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短編小説『或る魔女の告白』


その1、
 
 
深夜、ぼくの美しい女優の妻はCMの撮影から帰ってきて、スタジオでなにも食べなかったの、なにか作ってくれるかしら、と言った。
 
そういえば、グリュエールがあったな。賞味期限の短いシュレッドしたものが。
 
ぼくは風呂から出たばかりだったので、吸水性にすぐれた薄手のタオルで頭髪を拭きながら、チーズオムレツでも食べるかい?カボチャのスープもあるけど、と聞いた。
 
妻が食べたいと答えたので、両方?と確かめた。
 
ほほ笑み、妻はうなずいた。機嫌が悪いわけではなさそうだ。今夜なら、あの話をしてもいいかもしれない。
 
 
キッチンに入り、冷蔵庫から食材を出して、チーズオムレツを作ってあげる。たまごをボウルに落とし、菜箸でかき混ぜ、小さめのフライパンを中火にかけた。手際良く、丁寧に、愛情をこめて。
 
あっという間に完成して、純白のプレートに乗せた。完璧な美しいフォルムで、合羽橋の食品サンプルのようだ。スープはマグカップに注いで、電子レンジで温めた。
 
さぁ、召し上がれ。
 
ダイニング・テーブルで妻と向きあい、ぼくはカフェオレを飲む。
 
ありがとう、と妻は言い、フォークだけを使いながら、とても優雅に料理を食べ始めた。
 
いっそのこと、会社を辞めようかと思っているんだ、しばらくして、ぼくはそう言った。
 
人事には相談してみたの?と妻が聞いた。
 
いいや、たとえパワハラで訴えても、その上司は注意を受けるくらいで、居づらくなるだけだから、とぼくは答えた。
 
…泣き寝入りするのは情けないが、あの豪快な上司の存在感を考えたら、こちらが身を引くより仕方ないだろう。
 
しばらく妻はなにも言わず、表情も変えず、チーズオムレツを食べ、カボチャのスープも飲みほした。
 
ご馳走さま。すごく美味しかった。妻はナプキンで口もとを拭うと、ぼくのカフェオレにも手を伸ばした。そして、ゆっくりと飲んだ。
 
ねぇ…辞めてもいいかな?すぐに転職するからさ、待ちきれず、ぼくは訊ねた。返事をしてくれないから、気持ちがそわそわした。
 
つまり、その男が死ねばいいのよね。病気とか事故とかで。そうすれば、あなたは辞めなくてすむ、と妻が言い、猫のような瞳でぼくをじっと見た。
 
そうだね。あんな嫌な奴、本当に死んでしまえばいいと思う。ぼく以外にも、苦しめられている社員は少なくない、とぼくは答えた。
 
…だが、そんな都合の良い奇跡が起こるはずがない。あいつは、健康診断の結果がオールAだったことを得意がっていたっけ。
 
 
あなたらしくないわ。
 
最低の人間なんだ。
 
心から憎んでいるのね。
 
憎んでいる。
 
本当にそうなら、そこまで言うなら、なんとかしてあげられるかもしれない。いいえ、わたしに任せてちょうだい。その男の持ち物を何か手に入れられるかしら?ハンカチとか、名刺だとか、なんだっていいのよ、と妻は言った。
 
 
おいおい、まじないでもかけるつもりかい?とぼくは驚きの声をあげた。
 
妻は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見える曖昧な表情で、こんなことを言った。
 
あなたは信じないかもしれないけれど、過去に何度か、わたしはまじないをかけたことがあるの。罪悪感を感じて、ずいぶん悩んだこともあった。でも、そのことで、わたしは救われたわけだし、けっして後悔はしていないつもりよ。
 
 
さすが、きみは女優だ。一瞬、信じそうになった、とぼくは笑ったが、妻はそれが違うのよ、と首を横に振った。
 
 
 
その2、
 
 
最初、その力の存在に気付いたのは…十歳の時だったわ。
 
夕方、学校から帰って、母の部屋の三面鏡を覗いていたら、鏡の一枚に髪の毛も眉毛もない無毛の少女がわたしと同じ制服を着て映っていたの。一瞬だけだったけれど、あれは間違いなく、もう一人のわたしだった。
 
それから十四歳になると、すっかり忘れていたその無毛の少女が夢に何度も現れるようになった。
 
いつだって晴れた日の川辺をなにも喋らず、ふたりで散歩する夢だった。
 
美しいモンシロチョウが、たくさん飛んでいた。
 
なぜかしら、わたしは自分が神に選ばれた特別な人間であるように感じたのよ。
 
 
その夢を見た日は、食べ物がからだを汚すような気がして水しか飲めなかった。他人との会話も極力避けた。やはり、心が汚されるような気がしたから。
 
…わたしは違う。ほかの凡人たちとは違うのだ、という思いは次第に強くなっていった。
 
 
今では、わたしは自分の意思で、ほぼ確実に無毛の少女の夢を見ることが出来る。すると、なんの根拠もないのに絶対の自信が湧いてきて、どんな大物俳優が相手でも難しい役柄でも大胆に演じられるの。
 
神から見守られているのだから、どんなことだってやれるのだという、万能感に包まれてね。
 
わたしの成功は、夢の少女のおかげなのよ。
 
 
 
高校一年の時、『テス』というイギリス映画をボーイフレンドと一緒に観たわ。ナスターシャ・キンスキーというドイツ人が主演で、彼女の存在感に圧倒されて、わたしは女優になろうと決心したの。
 
あの力で、なれる…という確信があった。
 
 
翌日、すぐに演劇部に入部して、文化祭でやるハムレットのオフィーリア役を希望したのだけど、受け入れられるはずがなかった。先輩たちから生意気だといじめられた。
 
その頃、わたしは演技についてなにも知らなかったわ。でも、誰よりもうまくやれる自信があった。実際、一晩ですべてのセリフを覚えることが出来たのよ。
 
もちろん、あの夢の力だった。
 
 
結局、演劇部の部長がオフィーリアを演じることになった。
 
その二年生の部長というのは、有名温泉旅館のひとり娘だった。将来、女将になると決まっていた。正直、わたしよりもずっと美人で、真っ白な肌と真っ直ぐな黒髪が日本人形のようだった。彼女は常に甘えるような舌足らずで話したけれど、なぜか、みんなに頼られて慕われていた。そのうえ、学業も優秀で教師たちからも特別扱いされているように見えた。
 
わたしは彼女を見かける度、不愉快になり、死んでしまえばいいのに、と思っていたわ。
 
 
 
そうして、あの夢の中で散歩しながら、無毛の少女が初めて言葉を発した。
 
わたしの声にそっくりだったわ。
 
…死んでしまえばいい、と。
 
 
たった一言だったけれど、なぜか、わたしには理解出来た。
 
あれは、演劇部の部長のことだったの。
 
 
その翌朝、温泉旅館のひとり娘は逝ってしまった。誰もいない、広い露天風呂で溺れ死んでいるのを発見されたの。
 
 
 
その3、
 
翌年、わたしは演劇部の部長になっていた。ブレヒトの演劇論やストラスバーグのメソッド演技法に全身全霊で取り組んで、ほかの部員たちからは天才と呼ばれた。
 
顧問の先生が、東京の舞台制作に強い芸能事務所の社長に紹介してくれて、所属オーディションを受けることも決まった。
 
本物の女優になるというのは、もはや夢ではなく、現実的な目標だったわ。
 
 
 
そのころ、わたしの唯一の悩みは父親だった。父はうだつの上がらない会社員で、若いころから小説家になるのが夢だったのだけれど、長年、文学賞に応募を続けて落選を繰り返すうちに鬱病を患い、以降はただの飲んだくれになってしまった。
 
毎晩、会社の経費で飲み歩き、深夜遅くに帰宅した。付き合いも仕事のうちだと言い訳していたが、わたしも母も人間嫌いの父がひとりぼっちで飲んでいることを知っていた。
 
 
わたしが、高校卒業後は女優をめざして上京したいと言うと父は猛反対した。地元の公立大学か短大に通って、卒業後は結婚するか地元企業に就職することを望んでいたの。自分は映画ファンのくせに、女優業は人前で他人とキスをしたり、裸で抱き合ったりする下品な職業だと強く否定した。
 
そして、どうしても東京に行くのなら、一切の経済援助はしないと脅すのだった。
 
 
どっちみち、我が家はそんなに裕福ではなかったので、最初から仕送りなんか当てにしていなかったわ。時給の良い夜のアルバイトでもしながら、なんとか、わたしはやっていけると考えていたの。
 
 
ある日、母がいつもの落ち着いた、おっとりとした調子で言った。
 
ねぇ、お母さんはお父さんと離婚しようと思うのよ、近ごろ、暴力をふるうから。弁護士にも相談してる。あなたはお母さんと一緒に出て行くわよね?
 
その話を聞いて、わたしはぞっとした。
 
離婚なんかしたら、専業主婦の母がひとりで食べていけるはずがない。あの男から貰える慰謝料なんて高が知れているだろう。つまり、わたしも母と共に働きに出て、ふたりでこの田舎で暮らさなければならなくなる。
 
上京して女優になる計画が台無しになってしまうのだ。
 
いっそ、今のうち、あんな父親なんか肝臓ガンにでもなって死んでもらい、まとまった保険金が入ればいいのに、わたしは本気でそう願った。
 
 
そうして、あの夢の中で散歩しながら、無毛の少女が二度目の言葉を発した。
 
わたしの声にそっくりだったわ。
 
…死んでしまえばいい、と。
 
たった一言だったけれど、なぜか、わたしには理解出来た。
 
あれは父のことだったの。
 
 
晴れた日の朝、突風のせいで、通勤中の父の頭上から三メートルもある赤い鉄骨が落ちてきた。もちろん即死だった。父には何の過失もない。高層マンションの建築現場の横の歩道を歩いていただけ。
 
全国ニュースで報じられ、誰もが運が悪いとしか思えない、大手の建築会社は管理責任を問われ、遺族には莫大な慰謝料を払わされるだろうと考えた。
 
そして、その通りになったの。
 
 
 
その4、
 
 
保険金がおりてから、わたしたちは駅前の新築マンションへ引っ越した。
 
いつまでも母が開けないダンボール箱が、ひとつだけあったわ。そこには父の書いた原稿が詰まっていたの。どの作品も本人と母、そして娘のわたしをモデルにして書いた私小説だったらしい。
 
これだけはどうしても捨てられなくてね…あんなロクデナシだったけれども、若いころは、夢を語る希望に溢れたロマンチストだったのよ、と母は少しだけ涙をこぼした。
 
胸が苦しくなった。やっと、何をしでかしたのかを理解したからだった…わたしは、実の父親をまじないで殺してしまった。
 
そして、気付いた。
 
わたしを選んだのは、神なんかじゃない。
 
邪悪な、闇に潜む存在なのだ。
 
こんな力を使うことが許されるはずがなかった。
 
…あぁ、わたしは憑かれてしまった。
 
誰も、信じてはくれないだろうけれど。
 
 
ふたりの人間を殺めてしまったという罪悪感よりも、自分の中に今も魔物が巣食っているのだと考えることのほうが怖ろしくて、苦しくて、悲しかった。
 
これからも、わたしは気に入らない人間を葬り続けるのだろうか?
 
 
その朝、わたしは学校に行かず、図書館の椅子にずっと座っていた。サガンの『悲しみよこんにちは』を読もうとしたけれど、一行も頭に入ってこなかった。
 
このままでは壊れてしまう…誰かに話さなければ。わたしは遂に決心して、なにもかも母に話すことにしたのよ。正気を疑われるだろうと覚悟した上で。
 
ところが、母は驚かなかった。
 
黙って、わたしの話を聞いた後で、そっくり同じことが、お母さんにも起こったのですよ、と話し始めたの。
 
…五人目が死んでから、お母さんも深く悩むようになった。結局、お婆ちゃんに打ち明けたわ。お婆ちゃんはすべてを知っていて、こう教えてくれた…
 
それは血筋で受け継ぐ力なの。もし、あなたがその力を本当に必要としないのなら、平凡な人生を選びたいのなら、夢の少女を川に突き落としてしまいなさい、と。
 
そうして、お母さんはその通りにしたわ。
 
夢の中で…それっきり、無毛の少女が現れることはなかった。
 
その日から、何処にでもいる、ごく普通のつまらない女になってしまったのよ。
 
 
その5、
 
そこまで話して、ぼくの美しい女優の妻はゆっくりと席を立った。
 
それから、まるで、羽虫かなにかが飛んでいるのを追うように、ベニスのガラス細工みたいな瞳で部屋の中をぐるりと見渡し、ぼくの存在を無視して寝室へ歩いていく。
 
壁の時計を見ると、一時四十七分だった。
 
本当に静かな夜だ。
 
五十五分になるまで、そこでじっとしていた。
 
なぜか、疲れは感じなかった。
 
…素晴らしい即興演技だったな、とぼくは思う。
 
インプロヴァイゼーション。台本もないのに…妻は作家の才能があるのかもしれない。
 
…たいしたものだ。
 
寝室へ入っていくと、妻がベッドに座って、すすり泣いていた。
 
これも演技の一部だろうか?
 
それとも、現実の彼女として泣いているのだろうか?
 
ときおり熱中し過ぎて、妻はその役柄から抜け出せなくなることがある。ひどい時は何時間でも、眠りに就くまで続くのだ。
 
仕方ないな、ぼくは覚悟を決める。
 
…物分かりの良い夫と、彼女のオーディエンスの両方を演じてみよう。
 
出来る限り、素人なりに。
 
ぼくはベッドに上がり、妻を背中からやんわりと抱きしめる。
 
朝が来れば、妻に憑いている空想は消えてしまう。
 
それまでの辛抱だ。
 
ぼくは女優と結婚したのだから。
 
…夢の少女を川に突き落とすことは出来なかった、と妻が続ける。
 
あの万能感を失ったら、わたしはやっていけるはずがなかった。凡人として生きるなんて、耐えられない。どうしても、女優になりたかったの。そのためには、人間の大切な何かを犠牲にする必要があった。そうして、あの夢の中で、散歩しながら、無毛の少女が三度目の言葉を発した。わたしの声にそっくりだったわ。…死んでしまえばいい、と。たった一言だったけれど、なぜか、わたしには理解出来た。あれは、母のことだったの。
 
それで、きみは若くして、天涯孤独になってしまったのだね、とぼくは言った。
 
我ながら、見事な演技だった。
 
そうなのよと妻は頷いて、ぼくのシャツを使って涙を拭ってから、急に微笑んだ。
 
どんなふうに母が死んだのか、あなたは知りたくない?
 
自殺じゃないね。保険金が貰えないから。
 
そう、自殺じゃなかったわ。
 
分からないな。想像もつかない。
 
 
ふふっ。裏の倉庫街が大火事になって、マンションが全焼したのよ。他にも、たくさんの人たちが死んだわ。
 
関係のない人たちが?
 
そう、巻き添えを食った…凡人たちが。
 
ひどい話だ。
 
 
誰もが事故だと信じたのよ。
 
 
妻は、ぼくの両方の手を握った。氷みたいに冷たかった。
 
ねぇ、なんとかして、わたしがその嫌な部長さんに会うことは出来ないかしら?そうしたほうが、確実だと思うの。
 
…なんと答えたらいいのか、分からなかった。
 
はたして殺したいほど、ぼくはあの部長を憎んでいるだろうか?
 
今、決めなくてもいいのよ。あなたには、そういう選択肢があるってことを知っておいて欲しかっただけ、妻はそう呟いて目を閉じた。
 
ぼくたちは、ベッドに寝転がった。
 
ふたりを眠気が襲った。
 
川の底に沈んでいくようだった。
 
まだパジャマに着替えていないし、歯だって磨いていないというのに。

 

The End
或る魔女の告白

 
 イラスト/ノーコピーライトガール
 

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