見出し画像

さくっとヒッピーについてまとめてみた。

ヒッピーとは何者なのか。

ヒッピーは1960年代半ば、アメリカのサンフランシスコを中心に当時のアメリカの体制に反する文化、’’カウンターカルチャー’’として登場した。(※厳密にいえば、1950年代にヒッピーの前史となる ’’ビート・ジェネレーション’’の存在があるが、ここでは割愛)

1960年代のアメリカはまさに、激動と変化の時代であった。ケネディの暗殺事件やベトナム戦争、黒人たちによる公民権運動など、アメリカ社会全体が混乱と矛盾を抱えるようになり、これに伴い、体制に対して大衆運動が各地で頻繁に起こるようになった。特にベトナム戦争と公民権運動に関しては、若い世代を中心に運動が行われ、反戦デモ(シット・イン)や人種差別反対の大行進(フリーダム・マーチ)などが行われた。これらの運動が後に彼らの文化やライフスタイルにも浸透していき、カウンターカルチャーが誕生した。

若い世代は手始めに、既存のアメリカの大人社会からの離脱を提唱した。ここでいうアメリカの大人社会とは、定職につき、適齢期で結婚し、マイホームと自動車を持つために働くという、市民権をもった文化のことを示す。しかし若い世代は、この文化は白人が黒人を利用することで生まれる文化だと見抜き、彼らはアメリカの大人社会を抜け出し、新しいライフスタイルを求める、ヒッピーとして今後登場することとなる。

改めてヒッピーとは何者なのであろうか。

実はヒッピーたちは中流階級出身が多い。そのため、ほとんどのヒッピーがお金や食事に困るということはなかった。お金は両親からもらい、食事は「ディカーズ」と呼ばれる奉仕団体が公園などで給食をしていたので、そちらを利用していた。

彼らは基本的にはやさしい性格の人が多い。社会・政治問題などの知識はさほど持ち合わせていなく、彼らはもっぱらうわさ話や自分たちの好きなことについて話していた。彼らの一日は、昼から始まる。食事は玄米と塩とふりかけ。そして意外に思われるかもしれないが、ヒッピーたちの多くは毎日シャワーを浴び、衣服もきちんとしている。*1 食事を済ませた後、アルバイトがあるものは仕事にでかけ、仕事がないものは読書をしたり、ギターを弾いたり、詩を書いたりとなんとなく日中を過ごす。夜になると、彼らはオープン・ハウスと呼ばれる家に集まり、マリファナを吸ってくつろいだ。マリファナ以外にも彼らはロックを聴いたり、瞑想、ダンス、フリー・ラブなどして朝まで過ごした。オープン・ハウスでは、彼らは男女問わず、お互いが一人の人間として関わり合うことができ、この瞬間こそが彼らの生きがいであった。

*1 ヒッピーの身だしなみについては、彼らは従来のアメリカ的スタイルから離脱したため、西欧文明にはないものを求め、インディアンやインドの文化を積極的に取り入れた。

彼らヒッピーが追い求めていたものは何であろうか。

彼らは競争や対立、出世よりも「愛」を大切にした。戦争での殺戮よりも愛と平和を。ベトナム戦争反戦デモで、彼らがベトナム兵士の銃口に花を挿し入れて’’PEACE’’をアピールしたのは印象的だ。

画像1

彼らが求めるのは、ユートピア(理想)社会であった。1969年8月15日から17日にかけて3日間、ニューヨーク州サリバン群ベゼルでアメリカ史上大規模なロックコンサート「ウッドストック・フェスティバル」が開催され、40万人以上のヒッピーたちが押し掛けた。コンサートは想像を遥かに上回る入場者となり、後半から入場料は実質無料、また会場ではマリファナを吸うもの、ビールを飲むもの、裸になって踊るものなど、彼らは「音楽」「愛」「ドラッグ」「コミュニケーション」を全て堪能し、ウッドストック・フェスティバルはカウンターカルチャーを集大成したライブとなり、ヒッピー時代の全盛期を示す象徴的なものとなった。


しかし、ヒッピームーブメントはウッドストック・フェスティバルに勢いに続くことはなく、その後、下火に向かっていく。この頃からマスコミにヒッピーの存在が大々的に世の中に知れ渡るようになり、ヒッピーのライフスタイルに感化された若者たちが、ヒッピーたちが主に活動していたヘイト・アシュベリーに集まるようになった。次第にヘイト・アシュベリーは集まった若者たちで過密状態となったため、治安も悪くなり、ヒッピーたちが目指す「愛と平和の街」を維持することができなくなった。そのため、ヒッピーたちは都会を離れ、自給自足を行うコミューン(生活共同体)を地方の田舎で作るようになる。彼らは都会で暮らしていたため、農業などの知識は持ち合わせていなかったが、当時、出版されたスチュアート・ブランドによる自給自足本「WHOLE EARTH CATALOG」をバイブルとし、田舎でのコミューンづくりに精を込めた。

その後、1970年代に入ると、世の中の状況は一変し、ヒッピーたちが反体制の象徴としていたロングヘアや服装も、大衆ファッションの一部となって溶け込んでしまい、ヒッピー文化は体制に組み込まれていってしまったのである。それからはヒッピーは社会の前線に出ることはなく、田舎でひっそりと生きていくようになり、ヒッピーの時代は終わりを迎えることとなった。


参考資料:『 スペクテイター vol.44 ヒッピーの教科書』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?