見出し画像

聖なる証


聖なる証という中世カルト物

1862年。ひとりの英国人看護師が、アイルランドの人里離れた村へやってくる。その目的は少し変わったものだった。ある少女を診てほしいということで、現地で詳細な事情を知る。その少女はもう何ヶ月も一切食事をしていないというのだった。それでも生き延びているので、一部では奇跡的な現象だと噂され、訪問客も後を絶たない状態だった。看護師はその症状を見守りつつ、本当にそんな奇跡が存在しているのかを探るが…。

感想と解説(ネタバレあり)

なぜ映画のセットを見せたのか

映画のセットを映画の中で見せるという、中々度肝を抜く演出があった。
一番最初のシーンと一番最後のシーン、
それから、途中でキティがカメラ目線で見る人に語りかける場面もあった。
これはつまり、第四の壁を飛び越え、メタ視点を観客に提示したというわけだが
ここで重要なのは「外」と「中」というポイント。

アナが途中でウィルにお土産としてもらった
クルクル回転して簡単なパラパラ漫画になるソーマトロープ、鳥が籠の中にいる面と、外に出ている面があって、それが絶え間なく変わっていく。
娯楽がないアナも気に入り、「中」「外」とずっと呟いていた。

ソーマトロープ

そこでお気づきだと思いますが、

映画のセットの裏側=物語の外=観察者側(観客)
vs
映画のセットの中=物語の中=エリザベス側

という対比と

奇跡を信じない側=信仰の外=観察者側(エリザベスやウィル側)
vs
奇跡や地獄を信じる側=信仰の中=アナや村の人たち側


という対比が相似関係にありリンクしている。

それであるからこそ、
キティが第四の壁を超えてこちらに語りかけてきたように、
エリザベスも奇跡側に一瞬引きずられそうになる。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている、みたいに。

もう一つ重要なのは、映画の中のロジックは、私たちの現実とは全く違うロジックに担保されていてそもそも別次元なので、映画の世界は我々にとって不可侵であるし、我々のロジックによって映画を書き換えることがない。

同じように、観察者としてのエリザベスは、信仰に生きるアナや村人たちのロジックを理解も書き換えることもできない、そもそも見えている世界が全く異なっている。

ウィルも元村人ではあるが、村のロジックから離れジャーナリストという観察者としてロジックの外から覗き見をするに過ぎなかった。

観察、覗き見は映画のお家芸

観察と覗き見、映画それ自体が観る側にとっては他人の人生を覗き見する娯楽である。視線はコチラ→アチラの一方通行で、支配的である。

当然昔から監督たちはそれに自覚的で、観客の覗き見とリンクするように、登場人物たちも覗き見をさせる。

ヒッチコックの「裏窓」から始まり、最近で言うとエイミーアダムスの「the girl in the window」など、例を挙げればキリがない。

見ることは暴力である

一方的に見ること、盗撮すること、窃視すること、される側はなすがままに逃れる術は切断、暗転、死以外あり得ない。
聖なる証においても、そのことように描かれている。

ということで
聖なる証という映画は、そんな単なる狂信もの映画を超えている。単に「喪失した物にしかわからない孤独」とか「抑圧的で迷信的な社会の犠牲者としての可哀想な少女を救う物語」であるということ以上に
見ると見られる、ウチの論理とソトの論理の構造、その不可侵性、その互換性の無さというテーマを非常にわかりやすく描きている。

とはいえ、ストーリー自体も良いし、何より映像が美しい。大変満足した一本でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?