東京地下鉄サリン事件の哲学的意味。

前回に引き続き、大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるのか』を参考に、東京地下鉄サリン事件の哲学的意味について述べていく。

東京地下鉄サリン事件とは、教祖が麻原彰晃のオウム真理教という宗教団体が、1995年3月20日の朝、霞ヶ関を中心とした地下鉄にサリンという毒ガスをばらまき、何千人もの人が被害を受けた無差別テロである。

オウム真理教は、当時、1万人以上の信者がいたといわれており、彼らは形式的には仏教の形をとっていた。そしてその中から出家した者たちが山梨県の富士山麓にある上九一色村に土地を買い、コミュニティを形成していた。またオウム真理教は、東京青山にも事務所を構えていた。

東京地下鉄サリン事件は、麻原彰晃を筆頭に、17人の信者が犯人だとされている。なぜならそこには、サリンを直接ばらまいた者、サリンを生成した者などがいたからである。事件から2日後、警察がオウムの施設である、上九一色村のコミュニティに突入した。

さて、この事件の哲学的意味はなんだろう。前回のあさま山荘事件の記事では、「善意/正義に過剰に信仰/コミットしてしまうと、かえって悪行へと転換してしまうことがある」ことを指摘した。今回、東京地下鉄サリン事件に関して、大澤真幸は「悪事を行うことが善に転換してしまうことがある」と指摘している。

連合赤軍の場合、彼らは理想とする善きもの、正義に向かい物事へアプローチしたが、結果的に悪へと転化してしまった。しかし、オウム真理教の場合、彼らは、理想とする善や正義という価値観を相対化し、それらに執着することを解いているのである。執着を解くとはどういうことか。私たちは殺人に対して悪いという認識を持っている。そのため、そう易々と人を殺すという行為をできない。しかし、オウム真理教は異なる。彼らは殺人に執着を持たないようにすることで、平気に殺人を実行する。彼らは人々が通常行うことができない悪行を平然と行うことができることが崇高であり最高の善だと考えたのである。(もちろん彼らは殺人を悪だと知った上で、それを行うことで宗教上で高次元の崇高な行為と考えたのである。)

連合赤軍では「総括」という言葉を取り上げたが、オウム真理教にも「ポア」という言葉がある。元来「ポア」とはチベット宗教の言葉であり、「魂を救済する」という意味であるが、オウム真理教では、「殺人をする」という意味で用いられた。彼らは殺人は究極の悪であると理解している。しかし、彼らはこのように考えた。冒頭述べたように、彼らは仏教の形をとっている。例えば、筆者が悪事を働いていたとする。そうすると、筆者が長生きをすればするほど、悪事はどんどん積み重ねられていくこととなる。その結果、筆者の来世では悪いことが起きる。彼らはこれはよくないことであり、筆者をポアする(殺す)ことで、悪事を行うことを辞めさせ、救済してあげようと考えた。このように考えることで、究極の悪である殺人という行為を最高の善に転換したのである。

以上のことから、あさま山荘事件に引き続き、善悪は時にお互いが反転しまう可能性があることがわかる。しかしこの東京地下鉄サリン事件での悪から善への転換について理解するのは難しい。次回、この転換について、『DEATH NOTE』を取り上げ、さらに理解を深めていく。

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