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今日打った布石は必ず未来の軌跡になる。/ パロディは原作を知り得る第一歩目になる。

 2023年5月14日(日)。20時25分。

 こんにちは。井上和音です。

 昔の自分が書いた文章というのは忘れるもので、カクヨムとは別のサイトに──例えば note とかに──上げようとするときに、文章の中身を毎回確認はするのですが、まあ、なんと読点句点が多いことと思ってしまうことが多々あります。しかし、別に校正をかけたりはしません。当時の自分が表現したそのままを上げようと努力しています。努力という言葉を簡単に使ってしまいましたが、我慢してそのまま上げようとするその我慢しようとする姿勢は、努力という言葉を使ってもいいのかなと思います。

 ただ、なんとなく、今も思ったのが「次に note に出す記事は危ないくないか」と感じました。いつも感じているので「次の note はやばくね。次の note はやばくね」と繰り返し繰り返し過去の自分が言い放った言葉に戦々恐々としながら、結局は過去の自分が書いてくれた文章に頼りながら毎日 note を更新できています。結局は過去の自分様々で頼りきっています。今の自分も未来の自分にとっては過去の自分となるので、今の自分も未来の自分から頼られる存在になるのかなあとか思っています。

 なんの話だ、という感じですが、ツイッターのフォローをだいぶ外しました。そもそもツイッターの仕様が変わり、フォローしている人のツイートではなくておすすめのツイートがタイムラインに流れるようになり、「これって特にフォローしている意味はなくね?」と疑問に感じてしまい、フォローを外しました。いいねを押してくれたり、相互フォローの人はそのまま残しておきながら、かつ面白いと思っていた人はそのままフォローは残しながら、とりあえず機械的にフォローを外していきました。ぽちぽちぽちぽち。

 2時間くらい掛かりました。仕事かと思いました。どっと疲れが来ました。

 「フォロー数よりフォロワー数が多い方がなんとなく権威性が高められて格好良いよね!」とかいう気持ちは本当に無く、ただフォローしなくていい人を、ただフォローを外していくという作業を延々とやりました。権威性とかも関係なく、数などは数えることなくただ作業をしていきました。結果としては3000アカウントくらいフォローを外してしまいました。Twitter Blue に登録していたからなのか、いきなりフォローを外しまくっていても特に凍結するような状態にはなりませんでした。一応毎月1,000円お金を払っていますからね。「お金を払っているならばやっていいですよ」と陣内智則さんのネタでありそうなシチュエーションではありました。でも最近のソーシャルゲームってお金を払ったら最強のキャラクターが手に入ったりして、陣内智則さんのネタがネタで無くなってしまう現在のゲームの主流の中を私は生きています。ツイッターもしかりということです。

 狙っているわけではなかったのですが、結果としてフォロワー数が300人くらい多いフォロー数フォロワー数になりました。一気に外したのですが、外したアカウントたちは私にそもそもから興味が無かった人たちなので、フォロワー数が減るということもありませんでした。ただこの文章を書いた後はいきなりごっそりと減るのかもしれません。そこらへんはどうしようもないですよね。人が自分の都合通りに動いてくれるとは微塵も思っていません。いつもの他人は自分の思う通りには動かせないと散々言っているあれです。もちろん今でもそれを信じています。

 見た目では、フォロワー数が多い状態になったのですが。なった途端に、note が引用元を示されてツイッターで紹介されたりしました。何も関係ないよね。無いはずです。実はツイッター上でフォロー数よりもフォロワー数が多い方が自分にとって都合の良い出来事が次々と起こる因果関係などは……無いと思っていたいです。無いと思っていないと「なんでもっと早くしなかったのだろう」と過去の自分の行動全てを悔いてしまうような感情になってしまいます。先ほどの、未来の自分は結局過去の自分に頼らざるを得ないと書いたのは、今日のツイッターのフォロー数整理がもしかしたら未来の自分に決定的な何かを与えてしまう行動だったのかもしれないと、少しずつ思ってきました。別の角度から見れば、文字だけのブログ、とうおこを毎日続けてきた意味は、毎日毎日何でもいいからとにかく続けようと、グリッドを信じてやり続けていたことは何の意味も持たなかったのではないか。そんな風に思ってしまい少々ショックも受けているところではあります。

 一方が勝手に上手く行ってしまっていたら、もう片方が上手く行っていなかったと二元論で考えてしまう、私のように勝手に善か悪の二つでしか考察が出来ないというのは、単純化しやすい人間の悪い癖なのかもしれません。人間という言葉は大きすぎる気がするので、私の悪い癖くらいで主語は小さく収めていきましょう。

 なんの話をしているのだろう。

 要約すると、今日の行動が何かしら未来に影響を及ぼすかもしれないっぽい行動だったらしいです。なんででしょうね。人って、他人ってそんなに単純なものでしょうか。

 今日はフォロー数を整理するという単純なことしかしていないので、何か寝ていて思い付いたとかそういうことは一切ありませんでした。年賀いやがらせさんも全く出ませんね。今日はお休みでしょう。布団で寝ていると思います。

 やったこととしては他には読書をしました。もうこれは思想とか何でもないのですが、昨日言っていた呪術廻戦を読みましたよ! 0巻だけ。乙骨おっこつ憂太ゆうたさんが「来い!!!!」と叫ぶシーンを見たかったのですが、まさにその通り0巻で合っていました。「この人映画に出ていた人だよね」くらいの推理で0巻を買いました。当たって良かったです。やっぱりあの目の描き方は素晴らしいと思いました。目が口よりも大きく開くことはないのが現実ですが、現実を超えた表現をするのが漫画の本来の力だと思っているので、本当に迫力のあるワンシーンが見れました。

 あの場面の表現をパロディにしたコマだけがツイッターで流れてきましたが、それだけで「ああ、読んでみよう」と思いました。やっぱりパロディって大切な文化だと思いました。

 原作を読んでみようと思う入り口がパロディなのだと本気で思っています。アニメであれ漫画であれ文章であれ。YouTubeやニコニコ動画のMADの文化とかは無くなってほしくないですね。本当に。

 あとは読書で、「冒険の書」という本を読み終えました。著者の孫泰藏さんってどんな人だろうと思って調べてみたら、SoftbankのCEO、孫正義さんの弟さんでした。普通は孫泰藏さんを知っていてから読む本なのかもしれません。調べてみてびっくりしました。孫泰藏さんは久留米大学附設高等学校から東京大学の経済学部に行ったそうです。経済の本ではなくて教育に関する本だったので、孫泰藏さんの守備範囲は広いのだなあと思いました。多種多様な数多くの別の本から参考にして書かれている本です。ちゃんと元ネタが書かれている本は大抵良い本です。「冒険の書」も素晴らしい本でした。読書メーターの感想欄にもこの記事のリンクを貼っておいて紹介しようと思いました。良い本でした。また、一冊の本を創るためには様々な人が関わって出来るのだと、あとがきの謝礼欄を見て痛感しました。

 「冒険の書」のはじめに、では、引用元を示して頂いたら引用してもらって構わないと書かれていたのですが、本の最終ページに書かれている著者の紹介の欄では「出版社ならびに著者の了解なしに複製することを禁じます」とどの本にも書いてある『引用禁止』の文章が書かれていたのですが、果たして引用して良いのか悪いのか、どっちなのでしょうね。多分していいのだと思われます。

 良い本でした。面白い本でした。

 今日は自由に生きました。こういう行動がたくさん出来た休日も良いものなのかなと振り返ってみて思いました。

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