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発達障害 転ぶ 転び倒す

子どもは転ぶ

社会人になって、精神的に転ぶ、転び続けて、泥だらけになり、擦り傷に擦り傷を重ねて、感染症にかかってしまうんじゃないかと思うぐらいに、
発達障害的要素を持っていると社会に溶け込むのが難しいと感じてしまう

しかし、実際に肉体は転んでいない

この矛盾に苦しむ感じもあるかもしれない

どういうことなのか。。。

実際に転ぶ

幼児が歩いている姿を見ていると転びそうになり、そして転ぶことを目にする。
そして立ち上がるまでにしばらく間がある。痛かったのか、何が起こったのか、「転ぶ」というできごとと、そして「結果」として転んで地面が近くにあることや体に痛みが出るまでに時間がある。

この間は不思議な時間である。周り側としても声をかけたらいいのか、何を感じているのか、泣き始めるのか、我慢をしようとするのか、立ち上がるのか、次にどんな行動をするのか、親は固唾を飲んで見守っている。

ときとして、傷つける言葉をさらにかける親もいるから、状況はさらなる混乱を生みかねないが

社会性で転ぶ

発達障害に限らずだが、社会に出てコミュニケーションや業務の進めるときなどに転び倒すことがある。

さらには転んだつもりがないのに傷ができていることも多々ある。

転んで何が起こったかわからないのに、新たに転げ落ちて、転んだことを忘れパニックをなる。社会のコミュニケーションの中でよく起こる。

立ち上がったら転ぶ、立ち上がって一歩踏み出したら転ぶ。頑張って一歩積み出したら穴があいてたことを忘れて落ちることもある。

そしてメンタル的な怪我として、適応障害やうつ病や回避性パーソナリティ障害的な傾向になってしまう。

転ぶことを再体験する

柔道で受け身の稽古をしたことがある。受け身の稽古の意味がよくわからなかったが、転ぶことがどれだけ全身に負担がかかるか、年を重ねるとよくわかってくる。
転んで立ち上がるまでに体がかたかったり、手や肩が動かしにくかったり、体を起こすのに自分の体が重すぎたり。

子どもは転んだときからだが軽いからすぐ立ち上がれる。でも、幼児は立ち上がるまでの間、一定の時間がある。転んだときに色々感じているのかもしれない、すぐに立ち上がらない理由はここにあるのかもしれない。周りは立ち上がるまでゆっくり見守ること、処理されていくのを見つめることが大事なのではないかと思う。

倒れこむ

話はちょっと変わるが、疲れたときにベッドに倒れこむ。青空が広がる原っぱで大事の時に寝転がる。これも転んでいることと同じ経験と言っていいのではないか。
ベッドに倒れこみ、何かを感じている。身体も心と疲弊しきって、すべてを投げ捨てる。自分の身体さえも投げ捨てる。でも、何かを処理しているのか、何かを捨てているのか、何かのときを待っているかのような感覚。そしてどのタイミングかわからないが立ち上がってくる。

幼少期の思い出

転んだときに周りから何を言われただろうか?
待ってくれただろうか?
見守ってくれていただろうか?
それとも、急かされただろうか?
バカにされただろうか?

転んでなにかを感じる時間がもっとあってもよかったのではないか?

転ぶことは悪いことなのか、どんくさいことなのか

転ぶことが悪いことではない。
転ぶことは経験である。
怪我することも経験である。
そこになの評価もいらない。
転んだことを感じ、地面が目の前にあることを感じ、擦れた手や膝の違和感を感じ、
やがて立ち上がり、また進む、
ただの経過しかないのである

周りは立ち上がるまでの時間を与え、状況を処理するためのサポートだけである。
一緒に転んで、何が起こったのか、いまどんな状態なのかを共有するだけである。

やがて立ち上がる。

どんな小さな子供も転んでそのまま転んだままということはないと思う。時間をかけてやがて立ち上がり自分の足で歩き始める。(もしかしたら、永遠とぐずり続けるパターンはあるのかもしれないが。。。)

転ぶ練習

ベッドに倒れこむでもよい、仕事に疲れたと言ってソファにドガっとすわるのでもよい、一度重力に従って、転び切ろう。
そしてすべての力を抜ききって、何もしないと決断をする。
そしてすべてのことを捨てる。
手に持ってるものも全部捨てる。

そのまま眠ってもよい。

しかしやがてやってくる。
立ち上がるつもりもないのに立ち上がり始める。立ち上がりたくないのに立ち上がり始めるときがやってくる。それに従って立ち上がろう。

どんなにメンタルがやられても、どこかで体は知っている。
だからやることはただ一つ、転んで脱力して何もしないと決め、すべて捨て去って次がくるのをまつことである。

あとは勝手に立ち上がってくるのをまつ。たとえ立ち上がりたくないようと思っても立ち上がってくるのを待つ。そして立ち上がれないなら、もうそのまま寝続けよう。それが体の声である。

次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。