あさま山荘事件の哲学的意味。

人は何か物事を行う際、その行為には善悪の基準が付随する。善行を働けば良い結果、悪行を働けば悪い結果が生まれるのが我々の共通認識である。しかし同時に私たちは、全ての行いが上記の論理で成り立たないことも認識している。今回は大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるのか』を参考に、善悪の転化について、「あさま山荘事件」と「東京地下鉄サリン事件」先に取り上げ、最後に「DEATH NOTE」を取り上げる。

あさま山荘事件。この事件は、1972年、長野県の軽井沢にある浅間で、当時、連合赤軍と名乗る武力闘争で革命を起こそうとしていた若者があさま山荘に立てこもり、管理人の奥さんを人質に取りながら、警察と銃撃戦を行った事件である。

この事件で、連合赤軍は共産主義を理想社会として目指した。彼らはこのことが純粋に善意・正義だと考え、自分たちの正しい道を追いかけた。この様子を、筆者も若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍』を鑑賞して当時の状況を知ることになったが、彼らの革命運動の中には、独特なしきたりが見られた。それは、共産主義の大義のもと、仲間内でそぐわない思われる行為があると、厳しい反省を促したことである。

この行為を彼らは「総括」と呼んだ。「総括」とは一般的にはまとめることを意味する言葉だが、彼らにとっては死に至るまでの自己反省を意味した。例をあげると、警察との武力闘争中、まともなお風呂にはいれない日々が続き、ある日、数人の仲間が町まで銭湯に行って帰ってくると、共産主義の大義に反するとして総括をおこなった。また、仲間の1人に美人な女性がおり、彼女が指輪をしていたことに対し、革命への覚悟は足りないと批判をし、徹底的に殴る蹴るなど乱暴を受けた。

このように、彼らは「総括」という名目上、共産主義の大義にそぐわない行為をした仲間を助ける意を込めて彼らに自己反省を促し、殴る蹴るなど暴力を振るい、時には死に至らせたのである。

この行為は、一見、共産主義の理想社会を目指すという善意の行為を行っているように見える。(事実、彼らはそれを純粋に信じて行動していた。) しかし結果として、この行為は人を死に至らしめるという悪行へと転化してしまった。このあさま山荘事件を通じて我々は、時にして「善意・正義への過剰な信仰、コミットは悪へと転換してしまう可能性がある」ことを学ぶことができる。

次へ続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?