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【実存哲学】実存について(キルケゴールからハンナ・アーレント、サルトル、カミュなど)

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 こちらの元記事は『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』内の『実存について(キルケゴールからハンナ・アーレント、サルトル、カミュなど)』(https://kakuyomu.jp/works/16816700426481165138/episodes/16816700426597246449)になります。

 文字数は、2599文字で1000文字程度で記事を書いているので、少し長く感じられるかもしれません。実存哲学についての変遷や、実存主義とは何か、実存という言葉そのものについて書き記しました。哲学レベルは決して高くはないので、楽しい入門書レベルで読んでいただけると幸いです。

 では、本文をどうぞ!

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 今まで、実存、実存、って当たり前のように言ってきて、実存を簡単なように使ってきたのですか、そもそも、哲学科で実存哲学をやるか、習わない限り、もしくは独学で得ようとしない限り、実存という言葉を使うことはそう無いと思い至りました。

 ざっくり書きます。
 実存、その意味は、哲学者によって異なります。
 ……えって感じですよね。私も最初は、一つの言葉に一つの意味が正確なのでは、と思っていました。しかし、実存という言葉は、近代哲学史により変遷を辿ってきた言葉なのです。

 じゃあ、最初に実存という言葉を使い始めた人間は誰でしょう。
 それが、デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールです。
 最初に使いだした、ということで、僕もキルケゴールが唱える実存こそが、真を捉えていると考えています。

 次に的を得ているのはフランスの作家、カミュだと思います。カミュはコロナ禍の中、『ペスト』で注目が集まった作家さんですね。残念ながら、僕がカミュの『異邦人』しか読んでいないので、その作品以外で評価することはできませんが、『異邦人』は、ジョン・ポール・サルトルの『嘔吐』よりも確実に、そしてより正確に実存について捉えていると考えています。

 では、実存とは何か。それぞれの哲学者の実存をざっくりとまとめてみたいと思います。

 キルケゴールの実存:《《主体性とは真実である》》
 サルトルの実存:まだ価値の定まっていないない人間
 カミュの実存:概念上ではない、そのままのもの
 アーレントの実存:人間

 キルケゴールの実存に、傍点を振ったのは『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』という、キルケゴールの著作に、そのまま傍点が打ってあり、それこそが本当に矛盾のない真実だと、私も共感したからです。

 簡単に言えば、自分がいる、見ている、認識している、それは真実だよねってことです。
 デカルトのコギトと同じではないか、という批判もあるかもしれませんが、デカルトのコギトは邦訳として「我思う、故に我有り」だったり「私は考える、そして私は有る」と《《考える》》ことが、自己の存在証明になっている、と訴えています。しかし、これはかっこつけすぎだと思います。

 実際に、なんにも考えていなくても、私は存在します。私はいます。理性的な人だけが人間である、という風に捉えることができそうで、理性主義に陥る可能性もあります。

 なあんにも考えなくても、自我は存在するのです。
 それだけが真実です。

 それだけに、キルケゴールの「《《主体性とは真実である》》」とは、まさに名言だと思います。他人? いるかわからないよ。自分はいる。確かに、それだけは確実。

 サルトルに移りますか。
 サルトルの名言で「実存は本質に先立つ」ってのがありますね。簡単に言うと、人間にはそもそも価値はない。行動して初めてその人が何者であるかの価値が付けられる、ということです。

 サルトル研究者のドナルド・D・パルマーの本『サルトル』から、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉をうまくかみ砕いた例が載っています。

 例えば、山の中腹に巨大な岩が道をふさいでいた、と仮定しましょう。

 Aさんは、その岩を観察し始めました。その人は『研究者』という本質を得ることになりました。
 Bさんは、その岩を丁寧に模写を始めました。その人は『芸術家』という本質を得ることになりました。
 Cさんは、その岩の大きさから、山に登るのを諦めました。その人は『敗北者』という本質を得ました。
 Dさんは、その岩をよじ登ろうと、果敢に岩に立ち向かいました。その人は『勇者』という本質を得ました。

 大事なのは、ここで例に出した4人とも、岩に遭遇する前は、何の本質も持っていない、ただの人だったということです。サルトルはこの状態の人たちのことを実存と呼んだのです。

 なんの価値もないもの、人のことを実存と呼んだサルトルです。ドイツ留学中に現象学に触れ、そのような価値観を持つようになったそうです。

 ハンナ・アーレントに移ります。

 ハンナ・アーレントはアーレント著『政治思想集成2』を読んでください。そこに、実存主義の変遷と、己の実存主義について書かれています。

 アーレントの実存は、人間です。深いことは覚えていませんが、キルケゴールの実存を他人も人間であると拡大解釈したものになっています。私も実存、あなたも実存。よって実存=人間、の立式が成立します。

 アーレントの実存の特徴は独我論から離れていることです。ここがキルケゴールの実存の全く異なる実存の提言です。

 最後に、アルベール・カミュで締めようと思います。彼の小説では、文字という概念にとらわれることのない、そのままの人間生活が書かれています。

 言葉にしたら、現実を集約してしまいます。実際の現実は、言葉という情報だけでは、決して語りつくすことのできない、生々しい困難が待ち構えています。

 例えば、暑さ。うだるように暑いときは、人は暑いこと以外考えられず、「暑い」とだけ思います。

 そこで、小説内の場面ですが、裁判にかけられた主人公は、法廷の中で証言しようとします。その際に描写されているのは、法廷内の暑さ、そして法律という言葉の概念を仕事とする裁判官が、扇子を持ってパタパタとあおいでいる姿。主人公は「太陽のせいで殺人を犯した」と証言します。暑さで頭が冷静ではなかった、という意味で証言をしました。それを聞いた聴衆達は一斉に笑い出し、「やはり殺人に手を染めるような、頭のおかしいやつだ」と思い始めます。そして《《その時もまた、聴衆達は太陽からの熱による暑さに耐えきれず、扇子であおいで聞いているのです》》。

 偉いも何もなく、ただ同じ人間として、カミュは登場人物たちを描きます。そのような点から、カミュの実存とは、概念上には存在しない、そのままのものとして、人間を事細かに分析するのです。


 ……いかがだったでしょうか。
 実存にはたくさんの種類がありますが、実存哲学の出発点はセーレン・キルケゴールに始まります。現実の中で真であること、現実の中では、注意深く観察すると偽であること、真とは認められないこと、すなわち僅かでも疑いようのあるもの。それを見つめていくのが実存哲学の一歩目です。この世の常識にとらわれず、「このことは本当に真なのか、それとも偽である可能性があるものなのか?」という問いを持って生きていければ、人生の当たり前の風景も、少しは変わって見えるのかもしれません。

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