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ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考

概要

ウィトゲンシュタインの著作「論理哲学論考」の解説・入門書。
哲学界に大きな影響を与えた名著でありながら、かなり難解な書物としても知られている「論理哲学論考」、通称「論考」。
これを初心者向けに平易に解説してくれる本。

論考の功績

論考が哲学界で高い評価を得ているのは、
「解くことのできる問題(有意味な問題)と、そうでない問題(無意味な問題)の境界を引き、哲学という行いの方向性を明確に示した」
というところにある。

我々は様々な問いを立てるが、それには答えを出せる問い(有意味な問)と、答えの出しようがない問い(無意味な問い)とがある
この見極めは重要で、もし今取り組んでいる問題が無意味な問題であった場合、いくら時間をかけても答えが得られず、時間を無駄にしてしまう。
しかし、我々の普段用いる日常言語は、多義的で曖昧な一面を持つため、一見、有意味に見える問題が、実は無意味だったということがよくある。

この日常言語の曖昧性に惑わされず、問題の有意味/無意味の見極めを行うための方法を深く考察したのが、論考という書物。

命題の有意味/無意味

論考の内容を把握するうえで、命題(=問題)の"有意味/無意味の意味"の把握が重要となる。

命題が有意味であるというのは、その命題に真偽を"与えうる"という事。
"与えうる"というのは、真偽が確定せずとも、また人によって真偽の意見が異なろうとも、"何かしらの方法で真偽の判断をしうる"。ということ。

例えば、「月にはウサギが生息している」という命題。
パッと聞いて「これはあり得ない」と思うだろうが、まさにそのことが、この命題には意味がある事を指している。
あり得ないと思うというのは、つまり、「偽であると判断している」という事。
この命題が真か偽かを与える何かしらの方法がある。もしくは真偽を与える方法が在り得る。
それが、その命題に真偽を"与えうる"という事であり、これが出来る命題は有意味と判断される。

一方、命題が無意味であるとは、"そもそも真偽の与えようがない"ということ。
例えば、「月にしている生息はうさぎが」という文章。
これは、意味を成しておらず、そもそも真偽の与えようが無い。

命題の分解可能性

有意味な命題と、無意味な命題の違いは、命題の分割可能性という側面からも言うことが出来る。

例えば、
「月にはウサギが生息している(=偽)」=「月には空気がある(=偽)」且つ「ウサギは生存に空気を要する(=真)」
という具合に、有意味な命題は、有意味な、より小さい命題に分割できる。
(ちなみに論考ではこの"より小さい命題"の行き着く先として、有意味だがそれ以上の分割はできない最小の命題 = 要素命題という概念を導入している。)

一方、無意味な命題は、そもそも真偽の与えようがないため、より小さい命題に分割するということが出来ない。

有意味な命題は分解可能で、無意味な命題は分解不可能。

循環参照的で無意味な命題

無意味な命題は分解不可能ということを利用して、一見有意味だが、実際には無意味な命題というものを明らかにすることが出来る。
詳細な内容を理解するには、本書を読んでもらうのが一番いいと思うが、ざっくりとまとめると、
「あらゆる命題の前提となるような存在についての、存在確認に関する命題は無意味」
となる。

分解可能というのは、分解したそれぞれが、分解元を含まないということでもある。
例えば、
「月にはウサギが生息している(=偽)」=「月には空気がある(=偽)」且つ「ウサギは生存に空気を要する(=真)」
という分解は、右辺のそれぞれの命題は、左辺の命題自体を含んではいない。
それぞれ独立した命題を組み合わせることで、左辺の命題を作ることが出来る。
これが分解できるということ。

しかし、いくら分解しようとしても、右辺が左辺自体を含んでしまうような命題というのがある。
それが、「あらゆる命題の前提となるような存在についての、存在確認に関する命題」
この様な命題に関しては、左辺の真偽を確定させようとして、右辺に分解したが、右辺の真偽を確定させるためには左辺の真偽の確定が必要。
という循環参照的な構造になってしまい、結果として、真偽の与えようがなくなる。つまり、無意味である。

この様な、循環参照を起こす命題は幾つかあるが、1つの例として「私は存在する」という命題を挙げることが出来る。

まず、「私は存在する」という命題が有意味であるなら、この命題を「真偽の与えようがあり」且つ「私の存在を含まないよう」に分解することが出来るはず。
しかし、命題に真偽を与える(もしくは誰かが与えた真偽の確認をする)のは正しく"私"であるから、
真偽の与えようがある時点で、"私の存在を含まない"ということはできない。
つまりこれは、循環参照的で、分解不可能なので無意味である(真偽の与えようがない)。

無意味だが神秘なもの

ただ、「私は存在する」という命題が無意味であると言っても、"私という存在がない"と言っている訳ではない。
存在しないという主張は、私の存在は偽であると判断しているということ。
しかし、無意味な命題には真も偽も判断を下すことがそもそもできない。
また同時に、「私は存在する」事を肯定しているわけでもない。

「私」のように、あるとしか思えないが、あると論証することはできない存在。
ウィトゲンシュタインは、このような存在を「神秘」という。
この様な神秘は何らかの方法で論証されるのではなく、その都度生じる経験によって「示される」ものである。

今この場で生じる経験全てが、"私の存在を示している"ということ

まとめ

論考の主要なポイントとして、概ね自分が理解しているのは以下。
「何かを前提としない事には何も語れないが、しかし、その前提自体の真偽は語り様がない。
我々はそのような前提(神秘)について語ろうとすることを控え、沈黙するしかない」

例えば、何が正義か。その究極の理由というのは在るものではなく、そうと示される/決めているもの。
(実際、論考ではこのような"価値観の基底となるもの"も、語りえないものとして挙げられている)

「正義とはこのようなものである(もしくはこの様なものではない)」と決めない事には、あらゆる言動の良し悪しの判断はできないが、
しかし、なぜそれが正義と言えるのか、その究極の理由はもはや語り様がない。
(そのように決めたから、そのように信じざるを得ないから等のように循環参照的に示すしかない)
故に、多種多様な正義の在り方があり得て、どれか1つが真の正義と語る(論証する)ことはできない。

結構分かりやすく書いてくれていて、論考を読んでモヤっとしていた部分が、この本で晴れた気がする。
入門書として良いと思った。

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