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『権力』パレスチナ問題に参考になる(イスラエル、パレスチナ)

 橋爪大三郎氏は論理的だ。社会学者なのであたりまえかも知れないが、フィールドワークではなく理論の社会学者なのだろう。無知な私は本書によって、政治学、経済学、法学という現代社会を考察の台頭とするのが社会科学、近代社会以外の社会も対象とするのが社会学ということを知った。

 マックス・ウェーバーの権力の定義は次のようなものだ。

「権力とは、あらゆる社会関係のなかで、自らの意志を、たとえ抵抗があろうとも押し通すことができるあらゆる機会のことをいう。この場合、何にもつづくもでもよい」

 定義ではないが、フーコの権力論は次のようなものだ。

・権力は、社会のいたるところに満ちている。
・権力は、人間から人間に作用するのではない。
・権力は、出来事に作用する。
・たとえば言語(言表)は出来事である。権力が働くとは言表は独自の配列をとる。
・告白や監視の制度も権力である。内面を独自に編成して主体とする。
・権力作用は実証できる。でもその作用がどこから来るのか特定できない。
・権力は時代により、作用を変える。人々の思考や行為も、異なって形成される。
・権力そのものが何であるかを、語ることはできない。

 権力の考察を、言語ゲームなどから進めた後の著者の定義は次になる。

「権力は、人びとの意思を整合するようにはたらく、間身体的な作用である」

 意思が整合するとは、たとえば高い山を挟んでこちらの村とあちらの村の連絡がない場合、人びとは無関係だが、道路が開かれ人びとが往来すると、コミュニケーションが生まれる。それにより多くの人が協働する可能性が生まれ、人びとの意思が整合しさえすれば、権力はその整合をもたらすのだ。
 意思が整合しないとは、こちらの人がこう考え、あちらの人びとがああ考える。人びとの意思が一致しないことが顕在化する。これが権力が働かない場合の常態だ。そのなかの誰かが、周りの人びとに働きかけ、合意を形成しようとすることは影響力であり、影響力は一時的で、不安定だ。ここには権力は働かない。

 これをパレスチナ問題と「組み合わせ」て考えてみると、後者の状態が現在で、こちらの村とあちらの村に権力が働いていない状態と言える。逆に、整合をもたらすものが権力であるならば、それは権力を意味する「Power」でなくともいいはずだ。権力はいくつもの身体が散在しているとき、それぞれの身体にそなわるめいめいの意思が整合するはたらきで、意思が整合すれば、協働が可能になる。協働はさらに、意思の整合を協働の外側に拡大するかも知れない。権力は意思の整合性に沿って、特定の指令を伝えることができる。それは、権力者の意思を起点とすることもあれば、誰の意思をも起点としない場合がある。これは非常にヒントになる権力の定義だ!

 最後に筆者は、社会学の組み立てを自然科学に似せすぎてはいけない。社会は自然現象では解消されないからだ。同時にシステム論をモデルに構成しない方がいい。社会という現象の独自性を取り出すのに、システムの概念は有益でない、と釘を刺す。そして社会学を、性と言語と権力の作用のうえに、その複合として組み立てよう、と呼びかけている。なぜなら、これまでの社会学は、社会がどういう相互作用でできているのかを、はっきり理解していなかったからだとしている。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。