バス停で日本の縮図を見た

 バスを待っていた。文京区の古い住宅街である。Googleマップを見るとちょうど前のバスが出たばかりで、次のバスまで少し時間があった。7分遅延しているようだった。
 バス停にある表示板は数字の一桁分だけを表示し、バスが近づくと3つ前の停留所から3.2.1と表していくようである。4つ前までは全て0と表示されバスの所在はわからない。その時の表示は0であった。

 なんとなくイヤホンを外し、携帯も見ずにぼーっと立っていた。停留所には二人分座れる場所があった。するとそこに二人連れの還暦まわりぐらいの女性がきて、一人は座り一人は立って雑談を始めた。

 バス今行ったところみたいね、と座っている方の女性が立っている女性に言ったところから会話は始まり、その後は内容も覚えていない世間話へと発展していった。冷たい秋の風が吹く中、知らない停留所で平和な会話を聞くでもなく聞きながらなんとなくの趣を感じながら私は前を見て立っていた。

 しかしその後である。70歳ぐらいの男性が現れてから一気に私はこの社会のいやな部分を見せられたような気分になった。

 その男性もバスがもう行ったところかどうかを自分の連れに話しかけ、そこへ最初からいた女性がバスはもう行ったところみたいだと横から話しかけた。

 そして話はいつの間にかどんどんと転がっていき自分よりも若い世代への批判に落ち着いた。


「私たちの世代が作ったインフラにのっかっているだけ、文句を言わずに金払え」

「昔は人情があった」

「今の若いもんはだめだ」

「今のやつは怒られてない、昔はよく殴られたもんだ」

「警察と先生が一番強く偉かった」

聞いたことのあるような文句が次から次へと大量に並び立てられていく。

 5,6人の還暦まわりの男女、先頭でバスを待つ私。真っ直ぐ前を見て会話に入らない私をやっかんだのかもしれない。私は頑なに知らない人と会話をしたくないタイプでもなかったので、機を逸しただけであったが、不快な方へ事態は転んでしまった。しかし確かに当てつけの聞こえよがしの会話であった。

 私は別に若者代表ではなく、彼らもまた日本の代表ではない。このような主語の大きな展開によって、現状への不満や退屈な日常に対する溜飲を下げようとするのかもしれない。

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