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印象をつくる | デザインの科学⑦

うーん。何かが違う...
クライアントにデザインを提案する時、得も言われぬ空気が辺りに広がり、薄寒い冷気に見舞われることがある。まるでミノフスキー粒子でも散布されたのだろうか。相手に届く言葉が一切みつからない。そんな時デザイナーは、ただデザインとクライアントの間にできた空虚を眺めて、過ぎていく時間を待つことしかできない。デザインの仕事とは、人と物との狭間にある「印象」に翻弄される職業なのだ。

冒頭から全然楽しくなさそうなことを書いて申し訳ないです。しかし、これがあるからこそ楽しい職業なのです。意図した「印象」をコントロールするために、ある時にはロジックで、またある時にはマジックで人の「印象」を鷲掴みにして奪い去る、まるでスナイパーみたいな職業なのです。
どうです?エキサイティングでしょう。でもマジックはちょっとカッコつけすぎですかね。ただ、この文章を読み終わった頃に「ちょっとあるかも」と思ってもらえたら嬉しいです。
今回は「印象」とはどこからくるのか、デザイナーは何をするべきなのかについて書いてみたいと思います。

「印象」は脳にあるのか、心にあるのか

ところで人が外部からの刺激によって受ける「印象」ってどこにあるのでしょうか。脳に残された記憶から?それとも豊かな心の感受性から?
脳 vs. 心。結論からいうと両方ということになりますが、ここで少し疑問に思うのは「結局、心も脳が作り出しているだけじゃないの?」という疑問です。この問いについて書き始めると長くなってしまいますので、今回は参考にしている書籍を貼っておきます。「単純な脳 複雑な私」タイトルの通り「人の気持ち」とは裏腹に、「脳」は物事を単純に解釈していたりするようです。つまり、脳と心は繋がっているが同期して動いているわけではないのです。


有名な例えで言うと「吊り橋効果」ってありますよね、揺れる吊橋に異性と一緒にいると、好きになってしまうみたいなやつです。アレも恐怖から来ている筈のドキドキなのに、脳が勝手に異性に対する好意だと思って勘違いしてしまっているわけです。
この様なことから脳と心は同期していないということが言えそうです。他にもたくさんの脳と心の不思議が書いてあるので是非読んでみてください。

それでも脳が無ければ「印象」も残らないじゃん。と思うかもしれません。次は、本書にも書かれている衝撃実験について紹介します。

「印象」は脳に残らなくとも、心には残る

脳には、体験を記憶に変換する “海馬” と呼ばれる部分があります。理科の教科書にも載っている筈なので学校でも教わったかと思います。
仮に、事故などで海馬を損傷してしまうと新しい記憶を作り出すことができなくなってしまいます。
因みに、損傷する前の記憶は残っているそうなので、過去の経験は思い出すことができます。例えば、海馬を摘出してしまった患者に「今は年号は?」と質問をすると、何年経っても摘出した時の年号を答えてしまうそうです。

実験
とある脳科学の実験です。
海馬を摘出してしまった患者に握手を求め、その後に電気ショックを与えるという、何とも色々とギリギリな実験を行った記録があるそうです。
電気ショックを受けた患者は、当然ですが「なぜこんなことをするのか」と怒り出します。ところが、数分後には電気ショックはもちろん握手をした記憶も無くなってしまいます。

実験
①握手を求める
②電気ショックを与える
③患者が怒る
④患者の記憶がなくなる

しばらくして、もう一度握手を求めてみます。
次はどうしたことか、今度は患者が握手を断ってきたそうです。
しかも「今は手を洗っていないから」と断る理由まで述べてきたとのことです。これは苦し紛れの嘘と言うわけではなく、事実を真っ直ぐに伝えるような言い方だったそうです。

⑥もう一度握手を求める
⑦患者が握手を拒む
⑧患者が断る理由を述べる

この実験結果から考えられることが二つあります。
一つは、脳に記憶が残らなくても身体には嫌な気持ちが残っていると言うことです。不思議ですよね、海馬に記憶がないのに気持ちだけは体が覚えている。でも正確な気持ちを相手に伝えることができないのです。

海馬に残る顕在的な記憶であれば、「印象」を伝えられることができますよね。
冒頭の「うーん。何かが違う...」のような時は、もしかしたら体だけ記憶している第六感のようなものが、どうしても言語化できないのかもしれません。
逆に説明がなくても良いものは良い。と通じる時は、自分と相手の感覚の周波数が一致したような状態になります。それはもはやマジックと言って良いでしょうしょう。

もう一つ実験でわかったことは、患者の発言でもわかるように、

患者「今は手を洗っていないから」

脳は勝手に架空の理由をつくって、それを真実としてしまうところです。
それでは次は、ねじれる「印象」についてです。

「理解」によってねじれる「印象」

人類は長い長い生存競争のなかで、ミスやNGの理由を自動的に分析できるような思考に進化を遂げています。
そのため脳が勝手に理解を深めて、先入観(認知バイアス)を生み出している可能性があります。
デザインの提案をしていても、「これは〇〇みたいだから違うかも」のようなフィードバックを受けることがあります。しかし「〇〇みたい」な部分が決して悪いわけではないケースが多く見受けられるのです。
本当は、潜在的に「嫌」と思っているものに対して、「〇〇みたい」のような勝手な理由をつくりだしてしまっているのです。これは潜在的な違和感を殺してしまっている症状と言えます。
そのため「〇〇とは違うもの」をつくったとしても、本質的に「嫌」と思う部分を解消できず、いつまでも着地しないケースに陥ります。

クライアントが潜在的に「嫌」と思っている部分はどこなのか?「〇〇みたい」に隠れている絶妙なニュアンスを感じ取る能力がデザイナーには必要なのだと言うことです。

まとめ

デザインは説明できなければいけないのですが、説明するためにつくるとつまらなくなるんですね。それは、皆が共通して良いと理解できる、浅い「印象」に着地してしまうからです。
もう少し深い部分から「印象」を生み出すには、より個人レベルで「これって良くないですか?」って思える部分を掘り起こして、その陰影を他人にも伝わるようなアウトプットにすることが大切なのです。
また、アウトプットするだけではありませんね、相手が勝手な理解のバリアを張らないように、伝え方の工夫も必要です。

『最も個人的なことは最もクリエイティブなこと』

それは、マーティン・スコセッシの言葉です。
デザインがコモディティ化しているなんて言われていますが、それは前者の話だと思うんです。
デザイナーはより潜在的に良いものを掘り起こして、発掘していく職業だと思います。
そのためにも、自らが感動に触れに行くというのは、大切なことだと思います。楽しんで、喜んで、時には悔しがったり、怒ったり、たくさんの感情を体験することはデザイナーにとって必要なことなのだと思います。

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