ポストは動かないからだ
今でこそ手紙を出すことは減ったけれど、時たまポストを使う機会がある。そんなとき、いつも困るのが、次のようなことだ。
「ポストがいい位置にない」
わざわざ、手紙を出すためだけに通りの向こうにあるポストまで歩くことが耐えられない。手紙を出すなら、駅に向かうついでの通り道にたまたまポストがあったから入れる、ぐらいでありたい。
だから、手紙を出す必要があるときは、手紙を持って、出先のちょうどいいところ、つまり、元から行く道の途上にポストがあることを期待する。
しかし、ないのだ、ちょうどいい位置に、ポストが。
いつもそうなのだ。だいたいあいつらは向こう側の道に立っていたり、目的地の数十メートル先に立っていたりする。
記憶は不思議なもので、ポストが必要ない時には、それがちょうどいい位置にあったように記憶しているのだけれど、なぜか必要になったとき、その記憶の中のポストは消失している。
つまり、こう考えられる。
「ポストの位置は変わる」
私たちが必要な時に、ポストは移動する。それで、それぞれのユーザーにとって、ちょうど良くない場所に移動する。その移動の仕方もいやらしくて、もういっそものすごく遠くに行ってくれればこちらも諦めるのだが、微妙に行くのがめんどくさいところ、それこそ先ほども言った「通りの向こう側」だとか、「目的地の36メートル先」だとか、そういった「人間にとって行けなくはないが、わざわざ手紙を出すのはめんどくさいところ」にやつらは移動してやがる。
こう書いてきて、最初はポストがいい位置にないことへの小さな愚痴を記そうと思っていたのだが、だんだんとポストに対して腹立ちにも近しい感情を抱くようになってきた。
そもそも、なぜ、我々がポストの方へ行かなければならないのか。ポストこそ、我々の方へ来るべきではないのか。
手紙を出す人が減って久しいとされる昨今である。そもそも、そんな時代に手紙を出す殊勝な人々に対してポストは感謝すべきである。そして感謝をしているならば、それは行動で示してもらわなければならぬ。だから、ポストが私たちのところへ来るべきなのだ。もっというなら粗品などを添えて来てもらっても良い。それぐらいであるべきだ。
だが、実際にはポストはやって来ない。なぜなら、ポストは動かないからだ。
ひどく、ばかな結論になった。ただ残ったのはポストに対する腹立たしさだけである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?