見出し画像

女は産むことで革命する

私は、「自分は産みたくないから産まない」という人のことは「産む能力のない人」と見なすから、「そっかぁ」と返すだけにしている。
私自身も30越えて出産欲に駆られるまでは同じことを考えていたので、気持ちがわかるところはある。

ただ、
「障害者は子を作るな」
「育てる覚悟もないのに産むな」
「こんな親のもとに産まれた子供が可哀想」
そうやって、他人の産む自由に制限をかけようとする態度は筋が通らないから、「だったらお前は産めよ」と返す。だってそうでしょう、世の中はお前を中心に回っているわけじゃない。

逆も然りで、(諸々の個人的主観で)産みたくない人に対して、社会的意義を掲げることで圧をかけるやり方にも賛同しない。
これでは同じ穴の狢だ。個人の人生なんだから好きにしたらいい。産まないって言うんなら産めないんだから仕方ないじゃないか、と思う。
そういう人が今後増えていく一方なのだとしても、そういう社会で自分と家族がどう生き残っていくかを考えるほうが、ずっと有意義で面白いとも思う。

*

とはいえ理想を語るならば、私は産みたい人が勢いでぽんぽん産める社会にこそ、持続可能性は宿ると考えている。
要は「育てる覚悟もない」女たちが後先考えず、出産欲に駆られて欲しい精子を手に入れて、無造作に新しい命をつくるのだ。

そうして世に送り出された「可哀想な子供たち」が、クラスの半数以上を占めるような社会になったらどうなるか。きっとそれはただしくない社会だ。
社会がただしいからこそ機能する「可哀想」はどこへ行くのか。不平等に淘汰されることを待つしかない、弱き肉のところへ行くのではないか。

今のような、救われるべき者の称号としての「可哀想な人」はいなくなる。残るのは、憐憫の情としての「可哀想な人」。

わたしのかんがえたさいきょうのかくめい。

*

女は産むことで革命できる。
産まない女だって包摂することができる。
「産む覚悟」さえ、あればいい。
女の自由に伴う責任は『命を増やすこと』だからだ。

産みたくない女は、産みたい女の産む自由を全力で肯定することで、ようやく産まない自由を謳歌することができる。
「産む覚悟」を持つ能力がないからだ。
その役割を、産みたい女に委嘱する必要があるからだ。

「育児能力がないのに親になるな」
他人にそう嘯きたいなら
「育児能力がなくても親になれよ」
他人にこう嘯かれる人生をも、受け容れなきゃいけない。産む覚悟を強制される人生だ。
要は、昔に逆戻り。それよりも、

「産みたい人は勝手に産めばいい」
「p.s.育児は勝手に支援するから」
こっちのほうがずっと生きやすいんじゃないか。
これなら道理にかなう。自由を謳歌できる。

健全な養育環境とは『無数の目』だ。
厳格な目も、優しい目も、冷めた目も、下卑た目でさえも、子供が育つ糧になる。
今後どこかで子供とエンカウントしたら、目を背けずに眉を顰めずに見てほしい。
女の自由を担保してくれる彼らが、すこやかに育っているかどうかを。

*

少子化とは、女の不自由だ。

産まない自由を謳歌したければ、自分の代わりに産んでくれる女を増やさなければいけない。
今まではそんなこと気にしなくても良かったのに、女性の社会進出に伴い調子に乗った歴々の女たちが、唯一無二の性的価値にミソをつけた結果だ。
「産む覚悟」も「育てる覚悟」も他人事にしてしまった報いだ。

少子化対策を社会に丸投げしてる場合じゃない。
キャンセル文化で不健全な養育環境をこさえてる場合じゃない。
人工子宮に諸手を挙げて賛成している場合じゃない。
あんなものができたら一発で、物理的ジェンダーレス社会の到来だ。せいぜい男は「精子を持つ人間」、女は「卵子を持つ人間」だ。

胎児はビニール袋で育ち、父も母も勤労に励む。
そこに性差はない。あるのは能力差だけだ。
妊娠・出産が女だけのものでなくなってしまえば、今のように男女不平等!女には自由がない!などと無邪気にキャンキャン吠えていられる時代は終わる。

*

少子化対策は、女にしかできない。
男にはできない。今のところ、だけど。

男の責任は『命を棄てること』と認識しているが、責任を果たしていない女の側から、現時点で男にどうこう言える資格はない。

私には娘と息子がいる。
自由な未来に放ちたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?