論文と評論のサイト「indiscipline」

呉智英を批評家として評価するポモサイト 痴的な恥的な遊び場 おもに映画と音楽の評論を投…

論文と評論のサイト「indiscipline」

呉智英を批評家として評価するポモサイト 痴的な恥的な遊び場 おもに映画と音楽の評論を投稿やっぱり自民党がサイコー!!!

最近の記事

蓮實重彦の保守主義

執筆 茂野介里 あまり、こういう読み方をする人間はいないと思うし、おそらく蓮實自身も嫌な顔をするだろう解釈だが、ある意味、彼は保守主義者だと言える。まずこの場合の「保守主義」は、第一に新しいものよりも慣れ親しんだものを肯定する哲学であると定義できる。この定義はイギリスの哲学者マイケル・オークショットに依拠するものである。 二つ目の定義として出てくるのは、それは近代社会が成熟した状態でしか出てこない思想であり、近代社会が始まった頃では封建主義にしかなりえないという定義である。

    • 「読めない作品など存在しない」ーこの同人の宣言としてー

      読めない作品など存在はしない。人々はなにも考えずに「難解」であると語っている。そして、多くの「フィクション」が読まれない形でこの世界から消えていく。この現実を還元するならば、人類と呼ばれる種族に該当する動物たちはフィクションに嫌悪感を覚えているという判断を下さざるをえないだろう。果たして消えているのだろうか。 否、消えてはいない。ただ消えたのは、人類という曖昧なリアリティだけだ。 「虚構」すなわちフィクションは、人類を愛していない。個々の作品に不可能な愛を捧げる人間だけであ

      • 仁義なきポストモダン

        執筆 茂野介里 本論考は、ニューアカデミズムの代表的な人物と言われている浅田彰と中沢新一を中心とし、上野千鶴子、田中康夫、糸井重里と言った、当時活躍した、著述家から見た80年代に関する論考である。 まず始めにセゾン文化の論説から始めたいと思う。 それは矛盾を孕んだ文化戦略ではあった。大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる。 これは、1999年のvoice3月号に搭載された浅田彰氏の「セゾン文化を

        • 【文芸、音楽批評】大槻ケンヂの変遷 「私」の不在と「私小説」(前編)

          大槻ケンヂの変遷 「私」の不在と「私小説」 執筆者:航路 通(@satodex) 先にすこし自分のことについて書きたいと思う。 大槻ケンヂについて話したいという欲求が以前からずっとあった。だけれど、僕が大槻ケンヂについて何を言っても、何を書いても、何かしらウソになるようなそんな気がしていて書くのがためらわれていた。なぜなら、大槻ケンヂというミュージシャンは多くの人間の人生を狂わせていて、僕もその狂わされた一人に違いないからだ。 以前も批評を書いたように、プログレなど、

          J・J・エイブラムスの速度に賭けろ!

           執筆者:ジョン・グッドさん  とにかく楽しい映画が見たい――そんなあなたは今すぐJ・J・エイブラムスの映画を見るべきだ。この文章を読み終わったら今すぐゲオとかツタヤに走ろう。大学なんか行ってる場合じゃない。会社には火を放とう。上司を燃やそう。今すぐ家に引きこもろう。天国はそこにあります。J・J・エイブラムスとは何者なのか。製作・脚本・テレビドラマと、とにかくなんでもやる人だけど、監督映画は今のところ5作。今からでもすぐ追いつけるはずです。  ――『M:i:III』(2

          J・J・エイブラムスの速度に賭けろ!

          『シン・ゴジラ』の「遅延」

          執筆 茂野介里 『シン・ゴジラ』は「怪獣映画」ではないです。怪獣を前提とする世界を描く物語という点で、今作は、怪獣を前提としていない世界に怪獣が出てくる物語なのです。このプロット自体は本多監督の『サンダ対ガイラ』という東宝の映画からの引用で、シン・ゴジラは劇中で呼称が決まり、それをメディアが流すまでの時系列を書いているわけです。この点で怪獣映画とは言えません。いうまでも無く本多監督は、ゴジラの生みの親であり、本多監督以前には怪獣映画という枠組みは存在しえなかった。怪獣映画と

          『シン・ゴジラ』の「遅延」

          【音楽評】『ディシプリン』キング・クリムゾン(後編)

          執筆者:航路 通 こんばんは、航路通(@satodex)です。引き続きキング・クリムゾンの批評をやっていきます。 さて、前回、プログレッシブ・ロック成立の過程をお話しました。 思い出してもらうために一曲どうぞ。11分あります。しかしこれも鍛錬(ディシプリン)です。 King Crimson - Starless メロトロンの物悲しいフレーズの上に、この世の終わりのようなバイオリンのフレーズが乗り、ジョン・ウェットンのダンディな声で「星のない、聖書のような暗黒」と歌わ

          【音楽評】『ディシプリン』キング・クリムゾン(後編)

          【音楽評】『ディシプリン』キング・クリムゾン(前編)

          執筆者:航路 通 こんばんは、航路通(@satodex)です。ここではこの名前でやってきます。 今回は初めての音楽批評ということで、僕の敬愛するバンド、キング・クリムゾンについて書きますね。 さて名前だけなら、ジョジョのおかげでやたらと有名なクリムゾンですが、いわゆるプログレッシヴ・ロックのバンドとして知られています。 音楽と言うのは非常にジャンル分けに対する依存度が高いというか、棲み分けがなされているジャンルでして、聴いたことがない人はまったく聴いたことがないかもし

          【音楽評】『ディシプリン』キング・クリムゾン(前編)

          【映画評】ガルシアの首

          執筆者 茂野介里 ドン・シーゲルの一番弟子にしてアメリカンニューシネマを代表する監督と言われているサム・ペキンパー。今回取り上げるのは、彼の作品であり、特に北野武監督に影響を与えた『ガルシアの首』であります。本作は、中年男が主人公。親友であるガルシアの首に賞金がかけられる。その首を探しに、愛人と、もう死んでいるガルシアの墓を掘りにいくというお話。 本作の特徴的な点はスローモーションとクロスカッティングにあります。ペキンパーの暴力描写は、暴力でありながらも叙情性がある。これ