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『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 2/2

(極度の神経衰弱に抗いながら執筆したため、読者に対して大変不親切な文章になってしまっていることをお許しください。)

罪と罰 ー性と死の寓話

『神曲』は間違いなく、映画史上最も感動的に『罪と罰』を映像化した映画の一つである。『罪と罰』という小説の倫理的・宗教的な厳格さの中にある美しさを、原作がそうであるように禁欲的な主題を欲望に忠実な形で表現し、同時に小説とは違う仕方で、つまり映画だけができ得る仕方で提示してみせたからである。また旧約及び新約聖書、ニーチェ、ジョゼ・レジオ、そしてドストエフスキーが雑然と引用されまくるこの映画の中で、最も見る者の心を動かしてやまないのがマリア・ド・メディロス ー『パルプ・フィクション』にも出演しているー がソーニャ、ミゲル・ギレルムがラスコーリニコフをそれぞれ演じる『罪と罰』の再現シーンなのである。

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これらの事実は文学の映像化に関する問題のある種の答えを提示してもいる。ドストエフスキーが天才的に記述した二人の会話を、映画のカメラはどう撮るべきかという商業映画誕生以来の根本的な問題に対して、オリヴェイラは太々しくも繊細なショットの連鎖によって答えてみせるからだ。

マリア・ジョアン・ピリスの演奏するピアノ曲をバックに、ラスコーリニコフが大広間にやって来ると彼は赤いソファに座るソーニャに向かって話しかける。ソーニャはソファとほとんど同じ色の上下を着て、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらラスコーリニコフに言葉を返す。感情に任せてこぶしを顔の前に持ってきたり、顔をしかめたりするソーニャとは対照的に、ラスコーリニコフは冷淡な態度で自らの考えを述べていく。感情に対して誠実に、様々な表情の声で相手に語りかけるソーニャと、もう後戻りはできないとあらゆる悲劇的な未来を覚悟したラスコーリニコフの落ち着き払った、しかし切実な声色が鮮やかなコントラストを描いて見るものの心に迫って来る。

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しかしながらこの時、映画が映し出す時間と空間を最も美しいものにしているのは、紛れもなくこれ以上ないほどの的確なタイミングで挿入される、二人の男女をそれぞれ捉えたクロースアップの存在に他ならない。ー顔を手で覆うソーニャの、ーソーニャに対して背を向けたりまた彼女を見つめたりするラスコーリニコフの、ー聖書を読み上げるソーニャのクロースアップは、主対象・副対象共に完璧な照明を当て完璧な大きさで顔を画面に収めた完璧なショットである。ソーニャに背を向け、張り詰めた表情で語るラスコーリニコフのショットは、一大メロドラマかあるいはミステリー映画のクライマックスシーンのようでさえある。

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またこのシークエンスの途中に挟まれる、ソファに置かれた聖書のクロースアップの存在も忘れ難い。その存在がその存在の根拠になるという究極の存在証明を持った存在が、その存在的な無意味性を持っていながら同時にただ他の存在のために存在せんとする時、言い換えれば完璧に無意味なものが同時に完璧に有意味なものである時、その「もの」が最も美しいものとなるように、ただ美しいショットとして存在するショットが同時にその映画の物語を語るための有意味なショットとして存在する時、そのショットは最も美しいショットとなりそのショットの集合は最も美しい映画となる。そして『神曲』のこのシークエンスはまさにそういった、最も美しいシークエンスに他ならない。

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しかしこの『罪と罰』のシーンの素晴らしさは、カメラの力のみによって作り出されたものでは断じてない。映画というものの運動原理を把握している数少ない映画作家の一人であるオリヴェイラは、映画にだけ存在することのできる世にも美しい人間たちのことを知っている。映画に「リアルであること」を求めることは、「現実」がいかに映画的な存在から遠いものであるかを知らないということと同義である。もちろん、そこに「面白い現実」があれば ー例えばヤクザ映画の「リアル」ー その現実をそのままカメラに収めさえすれば映画は傑作になるだろう。しかし現実はそう簡単に面白くはならない。その時に「フィクションのリアリティ」が必要になる。『神曲』に登場する人間たちは皆、劇的存在者である。フィクションのリアリティにのみその生を与えられた存在なのである。『カニバイシュ』や『私の場合』のときとは打って変わって、『神曲』のオリヴェイラは登場人物の狂気的な行動に申し訳程度の説明をつける。「精神を病める人々の家」、冒頭に挿入されるこの看板のショットによって、これから登場する人間たちはみな精神病者であるということが理解できるのであるが、しかしそんな設定もこの映画にとっては単なる理由づけでしかない。とにかく『神曲』の人間たちは無声映画の喜劇役者のように、驚けば目を見開き、喜べば口角をこれでもかと上げる。この映画が感動的なのはカメラがどのように人々を捉えるかという問題以前に、人々がどのように存在しているかという問題に多くを負っているのである。後期オリヴェイラのミューズであるレオノール・シルヴェイラが演じる聖女テレサが哲学者に襲われたとき、一時は男を受け入れそうになりながらも目線の先にあった十字架によって我を取り戻した彼女は哲学者を突き飛ばし、窓から飛び降りて部屋から脱出する。

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映画の終盤で屋敷の中に真っ白な鳩が入ってきたとき、「聖霊よ」と言って祈り出したかと思えば額に鳩のフンを落とされた哲学者を見て無邪気に笑う。この、イヴとして犯した罪を贖罪するために聖女テレサと名乗り出した女の一挙手一投足の美しさを見てしまえば、この映画でオリヴェイラが施した演出を逐一説明する必要がないということは一目瞭然だろう。『神曲』という映画は ーあらゆるオリヴェイラ作品がそうであるようにー 人間が動いたり何かを話したり、カメラが動いたりカットが切り替わるだけで、つまりは時間が進むだけで見る者を感動させることのできる映画に他ならないのである。

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しかしここまで述べてきた事柄を鑑みても、『罪と罰』のシークエンスの圧倒的な感動を説明しきれてはいないような気がする。ソーニャとラスコーリニコフによる長いシーンには、オリヴェイラの演出上の才能以上の何か大きな美しさの根源があるように思えるのである。果たしてそれは一体何か。

この映画の『罪と罰』の再演について考えるとき、『罪と罰』という作品が潜在的に持っているある種の神話性の問題にたどり着く。『神曲』が感動的なのは『罪と罰』の持つ ーあらゆる芸術の中で最も高貴であるが、しかし非現代的なー 美しさを、現代映画の中に導入し得ているからではないか。人を殺した貧しく孤独な学生が、貧しさから娼婦となりながらも美しい心を持った娘と出会い贖罪するという至極単純な物語が、なぜ私たちの心を動かしてやまないのか。それはこの「至極単純な物語」が、潜在的に持っている神話性にあるのである。ジョルジュ・バタイユはこう言う。

原則として、人間の態度はこの運動(弱肉強食的な自然本来の運動)への拒否だ。人間は、自分を運んでいくこの運動にもはや従うまいと刃向かった。だがかえって、そのようにしてこの運動を加速させることしかできなかった。この運動の速さをめまいがするほどのものにすることしかできなかった。もし本質的な禁止のなかに、生き生きとした力の濫用としての自然、無化の狂騒としての自然に対する人間の拒絶を見るならば、私たちはもはや死と性活動のあいだに相違を設けることができなくなる。性活動と死は、自然が無数でつきることのない存在たちとおこなう祝祭の強烈な瞬間にほかならない。すべての存在の特性である存続への欲求に抗って自然がおこなう無際限の浪費という意味を、性活動も持つのである。(バタイユ『エロティシズム』p.99-100)

人間は自らを文明的で知性的な存在たらんとして、その動物的な性質を拒否した。しかしこのことによって、人間はかえって動物的な運動の中に巻き込まれてしまうのだとバタイユは言う。人間が動物的な性質を捨てようとすればするほど、人間が絶対に捨てることのできない動物的な側面である「死」と「性行為」の存在によって、人間はより動物的になってしまうのである。そのために人間は、「死」と「性」にまつわる事柄をことさら忌避し、日常から遠ざけようとした。さらにバタイユは、宗教とはそのように普段忌避されているものに対する魅力が、「聖なるもの」と言う形で解放された瞬間であると付け加える。『罪と罰』の主人公たちは、男が人を殺し、女が体を売るという人間の本能的な禁忌を犯している。しかもそれは、知性と善良な家族を持った男による殺人であり、純朴さと高貴さを持った女による身売りに他ならない。禁忌の存在によって人間の生物的な本能が解放される宗教と同じように、『罪と罰』の物語は殺人によって男の知性と幸福が、売春によって女の純粋さと美しさが解放されるのである。その時、物語は他の主題を扱った物語よりも人の心を強く打つ。そしてそれは、宗教的なまでの切実さを生み出すとともに、人間の尊厳や本質といったものに迫ったかのような錯覚を与える。『罪と罰』とは性と死の寓話であり、それはあらゆる物語の中で最も切実で最も劇的な主題に他ならないのである。

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