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通り雨みたいな毎日

■ 散歩して考えていた

1時間ほど散歩して焙煎所に向かう。真っ直ぐ行って右に曲がるだけのこの単調な散歩を私はどこか気に入っている。私に言わせれば、焙煎所のある街、区画は仄かな幸せに包まれている。珈琲豆の焙煎でしか出せない独特の匂い、テーマパークに広がるキャラメルの香りの様に甘く、それでいて甘ったるくない。そんな香りが通り一体を包み込んでいる。香りが充満している通りに入ればすぐにわかる。珈琲が飲めない人でも、焙煎所の匂いは好きな人が多い。私の好きな街にはいつも焙煎所がひっそりとある。

■ 惰眠を謳歌していた

家に引きこもっていた。思い返してみればコロナに振り回された後の3年間、気の休まる瞬間はなかった。水平線に向かって手を伸ばし続け、届かない指先に対して苛立ちを覚えていた。
ゆっくり息をすることすらも忘れて、前へ、上へ、右へ、左へ、と。見えもしない大義を空っぽの器に詰め込んでひたすらに向こう側を目指していた。
睡眠はもはや仮眠でしかなく、時間は切り詰めてこそ価値あるものであり、食欲も性欲も消えて無くなれば良いと本気で思っていた。上下感覚も失われた大波の中で空気を求めるようにもがいていた。

なんてことはない。これも一つの生き方なんだろう。
スマホを開けば流れてくるニュースや連絡の数々。
まるでニュース記事や、人からの連絡が化粧品売り場に陳列された商品のようで、それでいて実態があるかどうかすらわからない。私たちは何に縋って生きれば良いのだろう。

今日も惰眠を謳歌した。ゆっくりと、確実に生き心地が失われていくのを感じる。反比例するように肌荒れが治っていく。たくさん寝ているのに関わらず、目の下の隈はより一層ひどくなっていく。自律神経が乱れているのだろう、ぼさぼさの寝癖も一瞥するだけで、気にも止めない。生活を失うと徐々に自分の見た目にも興味が持てなくなってくる。そうすると鏡を見なくなるし、自分自身をケアすることもなくなる。久しぶりに鏡を見て、劣化していく自分自身に対して小さな吐き気を覚えた。自分なんてどうでも良いと言っておきながら、こうして見窄らしくなっていく自分が許せないでいる。失われていく瑞々しさに対して矮小な恐れを抱いている。現実を直視できていない。

■ 美しくありたいと願っていた

美しくありたいと思うのはきっと男女共通の感情だと思う。美の基準は時代によって変わるが、私にとって美しいとは、不断の努力そのものを指す。いや、努力すらも結果にすぎない。美しくありたいと思う精神性や、生への姿勢そのものが美しい。思うだけでは変わらないが、それでも思わなければ始まらないもの。その美しさは見た目だけではなく、部屋の状態だったり、仕事の成果だったり、勉強だったり、人間関係だったり、あらゆる形をとる。パートナーとの関係性一つとっても、日々小さな積み重ねを忘れてしまうと、どんな関係性も塵芥に変わる。感謝や謝罪、配慮、良いも悪いも含めた感情の表現。これらが努力ではなくて、なんと言うのだろう。そしてこれらの努力を諦めない人が美しくないわけがない。

美しさに囚われている。ずいぶん前にも同じような内容で記事を書いた。奥底で私は変わっていないのだろう。自分含め、人は面白い。移ろいゆくことが公理とされる自然の中において、自然同様に変わりながら、変わらない部分を併せ持つ。

■ 読み書きすることから逃げた

集中力が続かなくなってから、文章を書くことも、読むことも怖くなってしまった。潜り込むように思考することこそが、私にとって最大の幸福であったはずなのに、最後に潜ってから久しい。文章を書くと言う作業、読むと言う作業は相当の集中力がいる。可能な限り憂慮すべきことを無くし、ノイズのない静かな世界を持たないと極限に集中することはできない。ノイズの多い人間になればなるほど、集中力は落ちる。他者からの連絡や、小さな小さな環境の変化、普段と異なる場所など、パズルのピースが1つでも違っていると、全てのボタンが掛け違えてしまうように集中は訪れない。

文章を書くこと、いや思考や感情を言語化することこそ自分と向き合う手段の1つであり、自分と向き合い続けることを大事にしていきたいと願っていた。過去の願いすら無碍にしてしまうほどに過ぎ去った時間が感性をすり減らしてしまった。

■ まとまらない通り雨みたいな毎日だ

通り雨みたいな毎日だ。
1日の中に何回も雨が降って、急に静かになったと思ったら、猛々しく打ちつけてきたりする。そのたびに傘を刺し、長靴を履くことを楽しめる自分であったはずだった。それがいつからか、家から全く出ないという消極的な、面白みのない選択をするようになっていた。カーテンを閉めてしまえば、晴れも雨も変わらない。ヘッドホンで閉じてしまえば、雨の音すらも聞こえない。それを許容できるほどに疲れていた。

私に必要なのは、休息ではない。目的だ。

労わることでも労いでもない。叱咤だ。

止まることではない、歩き出し、歩き続けることだ。

一度休めば、この歯車は止まってしまう。
二度休めば、きっと錆びついてしまう。
三度休めば、錆を周囲に広げてしまう。

通り雨みたいな毎日はきっと変わらない。
私にできることはとっても素敵な折り畳み傘を持つことかもしれない。おしゃれなレインコートを見に纏うことかもしれない。スタイリッシュに見える長靴を買うことかもしれない。変わらないものを変えようとする時間は私たちに残されていない。なら少しでも、自分の形をあり方を変えなければ。

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