家具、諸経費はこちらですべて負担します」

5、時計が止まり、時間が蘇ったかのように

その年の十月から、わたしは汐留のタワーマンションのペントハウスにひとりで住み、水曜日だけ、ホテル石榴荘に宿泊するようになった。
……あまりの幸運にめまいがした。
北欧の家具をそろえ、セールで洋服を買わなくなり、流行りの美容院やエステに通い、自動車の免許を取得して、黒いミニクーパーをリースした。驚いたことに、本当にすべて、事務所の経費で処理してもらえた。
ある意味において、わたしの生活は健全になった。
料理教室で自炊をおぼえ、共用スペースの屋内プールで何時間も泳いだり、トレーニングマシーンで汗をかいた。そして、ライブラリーにある世界文学の新訳本…トルストイ、モーム、ヘッセ、フォークナーを順番に読んでいった……中学生のころからやってみたかったことだった。
 
そして、窪田拓斗と再会した。
もえぎさん、と彼はわたしを本名で呼んだ。いつも、優しく甘えるような言いかたで、たまらなく心地良かった。一応、ニーナという仕事用の名前があったのだけれど。
「どうして、わたしなの?」
はじめのころ、そう訊ねてみたことがあった。
「あれから、他にも大勢と寝たんです。だけど、もえぎさんしか考えられなかった。あなたは特別だったから……それで社長に頼んで、贅沢な我が儘を通してもらいました」
と彼は答えてくれた。
「ありがとう、とても光栄だわ。だけど、毎週会っていたら、さすがに飽きてしまうでしょう」
「飽きませんよ。一度気にいったら、ずっと好きな性格なんです」
「ねぇ、拓斗くん、この部屋で出来ることは何だってやってあげる……だから、遠慮しないでね」
「それなら、もえぎさんがして欲しいことも教えてください。そうすれば、二人で充実した時間を過ごせます」
……いつだったか、本当の生い立ちについて、拓斗は語ってくれた。それは、オフィシャルに発表されている華やかな内容とはまったく違っていて、暗く悲しく、秘密めいていた。わたしは自分の過去と重ね合わせてしまい、似た者同士なのかも知れないと思った。

やがて、わたしは別の次元に生きているみたいだと感じるようになった。
この世界から隔絶され、一時間は一時間でなくなり、一ヶ月は一ヶ月ではなかった。時間の流れかたが、完全におかしくなってしまっていた。
……時計が止まり、時間が蘇ったかのように。
理由は明らかだった。それは、拓斗に恋してしまったからである。
何がきっかけでそうなったのか、今となっては思い出せない。もしかしたら、出逢ったとき、すでにわたしは堕ちていたのかもしれない。
しかし、どれだけ好きになっても、天国のように優しく扱ってもらえても、彼は恋人ではあり得なかった……正真正銘のお客様だったから。

6、それは、生きていくための手段だもの

三年目の十二月十七日、水曜日の夜のことは忘れられそうにない。
昼過ぎから降り始めた大雪が、東京を真っ白に覆ってしまった。
いつもより少し遅く、午後七時ごろ、二十二歳の窪田拓斗は、二十六歳のわたしが待つガーデンスイートにやってきた。
部屋にはしっかりと暖房が効いていたが、彼はモンクレールの黒いダウンコートやわたしがプレゼントしたラルフローレンの手袋を脱ごうともせず、ベッドの上でうつ伏せに寝転がって、じっと動かなくなった。
「なにかあったの?」
とわたしは訊ねた。
「なんでもありません」
と彼は答えた。
わたしは冷蔵庫からサンペルグリーノの炭酸水を出して、モナンの苺シロップ割りを作ってあげた。それは、彼のお気に入りだった。
「仕事のこと?」
「イブの夜、一緒に過ごせなくなりました」
そう言って、彼はやっとコートと手袋を脱ぎ、グラスを口にした。
「仕事なら仕方ないわ」
「仕事なんかじゃない」
彼は、空になったグラスをナイトスタンドの横に乱暴に置いた。
……ガラス窓の向こう側は、ひどい吹雪になっていた。
「社長から、久しぶりに声がかかったんです」
と彼は告白した。
「事務所のパーティー?」
とわたしは聞いた。
悲しげな目を閉じて、彼は首を横に振った。
「十四歳の夏、博多のキャナルシティでスカウトされてこの世界に入りました。それ以来、ぼくは社長の愛人(ラ・マン)の一人なんです。あのひとは少年が好きだから、指名される回数はだんだん減ったんだけど……断れない自分が情けなくて」
わたしは、三年前に会ったきりのハンサムで清潔感のある老人の顔を思い浮かべた。

……サンデー・コミュニケーション株式会社
     代表取締役社長  サンデー湯河

「全然、情けなくないわ。それは、生きていくための手段だもの。そうやって、あなたは今の自分を手に入れた。何かを得たら何かを失う……人生なんて、そういうものよ」
とわたしは言った。
「ぼくを軽蔑しませんか?」
「そんな、まさか……拓斗くんは、わたしが知っている誰よりも頑張っているし、世の中から必要とされている。心から尊敬しているわ。誰にも言えないけれど、あなたはわたしの誇りなのよ」
「社長から呼ばれる度、ぼくは本気で死にたくなります。以前は、マリファナの力を借りて、なんとか我慢できてたけど、近ごろは……いつだって、もえぎさんのことが頭に浮かんでしまって……なんだか、ひどい裏切りをしてるみたいで……窒息しそうなんです」
「ありがとう。そんなふうに思ってくれて……嬉しいわ。でも、忘れないで。わたしも社長に雇われている身なのよ」
「そうでした……そもそも、もえぎさんはお金のために……ぼくと……」
……本当はそうじゃないのよ、とわたしは心が破れてしまいそうだった。けれども、それではすべてが矛盾してしまう。
「大晦日は会えるのかしら?」
無理に明るく、わたしは訊ねた。
「今年は、紅白歌合戦にゲスト出演するんです。もえぎさんの席も用意できるから、ぜひNHKホールへ見に来てください」
わたしの気持ちを察してか、彼も明るく答えてくれた。

7、何が起きて、何が起こらなかったのか……

わたしたちは、水曜日を目標にして生きていたと言えるかもしれない。
一週間で何が起きて、何が起こらなかったのか……互いに楽しく報告し合うため、前向きで充実した日々をめざした。
ふたりに倦怠期はなく、何年も何年も、情熱的なセックスが続けられた。
……a perfect pair ですね、と拓斗は微笑んだ。
ある年には、拓斗の出演した大河ドラマが、リビングルームのテレビに繰り返し映しだされることがあった。鬼気迫る、幕末の薩摩藩の志士を演じていた。
……そんな彼が、わたしの裸の背中に夢中でキスをしているのは、なんだか可笑しかった。
ある日、拓斗から、自分の記事を読んでほしいと話題の映画雑誌の最新号を渡されたこともあった。
それは、彼へのロング・インタヴューで、赤いペンで線を引かれた箇所には、初恋の相手の名前が……平林もえぎという文学好きの年上の女性だった……と書かれてあった。
「これくらい、許してくれますか?」
と彼が遠慮がちに聞いた。
「許してあげる」
と答えながら、わたしは頬を赤くした。
また、脚本を読んで意見を聞かせてください、と拓斗から頼まれたこともあった。
『芥川龍之介物語』という作品で、松竹が製作予定の伝記映画だった。映画『杜子春』の女性監督が、再びメガフォンをとる。
もちろん、拓斗には主人公の芥川役のオファーが来ていた。興味深い企画だと彼は思っていたが、芥川は神経衰弱で睡眠薬を飲んで自殺してしまうので……イメージが悪い……とサンデー湯河は反対していた。
わたしは、芥川龍之介をぜひ演じて欲しいと拓斗に伝えた。脚本も感動的だったが、どういうわけか、この役は彼にしか出来ないという予感があったのだ。
社長を説得してみます、と彼は言った。
結果、翌年の秋に公開されたその映画はロングランの大ヒットとなり、日本アカデミー賞で彼は主演男優賞を受賞した。
もえぎさんのおかげです、とブロンズ像を見せてくれた日のことは忘れられない。

8、悪魔が、わたしをじっと見ていた

晴れても雨が降っても、火曜日の朝は、拓斗から勧められた古い映画のDVDをひとりで鑑賞した。わたしたちは不思議なくらい趣味があったので、それはわくわくするような宿題だった。
そんな穏やかな火曜日の午前十一時、あのサンデー湯河が水色のスーツ姿で汐留のマンションにやってきた。
……カトリーヌ・ドヌーブが、数奇な運命に翻弄される令嬢を演じる映画を観ているところだった。
「明日で契約を満了します」
わたしが出したダージリンティーを飲みながら、八年前と同じ…長い銀髪をひとつに結んだハンサムな老人は言った。
「分かりました」
とわたしは答えた。
平気なわけがなかった。
声がふるえ、心臓が潰れてしまいそうだった。
しかし、約束は約束だった……お互いが同意しないと契約は続かない。
「来月末まで、ここにいても構いません。引っ越し費用は、こちらが負担します」
「ありがとうございます」
やはり、わたしの目からたくさん涙がこぼれた。
「八年と六ヶ月か……思ったより、ずいぶん長く続いたものだ。きみは何歳になりましたか?」
「もうすぐ、三十一歳になります」
「金は貯まりましたか?」
「おかげさまで」
「病気のお母様にも、充分に仕送りが出来ましたね」
「二年前、母は亡くなりました」
「そうでしたか……知らなかった」
「最後に、きみにお願いしたいことがあります」
と老人が静かに続けた。
そして、イルビゾンテのブリーフケースから社名の印刷された小切手を一枚取り出して、テーブルの上に置いた。
……金額は五百万円、わたし宛になっていた。
「これは謝礼です」
悪魔が、わたしをじっと見ていた。
「何をすればいいのでしょうか?」
わたしは、ぞっとしながら聞いた。
「明日、きみから、きみの意思で契約を解約すると伝えて欲しいのです。解約の理由は説明する必要ありません。拓斗も大人になったから、詮索したりしないでしょう」
「どうして、わたしから?」
「拓斗が、心から納得するためです」
「心から納得するため?」
右手の中指にはめた大きなダイヤモンドの指輪をいじりながら、老人はこんなことを語った。
……オズワルド中西というタロットカードの占い師が、ニューオリンズにいます。時折、事務所の方針を相談しているのですが…数年間、拓斗を休ませ、ニューヨークに留学させるべきだと助言をもらいました。
そうすることで、日本国民の記憶に永久に残る俳優になれるというのです。
運気が変わる前にと……拓斗にすぐ勧めたのですが、気乗りしないと断られました。断られるなんて、初めてでした。それだけ、きみと離れるのが嫌なのです。
……きみの拓斗への思いだって、もちろん承知しています。
しかしあくまでも、わたしたちの関係はビジネスだ。純粋なビジネス以外のことは一切考慮するべきではない。
理解してもらえますね?

9、はじめての詩

今夜で最後にしたいと伝えたとき、拓斗は優しくほほ笑んで、
「もえぎさんを忘れません」
と言った。
……なにもかも、知っていたのかもしれない。
わたしたちは、ルイ・ロデレールのシャンパンで乾杯してから、三十九度の湯を張って、一緒にバスタブに入り、体をぴったりと密着させた。ひと言も話さず、ただじっとしていた。
やがて、わたしは声を出さずに泣いた。
わたしが泣き止むのを待ってから、風呂から上がり、
「これを見てください」
と彼は一冊の週刊誌を出した。
サンデー湯河に関するスクープ記事が載っていた。
 ……事務所社長は、所属する俳優たちに同性愛行為を強要している。被害者の中には、人気俳優の窪田拓斗も含まれており、未成年の頃から関係は続いているとみられる。
「ニューヨークに雲隠れさせられるんですよ」
 彼が言った。
「地球の裏側ね」
「ねぇ、ぼくたち、向こうで会えませんか?契約とか難しいことはなしで……ふつうの男と女として」
「外国には興味がないの。わたし、飛行機も嫌いだし……パスポートだって持っていない」
「本当に?」
「本当よ」
「終わりなんですね」
「終わりなの」
「もし、今夜、ぼくが一緒に死にたいと言ったら、そうしてくれますか?」
と彼が訊ねた。
「もちろん」
とわたしは答えた。
「そうできたなら、どれだけ幸せだろうな……」
「そう思う」
「ある映画で、こんなセリフがありました…愛するひとの美しさが音楽と春風に溶け、一瞬、世界が完璧になった。私は、それが永遠に続くことを祈った……」
そう言って、彼はわたしを背中から抱きしめた。
「わたしたちも祈りましょう」
とわたしが言った。
……そして、言葉は失われた。
……それから何日かが過ぎ、わたしは拓斗を思って、はじめての詩を書いた。
 
 
透明な青い空の下で

たとえばですよ、
あのひとが野球をするとして、
わたしはどうするか?
お弁当をつくって、
球場に持っていきます。
声がかれるくらいに応援します。
透明な青い空の下で。
 
たとえばですよ、
あの人がサーフィンをするとして、
わたしはどうするか?
お弁当をつくって、
ビーチに持っていきます。
全身、こんがり日焼けします。
透明な青い空の下で。
 
たとえばですよ、
だから、たとえばなんですよ。
透明な青い空の下で。
 
 
エピローグ、

もえぎさんへ……とボールペンで書かれたそのベージュ色の封筒は、ホテルの女性支配人によってわたしの部屋へ届けられた。
彼女の顔には見覚えがあった。五十代前半、目鼻立ちのはっきりした美しいひとで……西洋人の血が流れているのかもしれなかった。
「最後に滞在された日、寝室のナイトテーブルの上に置いてありました。登録された電話番号が通じず、お名前だけしか存じ上げなかったので、こちらからは連絡のしようがなかったのです」


平林もえぎさん
再び、あなたに会うことは叶わないでしょう。近い将来、おそらく数年のうちに、ぼくは死ぬことになっています。約束してしまったのだから、仕方ありません。だけど、そんな自由のきかないぼくにだって、決められることがあります。それは、誰に遺産を相続するかです。ずいぶんと働き、平均的な会社員の生涯年収くらいは稼ぎました。どうか、あなたに受け取ってほしい。弁護士に相談して、法的な手続きは済ませました。連絡先の名刺を同封しておきます。

窪田拓斗


その手紙を三回読みかえして、わたしは弁護士の名刺と共に同封されてあった、一枚の色褪せた写真を見た。
……坊主頭の学生服姿の中学生が、音楽室のピアノの椅子に座っていた。何処にでもいる、田舎の普通の少年という感じだった。
しかし、それが拓斗なのだと、わたしにはすぐに分かった。すっかり顔は違っていたけれど、なんとも優しい……あの独特の目元だけは同じだったから。
そうして、わたしは、働くことと無縁の人間になることが出来た。貧しかった子供のころに抱いた夢の通りに。
同時に、欲しいものや、やりたいことが何も無くなってしまった。
それでも、なるべく規則正しく、健全な生活を心がけている。
「きみは幸せか?」
と誰かに質問されたら、分かりません……としか答えられないと思う。
もしかしたら、金持ちになるというのは、そういうことなのかもしれない。


(了)
『天使の愛人』

 イラスト/ノーコピーライトガール


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