見出し画像

1985年の中国の話①

私が初めて中国へ行ったのは、1985年の冬、当時高校3年生、バレーボールの親善試合のためにチームで中国に招待された。
「招待された」といってもただではなく、数十万円、たしか20万円くらいの負担は親にしてもらったと記憶している。

今のように簡単に中国へ行ける時代ではなかった。
高校の社会科の先生からは「うらやましいなあ俺も生きているうちに中国へ行きたいものだ」と言われたのを記憶している。

でもはっきり言って、さほどうれしくなかったし、行くまではどちらかというと憂鬱ですらあった。
なにせそれまでに聞かされていた中国の噂は「トイレに仕切りがない」とか「4本足のものは何でも食う」とろくなものではなかった。
実際に飛び立つ当日は北京の天候不良のため、出発が一日延びたのだが、
心の中では「このまま無くなってもいいか・・・」とおもったものだ。

そして到着

とにかく、入国に時間がかかった。
北京の空港の審査ゲート近くで半日以上は待たされた。
「なんてこった・・・」
夕方には到着予定だったホテルについたのは深夜、そこからパーティー会場のレストランへ・・・
これだけ遅れていたにもかかわらず、大勢の中国人関係者は、笑顔で私たちを迎えてくれた。
通訳は当時「北京大学で日本語を学ぶ学生」数人が交代制で担当してくれたが、
彼らも「日本人を見るのは初めて」といって私たちの訪中を喜んでくれた。

パーティーでは古めかしいジャケットとパンタロン姿の「おばさん」がアコーディオンをバックに歌い始めた。


画像1


この女性歌手は中国では大変有名な方で
通訳の彼曰く日本では「美空ひばり」さんのような存在だといっていたが、それを聞いた大人たちはみんな笑っていたので、たぶん彼は日本の歌手で「美空ひばり」さん以外の名前は知らないのだろう。
この辺りは昔も今も少し適当なところはある。

私は当時、「小泉今日子」だの「中森明菜」などのアイドルを歌手だと思ってみていたものだから、このギャップが少し面白かった。

ウォークマンにくぎ付け

その後も彼らは、入れ代わり立ち代わり通訳をしてくれたが、
彼らは共通して、私たち日本人高校生のほぼ全員が耳に付けていた「イヤホン」そしてその先の「ウォークマン」を見る目が鋭かった。
それは何をしているんだ?」と聞く彼の耳にイヤホンを入れてやるとビックリ!彼は大感激していた。
これはどうしたら手に入るんだ?」と聞く彼に
普通に電気屋に売ってる」と答えてやった。
「なんて進んだ国なんだ!」というような驚きのまなざしで私を見返した後、機体に描かれている「SONY」の文字を指さして「何と読む?」と言ってきたので、「ソニー」というと、「うーん」と首をひねっていた。
北京大学といえば中国で最高の大学、こんな秀才たちにも他国の文化はまだあまり入ってきていなかったのだろうか、それとも彼が特別なのか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?