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令和二年

もうすぐ、2020年が終わる。
経験したことの無い空白の時間。誰にとっても恐らく、大なり小なり今年は特別な年になったのではないだろうか。

そんな1年を生きた、1人の人間の記録として、私の思考を、ここに記して置きたいと思う。

私にとって2020年は、命というものを考えさせられる1年となった。普段生きている分には意識しないであろうその重さが、なんだか久し振りに感じられた気がして懐かしい気持ちになった。

あの日から、現在

初めに思い出したのは、2011年3月11日のこと。
当時の私はまだ小学生だった。

「飛行船が見えるよ」

友人の歓声につられて便所の小さな窓から外を伺う。当時ごく稀に出現した飛行船が、その日はかつてないほどに大きく見えた。白くぽってりした身体に、赤字で何か書き付けられている。何が書いてあるのだろう。身を乗り出して確かめようとする。
しかし残念なことに、白い飛行物体はそれに気付いてか気付かぬか、踵を返すように向こうむきになり、彼方へと飛び去っていった。

仕方がないので、日常に戻る。
引き続き便所掃除をしていた、その時。
ゆったりと、地面が揺れているような気がした。友人たちと顔を見合わせる。
外に出ると、長い廊下の向こうで、吊り看板がぐわんぐわんと身を揺さぶっている。


地震だ。


しかしそれにしても、私たちの命を奪いそうにもない揺れ。どこか生ぬるい振動が続く最中、壊滅的状況に陥っていた地域があることも知らず、私たちは笑っていた。

「なんだか今日は不思議なことが続くね」と、笑っていた。

家に帰った時のことを、未だに思い出す。
母親が私にかけた言葉。ニュースの映像。そのひとつひとつを、何故か昨日の事のように思い出せる。

「東北、大変なことになっとるよ」

飛行場の飛行機が濁流に押し流される映像が、繰り返し流れた。
大きく揺れる定点カメラの映像と、報道局の人々の悄然とした様子が、繰り返し流れた。

全てが、悪い夢でも見ているようだった。

当時は気味が悪いな、くらいにしか思っていなかったACジャパンのCMを、すっかり煌びやかな街を歩く中でふと思い出した。当時も、何もかもが自粛の雰囲気となっていたっけ。
テレビのCMは、ほぼひとつのものが占めていた。ニコニコした動物が挨拶をするだけの、ほのぼのとした内容。

「感謝」や「思いやり」、「優しさ」という言葉の裏に、何かを感じずにはいられなかった。

住むところや家族、大切な人、仕事、生きる希望。その意志そのもの。
全てを喪った人が苦しむ現実から、強制的に目を背けさせられているような気がした。

「もう折り鶴はいりません」と悲痛な表情を浮かべて訴える被災者の方々が、街で見る医療従事者のポスターと重なって、胸が痛くなった。

私には、何が出来るのだろう。
無力さに打ちひしがれた、令和二年。

衝動的な日々から、現在

それから中学、そして高校と、ずっと内に籠るような性格は変わらなかった。快活に人と話しては、帰ってぼうっと部屋の天井のしみを眺めることが多くなった。不眠にも、過眠にもなった。
大人が「青春」や、「思春期」と名付けるその言葉は、私にとっては綺麗過ぎた。青春と呼ぶには小汚く、思春期と片付けるには激し過ぎる衝動が、数年続くこととなった。
未だにあの熱情や衝動を簡単に反芻することが出来る。しかしもう繰り返すことは出来ない。
この気持ちがあるうちは、何もかもわかったような素振りの大人にはならないと、自分自身に誓っている。

高校生の頃は(これは性質を少し変えて今でも続いているのだが)、生きていくための意欲という意欲が無かった。毎日どうなってもいいという破滅衝動と隣り合わせで、ありとあらゆる平穏から、意識的に遠ざかっていた。本当は誰よりも穏便を望んでいたはずだった。
別段虐められていた訳でもないが、クラスには居場所が無かった。友人も殆どいなかった。
授業が終わると早々に教室を出た。部活があれば部室の隅を陣取って文章とも言えぬ文章を書き散らし、無ければ図書館の隅で本をひたすら読んでいた。

私たちはほぼ1倍、つまり定員状態で揃った代だった。教員からは、事あるごとに全体集会でそのことを持ち出され、「より一層の努力を……」と詰られた。

私たちは、一体何のために努力しなければならないのだろう。

よくわからない苛立ちとフラストレーションが、どんどん募って、私の存在を危うくさせていた。

思えば自分のことしか考えないような、独善的な人間だった。自分のためにやっているのだ、ということを誰かに押し出しさえしなければ、他人の為になるようなこともしてきたつもりだったが、もう何をやっているのか理論では片付けられなかった。人に近づきたいと思い、その浅ましさが嫌で自ら他者に遠ざけられようとした。

温厚で寛容、争いごとを避けたがる傾向にあったが、一度自分の思い通りにいかないともうどうしようもないくらいに感情的になってしまうこともあった。突発的に暴力性を高める自分が嫌で悲観的になって泣き崩れたりした。面倒な人間だった。面倒な自覚があったが、どうしようもなかった。

電車に友人と乗った時、疲れて互いに微睡んでいた。最寄り駅に近づき薄目を開けると、斜向かいの全く知らない他人が、明らかに私たちの身体的特徴について悪口を言っているのが聞こえた。
私の話の時にはなんとも思わなかった。むしろどうとでも言えと思い、また目を閉じた。しかし友人に話が及ぶと、耐え難い怒りが襲ってきた。たまたまその人たちが最寄り駅で下車したので、背後から追いかけて階段で首元を掴み、「次に言ったら殺す」と言って手を離した。冷静に考えれば全くの他人であり、次なんてものは無かった。しかし過去の私は、その訳のわからない衝動を自分でどうにかすることが出来なかった。
振り返った彼女は、得体の知れないものを見る目付きで私を見ていた。信じられないものを見た、という目。異物に向ける目。当然だった。傍から見れば、私のやっていることは、街中で突如として勃発する、理不尽な喧嘩をふっかけるチンピラのそれだった。あるいはもっと悪質だった。

私は、完全に社会のレールから自分が外れてしまったことを思った。


後に倍率が低かったのは、前年に校内で成績を苦にし自殺した生徒が出たからだ、と風の噂で聞いた。自分も何かあったら登ろう、と屋上まで続く立ち入り禁止の非常階段を恨めしく見つめ、その実何も無い日々が続いた。

自分の命というものが、何故かもう毎日ただただ鬱陶しくて仕方なかった。焼け焦げるような苛立ちと苦しみが日々募った。

今年の自粛期間は、やり場の無い怒りと虚しさ、自己嫌悪に襲われることが多かった。かつて感じた、命の鬱陶しさにまた、思いを馳せた。

私は今、何をすべきなんだろう。
どこにも行けないやるせなさに、泣くにも泣けなかった、令和二年。

少し前、そして現在

ある芸能人が亡くなった。
私にとってそれは、大変な喪失感を伴う出来事だった。

未だに人の死を、どう受け容れていけばいいのかわからない。
神様や仏様、死後の世界は信じていないつもりだが、こればかりは天寿、という言葉を使いたくなる。そうでないと苦しい。そうしていても、苦しい。

イラクの名も知らぬ土地で今、亡くなろうとしている人に対して、芸能人が亡くなって、死刑囚が順当に死刑を執行されて、家族や友人、身近にいる大切な人が死ぬ。
病気、事件、事故、自殺、その他たくさんの、死因。
しかし私にとってはそのどれもが同様に苦しい。その人に縁があるとか、結び付きの強弱とか、そういう話ではないし、その人が今までどう生きていたかも関係ない。
ただ、ひとつの命が、この世から消える。その一点において、私は苦しくなる。だから生きて欲しいと思う。

それにしても、誰かに対して「生きろ」と口にするのは簡単である。
ただ、繰り返す日々に打ちひしがれ、絶望と虚無の中に生きる人々にとってこの言葉は、暴力にならないだろうか。
そして漫然と、しかし切々と希死念慮を膨らませる、あの日の私のような人々に、この言葉は届くのだろうか。答えは否だ。わかり切ったことである。かつて自分が経験したあの全てを吸い尽くすほどの絶望。焦燥。喪失感。
生きるために、他に換言できないエネルギーというものがあるのならば、その全てを凌駕するほどの虚無。それらを前にして、「生きていればいいことがある」とも、「生きなければダメだ」とも、軽率に言うことはできない。「死が救いになる」と言う人もいる。
私個人の考えを述べれば、死は救いにはならないと思う。死は、遺された人々の虚無を育てるばかりである。得られるものより、喪うもののほうが多い現象。ただ、死ぬという行為には、生を蝕む力がある。それだけ。

何もしなくたって強靭な力を持つ人の死というものを、センセーショナルに知らせる連日の報道が苦しかった。そこにその人がいないということが全てだったし、それ以外に興味がなかった。
人の死を消費するな、美しく昇華させようとするなと憤る一方で、それに魅せられている私が酷く醜かった。自分の矛盾点を叩きのめし、無理やりにひとつのベクトルに収束させようとしたが、より散らばるだけだった。

死んでからは、何も無い。
「何も無い」という状態のみがある。むしろあるも無いもないのだから無いことを感じることも無い。そういう点では、「無い」も無いのかもしれない。

しかし、耐え難い苦しみに忍従し、どうしようもなく死を望む人もいる。死ぬという行為には、負の感情を一気に引き寄せる力がある。

その強い力に、負けたくない、と思う。
しかし生きていれば勝ちなのか、死んだら負けなのかと言われると、事態はそう単純ではないとも思う。

夜を越えたい、と思う。
かの文豪が越えられなかった夜を、あの芸能人が越えられなかった夜を、戦地の人々の味わうことができかった夜を、ただ粛々と、ひとつひとつ越えていきたいと思う。

今日も世界のどこかで、誰かの命が消える。
ただ、私のちっぽけな悲しみだけが残る。
そして、心の片隅の虚無が、それを喰らい、少し成長する。空洞は年々大きくなっていく。
私はその大きな空洞に向かって、言葉を投げかけ続ける。
かつての自分に向けてなのか、まだ見ぬ誰かに向けてなのか、それはわからない。

底は遥か遠く、打てども届きそうもない。
それでも、私は言葉を投げかけ続けなければならない。

難儀な人間になってしまったな、と肩を竦めた。
どこまでも自分勝手で、自己都合である。そしてこの話に、結論は無い。無いのだが無理やり漕ぎつけるとするならば、「生きてください、私も生きますから」というのが、私の他者へのスタンスのひとつである、ということを表明しておきたい。そういう意味で、自分の命には、自分で責任を負わなければならないと考える。憲法上の生存権はよくかなぐり捨ててしまう私だが、本質的な意味での生存権は、どんな人間にも与えられた権利だ。だから人から死ねと言われたぐらいで死なないし、自分から時折聞こえる死ねという言葉にも耳を傾けない。「なんでですか?」って、今度聞いてみよう。



折角難儀な人間になってしまったんだ、どこまででも難儀でいこう。



目を閉じて、息を吸い込む。そして大きく吐く。
今日も私の鼓動は相変わらず鬱陶しい。
しかしその鼓動が続く限りは、生きていこうと思う。
命というものは厄介で、面倒で、鬱陶しい。
だからこそこの重みを感じながら、生きていこうと思う。

この命と共に生きていこうと思えた、令和二年。

令和二年

今年なくなった全ての命
今までなくなった全ての命
その尊いもの
今苦しんでいる全ての人へ
何と声をかければ良いのかわからない
それでも声をかけ続ける
それが良いと信じているから

どうか生きていてください
苦しみや妬み嫉み、痛み、絶望があるように
華やぎや美しさ、楽しさや嬉しさがあります
そしてその全てを享受するあなたがあります
わたしはあなたがなくなるのが寂しい
だから生きていてください
理由とするにはあまりにも
巨大すぎる自我の存在

続く闇に終わりがあるか
祈るしかないあなた
神のないことに絶望するな
神はない、それでも祈る
それでいいじゃないか

あなたは、生きていていいんです

止まぬ雨もいつかは止むと
信じ続けるしかないあなた
ありきたりだと打ちのめされるな
絶望は口を開いている
餌を与えることのないように

あなたは、生きていかなければならないんです


全ての命に、祈りを捧げる
ただそれだけのわたし
ともに生きましょう
あなたとともに
わたしとともに

2020.12.17
芥乃 いのり

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。