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「自分」を分けて捉えてみる

「自分は一人」という常識を疑ってみましょう。「自分」を成立させている根拠は身体であったり、記憶であったりいくつもあります。それらがあるから「私は私だ」という確信になっています。しかし、一方で、唯一の自分が嫌いとか、不満であれば、非常にしんどいものになるでしょう。

「個人」は分けられないという西洋的な「individual」が私たちの根本的な思考にあります。西洋哲学のコギトから考えてもいいでしょう。私は一人が原則だと、私たちは考えるように教育されています。しかし、私はいくつもいてもいいのでは、と考えられないか。家族といる自分、友達といる自分・・・と分けた自分を考えてみようというのが「分人」の考え方です。小説家の平野啓一郎さんの主張です。

例えば学校。あなたは学校にいかなければならない。唯一の義務のような場所の代表的なものです。もしいじめられるなどしていたら、学校にいく自分が唯一の自分だったら、そこから逃れることもできず、絶望的な自分になってしまいます。自己責任論に陥るかもしれません。

しかし、家族といる自分、友達といる自分・・・と自分を積極的に分裂させるならば、少し楽になります。こっちでは暗いけど、あっちでは輝いている、みたいな。良い言い方ではないかもしれませんが、リスクヘッジ的な感じでしょうか。いずれにせよ、自分の可能性を信じることができる一つの思想だと思います。

もう少し別の角度から。このような思考に私も興味を持ちますが、同時に示唆的なのは、現在の社会において「自分」が限界にきていることだと思います。だからこそ、ときおり「自分」を感じることを推奨します。私は瞑想とか好きな音楽を聴くとか、おいしいものを食べる、誰かと会話するとか。これらは、分人的に自分の様々な側面を感じると考えてもいいかもしれません。いますべきことは、「自分」を労わり、守ることではないかと。そのための方法論、思考法の一つとして、多様な自分を受け入れること、自分を積極的に分けてみるのもいいかもしれません。

**noteでは言葉、youtubeでは映像でなんとか表現しようとしています。風鈴の音で癒されますように。

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