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客観的評価の高みから コペルニクス的転回2.0

Instagramをみて、
SNSに触れて
人の理想の高さはどこまでも高くなっていく


その高さにだれも追い付けないが、具体的事実と客観的事実がSNSにあり、そこへたどり着けないわけがないと無意識に思い始める。

できないかもと言う可能性を排除し、目の前に現れる動画やコメントに信頼性を感じ、いつの間にか自分もできると思い、新たな可能性への道が開いていく

と思う、が、

足元をみて自分をみて、手元にあるスマホのなかに理想はあるのに、自分の足で歩く道のりは遥かとおくにその理想があることに気づき、ややもすると別世界ではないか、
そもそもSNSの人たちは特殊な能力を持っていることや、ややもすると自分には歩く脚すらないのではないか、話す口すらないのではないか、人の気持ちを理解する能力もないのではないかと気になり、全く今の自分の足もとから、理想にいくには道が繋がっていないことに気づくことがある。
方法は色々あるが、あまりに理想が手元にあるのに、足を動かさない3メートルのものでさえ取れなく、足がないもにとっては例え3メートルでも気が遠くなるのに、理想は遥か彼方である。

客観的事実とはそういう冷たさがある。足がない、読み書きする能力がない、集中力がない、ないないずくしである
どうやって行くのか?

客観的事実の世界は人にやる気を無くさせる

どんなに事実を重ねてもできない事実ばかりが多い。

だったらどうするのか

自分の喜びは自分の中にある。

どんなにSNSをみて、それになりたいと言ったところで、その人にはなれない
でもそれを評価する価値基準が自分の中にある

だったら客観的事実に向かうのではなく、主観的喜びに向かう方が近道であり、道と言うよりはすでにあるのだ。

あとは時間をかけて、喜びを形にしていけばいい

どうやって?
自分の価値基準があるのだから、それにしたがって色々やればいい
手を動かせばいい、
どんなことも今、ここで自分が感じていることをフルに感じて、生きていけばいい。

ただそれだけだ。
そしたら客観的事実に踊らされなくていい。
自身の喜びが感じることをする、
自身が感じていることをフルに感じればいい
嫌なことはいや、辛いことは辛い、
それがすべてであり、それが自分の価値基準を明確になり、そして価値基準の火が強く燃えるのだ。

だから客観的事実を追い求めるのではなく、

何気ない一言で喜ぶ自分を大事にすることが自分の喜びがあることに気づき、そとに表現していく力になるのだ

男前になって!
隣のおばちゃんに言われて、なんかくすぐったいような気持ちになることが喜びである
客観的事実に従って、髪を整えたりすることではない、なんか嬉しいという主観的事実がすべてである

コペルニクス的転回のように、科学的事実ではなく、まじない的事実、自分の感じ、はたまた勘違いが人生のすべてあるということである
20世紀の科学の客観的事実から個人による主観的事実へさらなる飛躍に向けて
コペルニクス的転回2.0を迎えよう

次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。